「さらばリハビリ」~(23)医療ソーシャルワーカーより障害者研究の友人が心強い

 退院を間近に控え、区内のアパートで一人暮らしできるかを確かめるため、医療ソーシャルワーカーの同行で物件を見に行った。仮に入院した病院が板橋区なら、提供する住居は板橋区限定になる。患者が慣れ親しんだ土地を離れない配慮だと思うかもしれないが、私は引っ越し貧乏なので、杉並区から始まり、練馬区江戸川区、新宿区、そして豊島区に引っ越したばかりで発症した。

 つまり、板橋区は入院した病院が板橋区だからこれからも通院するかもしれないし板橋区以外には内見しないという、融通が利かない病院中心主義なのであった。

 実際に住んだとして、もしも不具合があって後悔したら、別なアパートを比較検討して転居する能力も体力も軍資金もないから、医療ソーシャルワーカーに「もっと物件がほしい」と要求した。おかげで物件候補は10数件あった。間取り図同士を比較検討し、ネットでグーグルマップを検索する。駅までの距離や銀行・郵便局、市役所、スーパー、コンビニのの有無や位置を確認。

 院内よりも院外のほうがよっぽど地獄とは思わなかったが、やっぱり地獄だった。社会は生き地獄、渡る世間は鬼ばかり。ウマが合わないなりに伝えなければならない相手も多いが、話して和解するよりも、いっそ決裂してまで相手に頼らければならない。それを思うと脳が萎縮する。私の対人関係は、私のなかで分裂している。せめて院内ではストレスフルの渡鬼な状態じゃなくて、ノーストレスのヘブン状態でいたかった。

 今後2ヶ月、医療ソーシャルワーカーに負担と発破をかけて生きなければならない。自分のことなのに自分ではできず、かといって相手に肩代わりはできやしない。それでも根気よく発破をかけ続けなければならない。痺れを切らして「もういい、お前なんかにまかせない!」とは言えず、最後の最後まで相手の仕事を見届けなければならない、相手が立ち去った後でも。だが、対人関係に淡白な私には耐えられるか自信がない。すぐに見切りをつけてしまいそうで、何だか不安である。

 …と、これがまあポンコツな医療ソーシャルワーカーで、病院の車の移動中、運転する職員に自分の彼氏の話をはしゃいでする奴に任せることなんかできるか! こんな奴に頼ろうとするなんて私の頭がどうかしている。

 障害学やっている友人が「こないだの震災もあったことだし、グループホームも候補に入れようよ」とか「知り合いのお婆さんが三鷹にある一軒家に住んでいるらしいから、シェアしたら?」とかレアな情報が入ってくる。医療ソーシャルワーカーより障害学の友人のほうがはるかに優秀だぜ。

 その友人に相談すると、「医療ソーシャルワーカー対策」として、当時の私が制作したであろう以下のファイルが見つかった。

 

  • 生活保護の申請(4月から):自分から働きかけないといかん(と自分に言い聞かせる)

→転居(引越、荷物保管など)のために使える制度があれば使える

→家族や友人がいないため、雇用して外出の付き添いを依頼する

→「今後の一生面倒見てちょうだい失敗したらあんたのせいよ」とプレッシャーかける

→失敗やおかしな軌道へ進んだら修正する(三鷹で自立する方向へ!)

 

▼週に3回は定期的に顔を見せて話す→好きになっちゃうかも?!

▼スケジュールを把握する

▼「この人は私がいないとダメになる」と思わせる

 

【結論】

アタシ顔に出るタイプだから女優失格

本当は陰で糸引くタイプから指令されるとなんかムカつく。「お前がやれよ!」

 

 ああでも、せめてほんのひとかけらのひとかけらでも「こいつはできる!」と思える相手を見たかった。なんて、後で失望するのは目に見えてるけど、最初から絶望して働きかけることの無力感&徒労感は想像もできない。やったことないから。

 それから、生活保護バリアフリー賃貸の問題が超ハードル。豊島区から移動しての保護申請はOKだが、手順が複雑すぎて、脳が壊れた私には荷が重すぎる。

 

1)豊島区の住所から安価のトランクルームに荷物を運ぶ。

2)豊島区の住所から三鷹市へ移転届を出す。→保護申請OK

3)三鷹市バリアフリー物件と契約する。足りない点は改修工事。→移転完了

4)七月。退院、三鷹市へ移動。おっと、通院しやすいところへシフトしなきゃ。

5)同時にWord/Excel検定一級取得、就職へ。事業所から人生勉強&人材流出するために外部へ出る。

6)保護申請終了。仕事して給金。さて、どうなることやら。

重度身体障害者はセクシュアリティやジェンダーに関係ない「代替不可能なもの」がある

最強のふたり(2011)』鑑賞。いやー、良かった。実話に基づくフランス映画で、頸椎損傷の大富豪フィリップと失業保険のサインが必要だったドリスが、なぜかフィリップの介護をすることに。ふたりは男性だが、初老の白人で金持ちで雇い主のフィリップと、若い黒人で貧困で雇われ人のドリスのカルチャー・ギャップは、一周回って互いの価値観を吸収し合い仲良くなる。

たとえば、フィリップの親戚はこぞって高尚なるクラシックの演奏会に出席し、クラシックを知らないドリスは「これよく聞く曲だ! 電話で『フランス就業センターです』ってアナウンスのバックにかかる曲!」「CMで聞いたことがある!」、現代絵画を高額で投資するフィリップに、ドリスが「こんな絵が4万ユーロになるなんておかしいだろ?! 白地に鼻血がついた絵なんて俺でも描けるぜ! いったいこんな絵のどこに価値があるって言うんだ? 金のためか?」と聞くと、フィリップは「この世に自分が生きた証拠が永遠に残る。絵だけでなく、詩や小説、音楽もな」と答える。フィリップが半年間文通で愛をしたためてきた女性を「その女はブスか? デブか? 障害者か? ちゃんと確かめないと半年間ブスと文通するなんて意味がない!」と手紙を奪い、彼女の電話番号を見てフィリップに無理やりかけさせる。おかげでフィリップは彼女としょっちゅう電話し、ついに彼女と面と向かって会うことになるが、待ち合わせの時間ぎりぎりになったフィリップは急に「帰る」と言う。

首から下が動かないフィリップは、夜になると原因不明の発作が起こり、ドリスは介護専用車じゃなくスポーツカーで高速をぶっちぎる。マリファナや煙草を吸い、障害者のブラックジョークで大爆笑し(これにはフィリップも大笑い)、車椅子の速度を時速3キロから12キロに改造する(気持ちいいだろうなあ!)。クラシックの代わりにお気に入りのソウルというかファンクというかブラック・ミュージックEarth, Wind & Fire “Boogie Wonderland”(オデも大好き!)でノリノリに踊る。とにかくドリスは介護職に関して非常識だ。しかし、在宅介護の規則は在宅の当事者が決める。雇い主のフィリップがドリスと気が合えばそれでOKだ。楽しくて、刺激があって、ときには子どもの教育の価値観もピタッとくる。文句なし。

一方、『潜水服は蝶の夢を見る(2008)』も実話に基づくフランス映画だ。あらすじ詳細は省略して、脳溢血に襲われた主人公ジャンドゥーは一命と記憶と意識を取り戻すが、重度の四肢麻痺と閉じ込め症候群(Locked-In syndrome)となる。かろうじて左目だけが彼の自由になり、他者とのコミュニケ―ションがとれるようになる(原作小説は彼の作品)。原題は『潜水服と蝶』であり、前者は動かない身体の閉塞感を表し、後者は「個人的な領域」の自由で限界のない想像力である。彼の性的ファンタジーは旺盛で欲望にきりがない。華やかなパーティーで目に入った女性は次から次へとモノにする。それに反して、現実は田舎の病院の庭で車椅子に見すぼらしく一人座っている。その対比は滑稽で醜悪だ。

最強のふたり』というタイトルは前から知っていたが、配信動画のサムネイルから類推して「これは感動ポルノだな」と勘違いし、担当PTが先日「コメディ調ですよ」と勧めてくれた。観はじめたとき「男同士のアレ(ホモソーシャル的なやつ)かー。フランスはアムールの国だしなあ(完全に偏見)」と思ったら意外や意外、男同士では絆がつながらず溝が埋まらない深刻な(経済的・人種的)格差の問題があった。が、価値観の一致は異文化を超えた。

現代絵画をオリジナルで描いたドリスはフィリップから多額な報酬を得る。同時に、息子のように見える弟がフィリップの屋敷に来るが、ドリスの家庭は複雑で、子どもができない伯父夫婦にドリスは養子に出され、その後伯父夫婦に二人の子どもができ、伯父は病気で死んでしまう(結局、義母が子だくさん家庭の稼ぎ頭となり、「自立しろ」と言われたドリスは家を出てホームレスになる)。

家庭の複雑さを聞いたフィリップは「車椅子を押して一生を送ることはできない」と言い、ドリスを解雇する。フィリップは新しい介護人を雇うが(「いままでの介護人は2週間で逃げ出した」という)、いくら金があっても代替不可能なものがある。それはフィリップにとってセクシュアリティジェンダーに関係なく、気の合った介護人である。

脊椎損傷を起こしたパラグライダーで再度フィリップは挑み、拒んだドリスも巻き込まれ、個人用セスナ機に二人でシャンパンを飲みながら搭乗する。最後に、気取らないレストランでドリスが「じゃあ俺はこれで。邪魔はしないよ、楽しんで」と言って立ち去り、代わりに文通相手がやってくる。フランスはやっぱりアムールの国だ。

ドリスは最初からフィリップの秘書(口述筆記や文通の代筆をしている)にモーションをかけていて、ドリスが部屋を立ち去るときも口説き、秘書が恋人の女性を連れてきたが、「3Pでもどう?」とドリスの耳元で囁く。何度も騙されたドリスは冗談だと思い、彼女と握手する。さすがフランスはアムールの国だ。

「さらばリハビリ」~(22)暇つぶしの1000ピースパズルがリハビリに?

 回復期病院とはいえ、言語障害はST(または一部のPT)にしか理解できない。私はますます話すのが苦痛になった。ネットPCは飽きたし、本も物理的に読みづらいしで、私は膨大な暇つぶしをするため、1000ピースパズルを3種類、ネットで購入した。パズルはリハビリのときも、休憩時間のベッドでもやり続け、それでも完成しないから次の日、また次の日にやり、そのうち私は飽きてしまった。飽きっぽくて移り気な性格が恨めしい。

 1ヶ月ぶりにパズルを開いたら、俄然集中してしまった。PTが「10分だけね」と言うのを20分も延長した。それくらい、以前のスピードではかどった。このままずっと何時間でもできる。最後に完成させられる。

 かつてと違ったのはなんだったろうか。一つは体力(=集中力)、もう一つは環境。パズルのピースを全部並べられるほどの広さ。その環境がダメなら、集中力なんてすぐ萎える。はかどらない限り萎えつづける。そして辞める。二度と開かないように。そして忘れる。二度と思い出さないように。

 この二つが変わったら、みるみる違った。私、本当はパズルが大好きだったんだ。ワクワクしてきた。次のリハビリの時間が待ち遠しい。早くやりたい。

 ちょっと待て私。パズルごときでこんなに世界が開けていいのか?  前途洋々、順風満帆でいいのか? と疑心暗鬼の暗中模索になるが、まあいいや、明日は明日の風が吹く。馬耳東風。一時はMOSマイクロソフト・オフィス・スペシャリスト)検定を取得しようと思って教科書を買ったが、htmlやエクセル、ワードのテキストもこれくらい夢中になり、スポンジがどんどん喜びの水を吸収するようにならないかなあ。と、パズル探しは徐々に祈りの声になっていく。

 リハビリを時間外にする自主練を2つお願いした。パズルと左脚の個人特訓。いわゆる闇練、陰練である。

 パズルは3分の1完成。20分、20分、30分でここまで。あと90分くらいかかるか。パズルは完成途中だが、記念に写真を飾る。もうちょっと完成したい。

 朝イチで主治医の往診。脚の様子はほとんど見ない。私のたどたどしい意見や経過報告を聞く。湿布は貼らなくてOK、添木はナースをいちいち呼び出さずとも自前でOK、いよいよがっつりリハビリをやっていきましょう、と強いお言葉をいただく。

 入院から1ヶ月ごとに開かれるミーティングで、先日聞いた外出許可の話もタイミングよく検討される。OTだけでなくPTでも全部歩いてくださいと言うが、それこそがっつり歩くとオーバーワークになるだろう。二の舞を演じまい。

 パズルほぼ完成。今日1日では終わらなかった。ピースはめ込みもう1日、糊でならして乾いてさらに1日、固めてはがしてケースに収納にてまで1日、あとトータルで3日かかる。その間にアマゾンでニューパズルを注文しとこうか。

 OTが私に訊いて答えるのは、世界最小ジグゾーパズルだということ。開けてないけど、ピースは小さいんだろうなあ。

 STのリハビリ時間。朗読をすることになったけど、微妙なピッチ配分が気にかかって、リズムを早めると口がもつれて台無し。

 これは一つ、あのキャラを拝借しよう。戦場カメラマンの渡部陽一である。彼は中東で活動し、ゆっくり話せば誰でも理解できると言っていた。そう思って渡部さんをイメージすると、朗読はみるみるうちになめらかになってゆく。で、いつの間にかピッチじゃなくて声色を真似している。私は渡部陽一キャラになっていた。

 失笑したSTが、「渡部さんも、こんなリハビリのなかにまで参考にされて真似されてねえ。思っても見なかったよ〜」。そして関心と諦め混じりため息混じりである。ついでにベレー帽とヒゲも用意しよう。

 宣言。来週中、オムツは卒業する。言っておくがお漏らしはしてないぞ!

 あと一息で完成というのに、リハビリ作業の場所に行くと、瞬く間にパズルバラバラ事件の現場となった。私の病室にはもはや置けないので、作業の棚の上にパズルを乗せたが、お掃除の人がやったらしい。OTが平に謝るけど、パズルが完成してるなんて思ってない。仮留めもいいところで、かえって300ピース@六歳対象で軽い教訓を得たと思った。パズルは毎回持って帰ろう。これが1000ピース世界最小ジグゾーパズルだったとしたら憤死間違いない。

 「私も一緒にやります! 手伝います!」と責任を負ったPTとともに、めちゃめちゃ急いで一気にやった。しかも立って全体像を眺めながら。なんとかして現状復帰させるが、いつも時間制限をあっさりと宣告するPTが、「時間です、どうしましょう?」といきなり相談してきたので、立場が変わると言うことも変わるなあと関心。

 いつも静かに後ろ髪を引かれて立ち去るのに、OTはタイムアップと言いながら堂々とパズルをハメている。「私、あなたの気持ちがわかります! パズルってハマると気持ちいいし、時間を忘れてやりたくなるのもわかります!」

 この一週間、私が熱中する様子を見てパズルに参加し、そして私以上にめちゃくちゃどツボにハマっているOTがいた。犯人はこいつに違いない(笑)。

 というわけで、この項目は私が当時PCでつけていた日記を引用した。暇つぶしとリハビリを兼ねて数ヶ月つけていたが、読んで思い出すと笑いと怒りが同時に込み上げてくる。実に複雑な感情である。

「さらばリハビリ」~(21)STが勧めた「高次脳機能障害」の本

 急性期病院のSTが、私の症状を聞いて、「もしかするとこの本に出てくる症状かもしれない」と紹介してくれた。STは主治医より脳疾患患者の症状を詳細に知っている。STにとって、心理学を学ぶことは重要だ。どの患者もみな個性や症状が違うし、障害の受容のしかたも違う。
 そのため、患者がどの受容期にいるかによって個々の心理的な対応方法も異なる。
そして本人だけでなく家族の心理的アプローチも必要となる。訓練をして機能的な能力を改善するだけではなく、心理的サポートも行うことによって、本人の訓練のやる気も向上し、訓練効果も上がる、といった作用もある。そして、心理学系の大学を卒業した人がSTを目指すといったパターンもよくみられるのである。それほど心理は大切なのだ。

 脳梗塞や事故などのさまざまな原因で、左脳の「言語野」という部位に損傷が及ぶと、相手と対話するコミュニケーション機能の障害、「失語症」が起こることがある。失語症は単に話せなくなる症状と思われがちだが、そうではない。自分の意図を言葉で表現できず、相手の言葉が聞こえてもその意味を理解できない。言葉の「意味」そのものが失われてしまうため、文字も認識できなくなる。つまり、「話す」「聞く」「読む」といったコミュニケーションにかかわる行為が一切できなくなるのだ。

 失語症は、言語や記憶、モノや空間の認知、思考、目的を持った行為などの複雑な「高次脳機能障害」の一種で、頭のなかで言語を操る能力が失われた状態だ。失語症の人は言葉のわからない外国にたった一人でいるような状況で、その辛さ、孤立した心細さは大変なものである。そこでSTがその人らしく生きる生活を取り戻すサポートを行うのである。

 失語症リハビリテーションでは、患者の障害となっている機能の改善と、保たれている機能を有効に使ったコミュニケーションを、バランスよく組み合わせて訓練する。具体的には、刺激法といって物品の絵を描いたカードを使い、モノの名前を復唱して形と意味をつなげていく方法などをとる。これらの訓練はSTと患者が一対一で行うが、失語症のリハビリで大事なのは、STと医療スタッフ、家族、介護者が連携してコミュニ ケーションの改善に取り組むことである。STには患者の「今できること」を最大限に生かしながら、患者心理にも配慮しつつ、さまざまな場所でさまざまな人との意思疎通をサポートする視点が重要なのだ。

 STが紹介くれたものは、山田規玖子『高次脳機能障害の世界』という本で、私はすぐに注文して読んだ。山田さんは医師で、もやもや病のため、脳血管が3回破裂している。3度目の脳出血で山田さんは右片麻痺となり、整形外科医を断念し、高次脳機能障害のカウンセラーや講演会などをやっている。子どもを生んだばかりなので、リハビリを通じて懸命に子育てをしていたのだろう。

 もやもや病とは、脳底部に異常血管網がみられる脳血管障害である。脳血管造影の画像において異常血管網が煙草の煙のようにモヤモヤして見えることから、この病名となっている。かつてはウィリス動脈輪閉塞症が日本における正式な疾患呼称だったが、2002年より現在の呼称が正式になっている。

 医師でありながら患者としての貴重な経験もあり、両者のバランスがとれている本だと感じ、『壊れた脳 生存する知』『それでも脳は学習する』も読んだ。これらは私のバイブルだと思い、この文章を執筆するため、『高次脳機能障害の世界 第二版』を読もうとしている。

 病院や施設で訓練するだけがリハビリではない。暮らしのなかでリハビリをできる。OTが行った買い物や調理、掃除などのリハビリはさることながら、『なんでもできる片麻痺生活』という本を読み、餃子のつくりかたや一人で爪を切る方法などを学んだ。

 何事にも先人はいるし、パイオニアスペシャリストがいる。ただ、それは医者やパラメディカルではない。高次脳機能障害のパイオニアは山田さんだ。私は彼女を心の師匠と呼びたい。

「さらばリハビリ」~(20)さまざまな高齢女子(?)患者

 回復期病院に入院したころ、私の気持ちはミソジニーだらけでいっぱいになり、同室の患者と一言も話さなかった。女子会ならぬ団子ババアたちは固まって食事をとり、メンバー以外は話さない閉鎖的なグループに見えた。

 私は同室患者に興味と関心があったわけじゃない。単なる暇であり、他に観察する対象がなかったからしかたなく日記をつけていた。患者たちに送る私の眼差しは、偏見と侮蔑が入り交じっていた。日記の例を挙げてみよう。

 

Kさん90歳の悲劇的茶番

 病室の隣に座っているのがKさん90歳である。なぜ名前の次に年齢を添えるかというと、しまいには言うことがなくて「今年の○月○日で89歳になります」を必ず言う。相手は「じゃあ、90歳ですか! お若いですね!」と必ず感心して答える。挨拶を何度も聞いた私はうんざりである。すり切れたレコードは1枚でいい。判で押したような会話のパターンは二度と聞きたくない。

 といっても、カーテン越しにいびきでも寝言でもため息でも聞きたくないのに聞いてしまう。これはもう無自覚無配慮の暴力である。今日はじめて会ったリハビリスタッフに、「今年の○月○日で…」と言うと「またそれかよ!」と思わず黙ってツッコミを入れてしまう。ちょいボケのKさん90歳は味を占めて、初めましての人に必ず挨拶する。ほかに褒めるところがないので、最高齢であることをアピールして「すごいですね!」と褒められる。それで終わりである。

 私はかなりの神経質で、修学旅行のグループでも最後の一人になってみんなの寝言を聞いた思い出がある。人々の寝息を聞き届けて安心する…ってそんなころからお母さんかよ!(糖尿病の血糖値が高いと眠れないという説あり、そのせいで自分はいつも寝そびれると思っていた。血糖値が標準になると、うって変わってスヤスヤだ)

 そんな私でも平均年齢70歳の病室メンバーは最強である。夕食が7時で、面会が8時の退館時間になるとギリギリまで送っていく。戻ってビックリである。みんな夜の身支度を終えて全員熟睡の爆睡。これはたまげた。その後、身支度する私の気まずさといったら。「睡眠は静かに」という規範は鉄板の鉄板。いくら私でも規範を逸脱できやしない(いややってるけどね)。

なんといっても、Kさん90歳、Wさん80歳、Tさん70歳のいびきサラウンドはすごい。あるいは寝言交響曲か。Kさんは鼻が詰まっているので睡眠呼吸障害があり、聞いているだけでもうるさくて息苦しい(そして眠りが浅い)。つづいてWさんは醒めた恨み節でブツブツつぶやいている。まるで起きているかのようである。新入りの物静かなTさんは、睡眠中はキャッキャ楽しい乙女である。しかも入れ歯を外しているので、判別不可能かつ不明瞭な発音だらけである。ざっと雰囲気だけで嬉しい可笑しい楽しいのはわかる。なんとなくだけど。

 Kさん90歳は、去年の年末に階段から転倒して大腿骨を骨折。ポッキリおれた骨をボルトで接続し、傷がふさがるまで安静にし、それ以来、衰えた筋肉を毎日毎日リハビリして、いまでは杖1本で二足歩行できるようになった。素晴らしきスーパーおばあちゃんである。隣室を通るとき、一足ごとに「ぷっぷっ」と言うけど、そんなものは全然気にしない(嘘)。

 あるとき、そのKさん90歳に大腸がんが見つかった。手術で患部を切開し、病巣はどこまで広がるかは不明だが、人口肛門を取りつけるらしい。Kさん90歳はショックで、その日はお風呂に入らなかった(答え:面倒くさいので)。よく面会にきている初老の男性はKさん90歳の息子だが、大人しくて優しくて、いつもKさんの話に耳を傾けている。曰く、「せっかく今日まで頑張ってきたのに」「手術したらあたしはもうダメ」と、女優ばりの迫真の演技。事情を知らない人なら思わずグッと同情する。

 けれども、面会時間がすぎた息子さんが別れを言って立ち去ると、Kさん90歳は楽屋に戻って小休止。「ああ、今日もいい演技だった」と、おはぎパクパク、おせんべポリポリ(注:夕食後だよ!)。

 いつも隣にいて、茶番劇の一部始終を知っている私は、「今日の女優はいまいちだね」「セリフ飛ばしすぎ」「まだ泣くの早いだろ」と、静かなるダメ出しをしている。

 しょーっしょっしょ…

 Kさん90歳の起床である。着替えなどの動くとき、静かな気合いを入れているのがわかる。「よいしょ」の反復が簡略化して「しーっしょっしょ…」「しょっしょ、しょっしょ…」とかけ声をするのは、まだいい。そして、周囲の迷惑にならないよう、[sh]の摩擦音が耳につくのもまだいいとして、これは気合いをいれるより独り言のほうが大きいのではないかと思う。だって実際、動きの音はしていなくて、ベッドで寝転んだKさん90歳がずっと、「しょーっしょっしょ…」「しょーっしょっしょ…」と唱えてるのならそれは手抜きで寝言じゃんか! いい迷惑だよ!

 しかし、ときには「しょーっしょっしょ…」を聞くと、心は何も動じないときと、[sh]を耳にして「ああっ、もうっ!」とイラついてテレビのイヤホンを乱暴に耳に押し込むときがある。独り言は私のバロメーターだ。

 そのくせ、都合の悪いことは「え?」と聞き返して耳が遠い女優の迫真演技を見せるのだが、PCのキーボードを打つ音を「うるさくて眠れない」と被害者ぶるのはやめて! あんたもともと鼻詰まってて九時まで起きてんじゃん! くそっ!

 結局、Kさん90歳と私は仲良くなった。リハビリのとき、窓辺の廊下に座ってぼんやり日向ぼっこしていたKさん90歳に、私とOTが笑顔で手を振ったのだ。Kさん90歳は、それをまともに受け止めた。

「私ね、あなたのことは気難しい人だ、神経質な人だと思っていたんですよ。最初は誰とも話さなかったから」

 なるほど、ごもっとも。私も同感である。私は言語障害になる前から「誰も話しかけるなオーラ」を滲み出していたのかもしれない。

 同室の患者のなかでKさん90歳が最初に退院していった。といっても、Kさん90歳の骨折は治りが遅く、治癒するのに平均で3ヶ月かかるところが半年もかかった。

 やがて同室患者は退院し、代わりに新患が入院した。いつの間にか私は古参になっていた。食堂の女子会は自然解消していた。

 あるとき、食堂で飲み物の自販機の側にいた私に、「これ、いくらかかるの?」と声をかけた人がいた。振り返るとその人は、首にギブスをして肩まで固定していた。「100円もかかりませんよ」と私はゆっくりと答えた。その人は笑わなかった。

 首にギブスをした人はMさんといった。Mさんは自宅玄関の階段で転び、首を骨折した。骨はくっついたが、どうも歩きかたがおかしい。

「歩くことは歩けるけど、足元がふわふわするの」

 Mさんは不安そうだったが、私はもともと片脚に力が入らないので、その不安を共有することはなかった。

 Mさんも私も読書をした。窓際のMさんは、双眼鏡を覗いて空飛ぶ鳥を観察していた。Mさんは鳥の種類を多く知っていて、「あれは○○、こっちには△△がいる」と私に教えてくれる。鳥といえば、カラスか雀、鳩が精一杯で、よく晴れた空に鳶が悠々と飛ぶ姿をたまに見かける。池や川に泳いでいる鴨はいつ見ても「美味しそう」としか思わない私である。Mさんの夫が頻繁に見舞いに来て、仲良しそうだった。

 私が退院するとき、Mさんは歩いてエレベータまで見送りにきた。最初は荒んでいた入院生活だったが、終わりには平和で穏やかだった。

 

 

 

「さらばリハビリ」~(19)障害者こそネットがなければ生きられない

 小学校低学年のころ、私は本を読むのが苦手だった。まったく頭に入ってこなかったし、長いこと読書をすると頭が痛くなった。中学生のときは詩を読んだ。寺山修司中原中也萩原朔太郎室生犀星など、詩は短くてインパクトのあるフレーズが多く、夢中で読み、私も真似して詩を書いた。日記代わりに詩を書いて、ノートの詩集は何冊も積み重なったのだが、いつの間にか書かなくなり、ノートも捨ててしまった。

 高校生くらいになると、カミュカフカランボーなど、文部省推薦図書にはまったく存在しない本、毒がある本、つまり「毒書」を求めて読んだ。夢野久作安部公房倉橋由美子なども好んで読んだ。

 子どものときには外で転げ回っていたのだが、大人になるにつれて読書するインドア派になった。

 このように私は根っからの読書好きでもないし、活字中毒を自覚するほどでもない。ところが入院してからは、患者同士の会話も煩わしいし、喋りのテンポについていけないだろうと思い、ネットPCや買ってきた本を読んでほとんどの時間を過ごしていた。

 入院当時の私の関心は「脳梗塞 後遺症」の鬼検索であった。動かなくなった手足をどうやったら動くようになるのか、当事者の工夫や自助努力、プロの療法士のアドバイスや知識など、吸収できるものは何でも吸収した。ときには暇つぶしに、投身自殺をした岡田有希子のリンクを深くたどったが、目新しいものはなかったことを覚えている。

脳梗塞から片麻痺になると、腕と脚が動かなくなるけど、脚は先に動くようになって、腕の回復は遅い」と友人から教わった。本来なら主治医が伝えるべきだが、脚は腕より動きが単純で、脳の運動神経を占領する域も広い。腕は脚より動きが複雑で、友人の言を聞いてもっともだと思った。

 9年の療養生活により、脚は何とか歩けるようになったが、腕はまったく動かない。ときどき、調理をしてて野菜や肉を切るときに、左手を添えて切ることがある。私の左腕は少しだけ役に立つ。だが私は動く右手で生活をカバーしたい。片手でリンゴや梨を剥くことができるし、片手でキーボードを打つこともできる。訪問介護ヘルパーには極力依頼しない。洗濯も掃除も、時間をかければ一人でできるのだ。

 なるべく他人に依存しない生活をしようと思ったのは、『片手で料理をつくる―片麻痺の人のための調理の手引き』(1998年、遠藤てる)を入手してからだった。餃子の皮の包みかたまで載っているが、餃子は冷凍物か出来合いのもので間に合っている。右手の爪の切りかたも載っていたが、爪が切りすぎて怖くてできなかったし、訪問看護では爪切りを任せているから安心だ。いまは「じゃがいもの皮むき」を片手で研究している。リハビリで動く努力よりも、現状ではまだ動かない麻痺手で工夫して調理するほうが、よほどリハビリだと思う。

 ところが、当時の脳梗塞後遺症患者の人たちのブログは、まるで「文部省推薦図書」を手本にしたように、「動かない手足を一生懸命動かして、自分で感謝しましょう」「ひたすら『動け! 動け!』と念じればいいのです」と平然と書いてあった。これでは読者にとってはリハビリを信仰することを前提に読むしかないじゃないか! 当然、私は拒否反応するしかなかった。私に合ったリハビリサイトはいまだ見つかっていない。

 ネットを読み物にすることを諦めた私は、今度は便利な片麻痺グッズを検索した。いまの時代、ネット検索で買いたいものはたくさん出てくる。テレビで内田裕也の杖を見て「かっこいい杖だなあ」と思い、取手が銀色でボディが黒のおしゃれな杖をネットでゲットした。福祉装具などのデザインは超ダサい。それこそ本や衣服、食べ物、パズルなども入院中に購入した。

 初めてPCを買ったとき、検索して購入したのは布ナプキンだった。もはやないものはないネット通販だが、たとえば重くて持ち運びにくい米はネットで購入する。いまこの部屋にあるもの、長テーブル、リクライニングチェア、シーリングライト、エアコンなどなど、店に行って物色して自宅へ帰ることをしなくなった。すべてこの部屋で検索して購入し、大きな家具はヘルパーさんに組み立ててもらう。ケアマネの連絡もメールである。前の部屋では家賃の振り込みがインターネットバンキングだった。この世にネットがなくなったら、私はどうやって生きていけばいいのか、本当に困るのである。

「さらばリハビリ」~(18)パラリンピックの本当の意味と原点とは?

 リハビリテーションの語源はラテン語で、re(再び)+ habilis(適した)、すなわち「再び適した状態になること」「本来あるべき状態への回復」などの意味を持つ。また、猿人と原人の中間に意味するホモ・ハビリス(homo habilis、「器用なヒト」)が、道具を使い人間にふさわしいという意味でも用いられ、適応、有能、役立つ、生きるなどの意味も含有し、リハビリテーションの語源ともいわれている。

 ほかに「権利の回復、復権」「犯罪者の社会復帰」などからの意味合いがある。なお、ヨーロッパにおいては「教会からの破門を取り消され、復権すること」も意味している。このように欧米では、リハビリテーションという言葉は非常に広い意味で用いられている。

 リハビリテーションの歴史を紐解くと、第一次、第二次世界大戦ベトナム戦争などがきっかけで、アメリカにおけるリハビリテーションが発展したという背景がある。特にベトナム戦争では、精神的にも身体的にも傷ついた兵士を、どうやってアメリカ社会に戻して適応させるかは大きな問題だった。そこで治療や職業訓練の技術も発達した。リハビリテーションのみならず、義肢装具なども世界の最先端な理由はその歴史によるものである。

 近代から現代にかけては、障害者の独立生活や障害者の権利の獲得に大きく社会が動いたのもアメリカの特徴で、特にIL運動(Independent Living:自立生活)は、重症心身障害者でも人の手助けを借りて自立した生活を営む権利があるとして、大きく社会の障害者に対する見かたを変えるきっかけになったのではないかと思う。

 2016年、連日熱戦が続くリオ・パラリンピックだったが、NHKクローズアップ現代+』の鎌倉千秋キャスターは、「みなさんは、パラリンピックの原点が戦争で傷ついた兵士たちの大会だったことをご存じでしょうか」と取り上げた。「1948年、第二次世界大戦の負傷兵のために、イギリスでアーチェリーの大会が開かれたのが原点でした」

   日本では、「先天的な障害」や「事故などでの障害」を負った人たちの大会と捉えられがちだが、外国では戦場から帰還した負傷兵も数多く参加していて、番組が取材しただけでも、今回の大会に17か国の兵士が出場していた。

   アメリカのブラッドリー・スナイダー選手は元米海軍の兵士で、2011年にアフガニスタンに派遣され、両目を負傷していっさいの光を失った。「私の任務はタリバンたちが埋めた無数の地雷を探すことでした。そのとき、私の50センチ前で地雷が爆発し、その瞬間、死を覚悟しました」

   スナイダー氏は3日間生死の淵をさまよった末、一命はとりとめたが、両目を摘出し義眼での生活を余儀なくされた。弟たちにとって自慢の兄だったが、戦場から帰った姿は見る影もなく、家の中で迷子になるなど何もできなくなっていた。

   そんなスナイダー氏にとって一筋の光となったのが、少年時代から続けてきた水泳だった。絶望を振り払うかのように、かつて慣れ親しんだプールに通い続けた。コースロープや隣のレーンの選手にぶつかりながらも練習を続け、4年前のロンドン・パラリンピックで優勝、リオ・パラでも競泳50メートル自由形などで他を圧倒して金メダル輝いた。

   番組によると、イラクやアフガンに派遣された米兵は270万人。そのうち97万人、実に3人に1人以上が心身の障害を訴えていて、そうした兵士たちへの補償額は1兆4700億円にもなる。補償額は年々膨らむと予想され、アメリカやイギリスでは負傷兵の社会復帰を促すため、パラリンピックをはじめとするスポーツに活路を見出そうとしている。

   国民に向けて作られたPRビデオには、そのリハビリ・プログラムも紹介されている。米軍のプログラム担当者は悪びれもせずにこう言う。「パラリンピック・プログラムはやる気を引き出す仕組みです。回復した兵士の姿を見せ、他の負傷兵を奮い立たせるのです」

   PRビデオを見た鎌倉キャスターは、「スポーツ、パラリンピックが、再び戦場に戻るサイクルに位置づけられているんですね」。

   早稲田大学スポーツ学科の友添秀則学術院長は「極めて残念ですね」と語る。「オリンピックやパラリンピックというのは、国際親善や世界平和を最高の理念にしています。しかし、現状はスポーツを利用して、もう一度戦場に戻らせる。皮肉な言いかたをすると、人間の業みたいなものを感じます」

   鎌倉キャスター「今後、パラリンピックというものの性質が変わるかもしれない段階で、われわれは東京大会を開くにあたって、どんなメッセージを発信していくべきでしょうか」。

   元陸上選手の為末大氏はこう話す。「昔、ヒトラーがオリンピックを利用したという例もあります。スポーツ自体に善悪があるわけではなく、運用する私たちがどんなメッセージを込めるかということが大切だと思っています」

   平和の祭典というのは、幻想なのかもしれない。近代オリンピックの由来は、19世紀末のソルボンヌ大における会議で、フランスのクーベルタン男爵が古代ギリシャオリンピアの祭典をもとにして世界的なスポーツ大会を開催する事を提唱し、決議されたというのは有名だ。

 ギリシャ神話に残るオリンピアの祭典の起源には諸説ある。ホメーロスによれば、トロイア戦争で死んだパトロクロスの死を悼むため、アキレウスが競技会を行った。これがオリュンピア祭の由来であるとする説がある。別の説によれば、約束を破ったアウゲイアース王を攻めたヘーラクレースが、勝利後、ゼウス神殿を建ててここで4年に一度、競技会を行った、といわれる。

 さらに別の説によれば、エーリス王・オイノマオスとの戦車競走で細工をして王の馬車を転倒させて王を殺し、その娘・ヒッポダメイアと結婚したペロプスが、企てに協力した御者のミュルティロスが邪魔になったので殺し、その後、願いがかなったことを感謝するためにゼウス神殿を建てて競技会を開いた。ペロプスの没後も競技会は続き、これが始まりだ、というものである。

 いずれにせよ、神話に残る競技会は何らかの事情で断絶し、有史以後の祭典とは連続性をもたない。なお、これらの伝承のうちのいくつかは、エーリス市民らがオリンピックの由来を権威づけるために後に創作したものも含むと考えられる。

 私はもともとオリンピックには、疑いの目を持っている。近代オリンピックは開催国に経済的活性をもたらし、競技は国家間の代理戦争である。パラリンピックは、主に肢体不自由の身体障害者視覚障害を含む)を対象とした競技大会のなかで、世界最高峰の障害者スポーツ大会であり、1960年にスタートした。

 要するに、元負傷兵という粗大ゴミをリサイクルのためもう一度社会に送り出し、戦わせるのがリハビリテーションである。粗大ゴミと言うと失礼かもしれないが、人間全体が地球を汚染するゴミに違いないと思う。リハビリテーションの対象者は、老若問わず、身体機能が壊れた人が対象である。複雑骨折もいれば、片腕・片脚がない人もいるし、脳疾患で身体機能が壊れた人もいる。

 戦争や事故が原因で、まだ20代30代の身体欠損した若者がパラリンピックを目指して練習し、見事アスリートになるならまだしも、体力が衰え始めた脳疾患患者が懸命に散歩する姿は醜くて浅ましいと私は思う。脳性麻痺の友人が「施設はトラウマ」と言った。幼少のころから治るはずもない厳しい訓練をし続けたのだろうと私は推測するしかなかった。