「さらばリハビリ」~(17)「リハビリはやっただけ回復する」の嘘

 私が回復期病院に入院して2ヶ月くらい経ったころ、一人の老婦人が車椅子に乗ってあらわれた。彼女は大きなフレームの眼鏡をかけ、総白髪のショートボブのヘアスタイルで、まるでフランス辺りの映画プロデューサーみたいと私は思い、興味を持った。私は彼女に話しかけ、私と同じ脳梗塞を発症した、と言っていた。

 しかし、入院して間もないころ、彼女は唐突にスタスタと歩いていた。彼女に何が起こったのか担当のPTに訊くと、「寝ていたときに治ったのかもしれませんね。でも急に歩いたら転ぶかもしれませんから、歩行練習をしているんです」と答えた。

 退院する彼女に訊くと、「確か寝ていたとき、手脚がピクピク動いたんです」と答えた。Oさんの説とぴったり重なった。「私も寝ているときに治らないかなあ」と笑ってつぶやいた。

 渡辺一正『再起する脳 脳梗塞が回復した日』(2010年、幻冬舎ルネッサンス)やジル・ボルト・テイラー『奇跡の脳―脳科学者の脳が壊れたとき』(2012年、新潮文庫)を私は図書館で借りて読んだ。なんだ、単なる自慢話じゃねえか、奇跡は奇跡でもプラスの奇跡かよ、マイナスの奇跡はたくさんあるぞ、と私はムカついた。本物の自慢なら「脳卒中になった私はリハビリなしで偶然回復した!」っていう本を出さないと。

 でも実際、「リハビリなし」で完全回復した患者たちの本はまったく出されない。それも事実だというのに、「努力、根性、血と涙と汗、そして驚くべき奇跡! 感動の実話!」というありきたりなドラマがないと読者諸氏は金を出さないから出版社の編集者はやる気が出ない。読者は最初から「こんなストーリーが読みたい!」と欲望している。欲望しないドラマは存在しないし、脳疾患患者たちは「リハビリなし」で退院した者たちを現場で目撃しているのに、まったく見ようとしないし、彼らも沈黙したままである。このように「リハビリ信仰主義」は互いを自己洗脳しようとしているらしい。まったく恐ろしい世のなかである。

 現在、私を在宅訪問の担当になっているOTはこう言った。「以前担当した高齢者は、脳疾患でリハビリする努力の人でしたが、真夏の炎天下も散歩しようとして再発しました。汗で水分を急速に失い、血中濃度が高くなったと思います。無理なリハビリは死にます。でもご本人は全然無理だと思っていません。努力するのはいいんですけど、死んでしまったら、もっと深刻な後遺症になったら本末転倒じゃないですか」。

 私も強く同意する。かつての高齢者は、高度経済成長期に働き盛りだったに違いない。定年退職後に脳疾患に倒れたが、かつての成長期を信じてリハビリで復帰しようとする姿が目に見えそうだ。でも成長期は終わって、現在は世界的経済不況である。さて、リハビリ信仰主義の諸君、働き盛りの脳疾患予備軍の諸君、あなたたちはいったいどうするのだろうか。「いくら頑張っても成果が見られない」ことは現実なのか、それとも幻想にすぎないのか。

「さらばリハビリ」~(16)大島渚の「リハビリ拒否」

 あるとき偶然、大島渚のドキュメンタリー番組を回復期病院のテレビで観た。大島渚は1996年1月下旬、10年ぶりの作品となる『御法度』の製作を発表した。しかし、同年2月下旬に渡航先のロンドン・ヒースロー空港脳出血に見舞われた。その後、3年におよぶリハビリを経て、1999年に『御法度』を完成させた。私も『御法度』を観たし、パンフレットも買った。

 その後、再び病状が悪化し、リハビリ生活に専念した。2008年7月28日に放映された『テレメンタリー パーちゃんと見つけた宝もの〜大島渚小山明子の絆〜』や、同年8月17日に放映された『田原総一朗ドキュメンタリースペシャル「忘れても、いっしょ…」』において、神奈川県鎌倉市聖テレジア病院で言語症と右片麻痺のリハビリに励む姿がオンエアされた。

 私が観たのは再放送の『テレメンタリー』のほうだった。女優の小山明子は大島の妻であり、介護生活に疲れて鬱状態だった。大島渚脳出血を発症したが、制作発表した『御法度』の撮影のため、何度も「カット!」と叫ぶ練習をしていた。監督業として舐められたらいけないと思い、懸命なリハビリを行った。

 脳疾患が再発し、今度は言語障害と右片麻痺の後遺症である。監督業は引退がないから、『御法度』が最後の映画作品となったのかもしれない。その『御法度』が無事公開され、気持ちが緩んだのか、再発して身体が悪化してしまった。再発後は一切リハビリせず、小山の介護で生活するが、大島は小山に怒鳴ってばかりいて、自分は何もできなかった。車椅子で座ったままの両脚は拘縮し、脚を伸ばす機械にかけられた大島は、「痛い痛い痛い!」と叫び、怒鳴り、小山に八つ当たりをしていた。

 彼がなぜリハビリを辞めたのか、私は推測した。「もう映画は充分撮った」と彼は思い、監督業を引退したのかもしれない。だが、生きていることは引退できない。リハビリしないと日々の生活は不便だし、小山の負担が増える。もしかすると彼は、「心が折れた」のかもしれない。大島渚、64歳から81歳までの闘病生活だった。

 多くの人は、彼が不幸な晩年を送ったと思うだろう。しかし、大島がリハビリを辞めたことは私にとって希望だ、生きることのストライキだと思った。妻に負担や面倒かけるのは障害の有無には関係ない。彼の映画も生きざまも敬意に価すると思った。

「さらばリハビリ」~(15)急いでリハビリする必要はあるのか?

 脳梗塞を発症したとき、死んだ脳細胞の浮腫ができているかもしれないので、安静にしていないといけない。が一方で、動かなくなった手足を早いうちに動かさなければならない。

 アメリカの病院ではさっそくリハビリを開始した。言葉はまったくわからないが、療法士がきて私の手足を動かした。日本の病院でも同じだった。

 日本の急性期病院のPT担当は親しみやすい性格で、私の左腕をマッサージするように動かした。私は「痛い痛い!」と叫んだが、ドSなPTは笑顔で「動くと念じて! 動け動け!」と何度も私に語りかけた。私は「マジ無理! 動かないもんは動かないんだよ〜!」と反論したが、強制的なリハビリは続く。私は諦め、されるがままにした。

 まったく動かさないと筋肉が縮み、関節包外の軟部組織が原因で起こる関節可動域が制限されてしまう。つまり拘縮である。生理学的には、活動電位の発生の停止により筋が弛緩しなくなる現象である。頭ではわかっていたが、動かすととびきり痛いし、いつも疲れているし、やる気も皆無だった。

 在宅のPTは、訪問リハビリのときに毎回必ずしつこく言った。「可哀想に〜、左腕全然かまってもらえないんだね〜」「今日も手の甲がふっくらして、クリームパンみたいで美味しそう♪」。皮肉と言えば皮肉だが、「ごめんなさいごめんなさい」と私は笑って言った。でも相変わらず私は左腕をまったくかまおうとしない。それはなぜか。

 退院した私は、動かない手足が動くようになる方法をネット検索した。「鍼灸で麻痺が治った」という治療院も行ったし、栗本慎一郎考案の「ミラーボックス」も購入した。「川平法」導入の病院にも通った。慶応義塾大学病院の「BMI(Brain Machine Interface)療法」や、東京慈恵会医科大学の「TMS(Transcranial Magnetic Stimulation)経頭蓋磁気刺激療法」に門前払い覚悟で行った。でも結局全部ダメだった。

 鍼灸治療は施術師に「おそらくあなたには効果はあらわれないと思いますので、もう来ないでください」と言われ、在宅訪問のPTにミラーボックスを見せて「ああ、これはねえ…腕の神経がもう少し伸びないと無理かもしれないねえ」と言われ、川平法導入の病院は神奈川県なので通院するのに時間と電車賃がかかり、2つの病院の療法は適応条件があった。その適応条件に私の当てはまるものは皆無だ。当時の私ができるだけのことは全部した。

 散歩の途中、私は在宅訪問のPTに訊ねた。「左腕って、本当に動くの?」。PTは微笑しながら遠い目をして答えた。「左腕はね…最初にぎゅ〜って『く』の字に曲がるの。それからもっと、ぎゅぎゅ〜ってなるの。もうこれ以上ぎゅ〜ってならなくなったら、だらんと脱力するの。そしたら動くようになるから」。「ああ…」と私も遠い目になった。ため息しか出なかった。

 私は一人で考えた。左腕が「く」の字に曲がるのって、どういうこと? 入浴はどうするの? 服の着替えはどうするの? 半袖はまだ平気だけど、長袖やコートはどうするの? 腕が動く前に多大な困難があった。

 リハビリの回復過渡期に痙縮があると聞いた。痙縮とは、脳疾患後遺症による手足のつっぱりやこわばりであり、痙縮の治療のためボトックス注射療法をする。ボトックス注射とは、ボツリヌス毒素製剤の一つである。ボツリヌス菌(食中毒の原因菌)がつくるタンパク質(ボツリヌストキシン)を薬として用いられるように加工されたものを用いることで、ボトックスは筋肉を支配する神経に取り込まれ、その神経を麻痺させる。その結果、注射された筋肉を弛緩させることができる。過剰な緊張によって固くなってしまった筋肉を弛緩させることにより、関節を動かしやすくする。

 注射はよいのだが、でも値段がお高いんでしょう? 上肢痙縮・下肢痙縮・眼輪痙攣・発汗異常(脇汗)に対して健康保険が使えるらしいが、非常に高いお薬なので、自己負担3割で6万円以上はするらしい。治療一つとっても、まずは金である。貧乏人には治療できないってことなのか?

 もう、いいや。脚は訓練したいけど、腕は諦めた。腕が動くように訓練するより、片手で何でもできる工夫がしたい。茶碗は持てなくていい。調理もヘルパーさんがやってくれる。爪切りも訪問看護師に任せよう。幸い私は右利きなので、箸やフォークを使って食べることができるし、ノートに書くこともPCのキーボードを打つことももともとできる。現在できないことをできるように努力するのは諦めた。その代わり、現在できることをよりスムーズになるよう工夫しよう。

 というわけで、私の左腕は今日もだらんとしている。浮腫んではいない。ときどき思い出したように、うつ伏せになって肩を上げて筋肉を伸ばしたりしている。杖歩行のリハビリ散歩はなるべくしない。それよりも、本を読んだりラジオを聴いたり、シンポジウムや公開講座に参加したり、映画を鑑賞したりするほうがよほど有意義である。動かない脚を黙々と杖ついて散歩して、毎日ルーティンのように筋トレでもしろというのか? 価値観はそれぞれ個人差があり、私は前者のほうが楽しいのだ。

 発症から9年も経つとさすがに筋緊張が表れる。冬になるとそれがひどくなる。私は痙縮や拘縮を懸念して近くの治療院に週2回通院している。私以外に身体のオブザーバーがいるのは有効だ。些細な変化の原因は何かわかるし、痛みや違和感もとってくれる。まだ腕は「くの字」にはならないが、身体の変化がゆっくりなら、変化に対応もゆっくり時間をかけて検討できる。私はなんだか、このペースに合っているような気がする。

「さらばリハビリ」~(14)中途障害の落とし穴

 野溝七生子『山梔』に、こんな引用がある。

将来に、望みをかけるほど、それほどの無感覚さが恐ろしい

 高原英理『少女領域』のなかで、この部分を解説している。

[…]簡単に告げておけば、前進・進歩を何よりの理念とした近代国家日本が、明治を終えた頃、国民に内面化させていたのがこの、絶えず将来に望みをかけ、その一方で現在の不如意に耐えるという、『立身出世』的意識の持ち方なのだ。

[…]阿字子(『山梔』の主人公)はその発想が絶えず『現在』を押し潰すことを見抜いていた。そして、明治の帝国日本から発する『明日へ、未来へ、前進、進歩、拡大、支配、そのために今を犠牲にせよ』というイデオロギーを批判しているのだと言える。

 となれば、憧憬や夢想への傾向も、『ありうるかも知れない未来』への期待とは背反する、『ありえない世界』への今の自分としての愛、でしかなく、今を豊かにしたいという意志とは矛盾しない。

 いずれも進歩主義に敵対する意志なのだ。

 この進歩主義は、男性に、より受け入れられ易い。一方、女性に対しては、夫の出世のために犠牲になれという種類の命令を含むことになる[…]

 入院中のリハビリと退院してからのリハビリは違う。前者は、まだ失ってはいないが脳神経のつながらない身体を懸命に動かせば「偶然」つながり、「奇跡的」に回復するが、後者は、すでに失った脳神経を身体の刺激で少しずつ伸ばすことができる、という意味だ。

 なるほど、療法士のいない在宅療法では、いつ回復するかわからない将来が見えない不安や、再発する恐怖もあるだろう。その不安や恐怖を、ただじっとベッドで横になっているだけでは、誰だって耐え切れないだろうと思う。そこで、「努力・根性・前向き」である。自分自身の身体と日本の経済事情を重ね合わせ、「低迷」することがないように、「不安」や「恐怖」を感じないように、考えないように一生懸命身体を動かし、地道に日々訓練、というわけである。「懸命のリハビリ」「日々努力のリハビリ」は、思考停止の証拠だ。

 確かに、発症から9年経っている私は、気分や体調次第、マイペースでリハビリを続けてきて、薄紙を剥ぐように少しずつ身体を動かせることが嬉しかったりもしたが、長島監督のように「雪の日にも雨の日にも毎日欠かさず散歩する」ことは、どこかがおかしいとしか言いようがない。そのエピソードを「美談」だと思った読者はなおさら頭がおかしい。

 「リハビリ礼賛」は、進歩主義に洗脳された己の姿だ。

 一番手軽なセルフカスタマイズは美容整形と筋トレによるボディビルだと言われている。どちらもアンチエイジング商法であり、一方はお金を費やし、一方は努力と根性と時間を費やす。アンチエイジング商法は「老いは醜い」と言うが、私に言わせれば、「精神の醜さは誰にも測れないから、身体だけ老いるのが醜いんじゃん?」である。

 リハビリを日々努力している脳疾患患者たちも同じだ。そもそも脳血管が老化しているのだし、生まれたときから健常者なのだから、「歩けるようになった!」「お茶碗を持つことができた!」などと噴飯物である。どのみち死ぬし、老いを避けることはできない。努力してリハビリすれば五輪のアスリートになって金メダルを穫れるのか、空を飛べるのか、ビックリ人間になれるのか、甚だ疑わしい。同じ努力をすれば、ハーバードやオックスフォードに合格し、ピューリッツァ賞やノーベル賞を受賞したり国際的な哲学者になったほうが、私には全然価値があると思う。

 それぞれの手応えを感じたらいいし、リハビリをやっているときに楽しいと思えばいい。ただ、その手応えや生きがい、楽しさは、一種のまやかしではないのか、誰かに踊らされているのではないか、と疑ったほうがいい。

「さらばリハビリ」~(12)リハビリテーション料の根拠は「量(時間)」より「質(効果)」

 病院にいたときと自宅にいたときで、担当療法士の経験値(技術や知識)の落差が激しいことを知った。そのぶん、リハビリ病院の療法士は比較にならないほどレベルが低い。修行も足りないし経験値も低い。それゆえ賃金も安いだろうし、病院経営は低賃金の療法士を搾取している。その搾取は結果的にわれわれ患者たちに影響することになる。

 診療報酬がどんどん目減りしているなか、病院勤務の療法士たちの実態はどうなっているのか、某サイトを引用してみよう。ただし文意が変わらないように表記はアレンジしている。

 某PTは、セミナーや研修で、知識や技術を増やし深めることが、自分自身にとっても患者にとってもリハビリ室にとっても良い影響が出ているように感じていた。

  しかし、ある日、先輩から「他のスタッフができないようなテクニックは行うべきではない」と指摘される。その先輩の理屈では、「診療報酬でリハビリテーション料が一律に定められている以上、PTによって提供できるサービスに違いが生まれるのは患者さんにとって不公平だ」「だから、全員ができることをやるべきだ」とのことである。

 そのPTはとうてい納得できなかったが、「先輩に逆らう技術」はまだ身につけていなかったので、従うほかなかった。

 そのリハビリ室は部屋全体の技術水準が低く、モーティベーションの上がらない暗い空間となっていた。療法士が学んだことを実践で表現できないために学ぶ意欲が薄れ、周囲と合わせることで「満足」が生まれてしまった。

 部屋全体が低水準なので、患者も「そういうもの」と納得してしまい、身体を良くすることでなく、「リハビリ室に行く」ことが目的になってしまった。そのような状況に、誰も異を唱えない空間ができ上がったのである。

 さて、この先輩の言い分、行った措置を見てみよう。あなたはどう考えるか?

言っていることはもっともなことのように聞こえなくもないが、違和感があるのだ。

 この先輩、所属している組織の「高い方」ではなく「低い方」に水準を合わせて行ったのである。そんなことしたら集団としての成長は起こらず、ただただ腐敗していくだけなのに。

 理由を考えてみる。

 

・プライド(自己保身)のため

・努力(勉強)したくないため

・出るかどうかわからないクレーム対応が面倒だと予想したため 

 

 いかがだろうか。患者だけだはなく、一般人にはまったく縁のないリハビリ業界の狭い集団をかいま見てしまった。さらにリハビリ診療報酬が「時間(量)」より「効果(質)」の評価で変わったコラムを、少々長いが引用しよう。

 

 2016年4月の診療報酬改定で、回復期病棟に質の評価が導入された。少し強引な解釈をすると、「時間ばかりかけて結果が伴わないなら、リハビリテーション料の請求を認めません」と支払側から言われている、ということである。

 これまで、リハビリテーションに対しての評価は時間(量)によって行われてきた。そこには、「時間をかけたら社会復帰できることが多い」という根拠が存在したものと推測する。十数年前の社会では、「病気になったら(怪我をしたら)、良くなるまで病院で寝てればいいさ」と本気で考えられていた。

 いまでは信じられないことだが、もちろん、これは医療者側の頭のなかではなく、患者側の頭のなかである。体調が良くなるまで病院では入院できていたので、実際に病院で寝ていると、当然のことながら「残存機能、認知機能」の低下は起こる。低下した状態では自宅や会社で活動できないので、「リハビリテーション」が活発に行われるようになった。

 しかも、「低下してからでは遅い。機能低下が起こる前に介入を始めないと、機能低下を避けられない」という考えに基づき「早期リハビリテーション」が始まった。早期リハが始まったころの患者たちは、「まだ具合が悪いっていうのに、なんでリハビリなんてやるんだ!」って怒った。「早期リハビリテーション」の認知がまだなされてなかったようだ。

  病気や怪我の発症間もない状態から、早期にリハビリテーション介入すると、医療に必要な時間が短縮できて、結果的に医療費を抑制することが可能となる、というデータをもとに、「急性期のリハビリテーション」には「加算」がついた。いやらしい言いかたをすると、「早期のリハビリテーション」はお金になったわけである。

  そういう「報酬」からの誘導によっても、各種報道のされかたによっても、「早期のリハビリテーション」は市民権を得ていったのである。 「早く始めれば早く良くなる」という考えは患者側にも受け入れられ、入院は短いほうが良いという考えかたも定着していったように思う。

  こんな感じで、「診療報酬、介護報酬」のコントロールによって、医療・介護の考えかたそのものが動かされる。その「診療報酬、介護報酬」を動かす元になっているのは何か? 社会保障費という国家予算。日本の国の収入(税金など)の一部を指す。

 人口動態の変化、医療の高度化などによって、社会保障費は上がり続けている。国家予算にも限りがあるので、社会保障費ばかりに使うことはできない。財源が抑えられていっているわけである。そのなかで、手術に関係する報酬、薬に関係する部分などとの兼ね合いもあり、「リハビリテーションに関係する報酬」に「チェック」が入るわけだ。

  これまで行った時間に対して報酬を請求できていた「リハビリテーション料」は、「時間」ではなく「効果」に目を向けられてきた。莫大な時間をかけても、効果のないことに金は出せないという意思表示が、今回の診療報酬で出されたわけである。

 リハビリテーション料を請求する側にとっては、ついにきたかという感じだろう。厳しい条件を突きつけられた、なんて感じる人もいるかもしれないが、これ、当たり前の話である。そういうこともあって「根拠」が重要だ、とずっとずっと言われていたのだ。

 がしかし、これまで積み上げてきた根拠は、「◯◯という疾患の患者××名に、▲▲という方法を行ったところ、対照群に対して◆◆名の患者で改善が見られた。この▲▲という方法は、◯◯という患者に効果が期待できると示唆された」というテンプレートに則ってきたように思う(学会発表のほとんどはこの形である)。この根拠は、職人仲間のあいだだったら最高に美味しい根拠だが、「リハビリテーションの必要性」という面では薄い。なぜなら、ある疾患に有効であるという根拠のある方法を行っても、在院日数の短縮や、ADLの改善につながらなければ、意味がないからである。

 リハビリ現場で求められるのは「根拠のある方法」ではなく、「診療報酬が定めるリハビリテーションの質的評価をあげる方法」である。 「そのやりかたにエヴィデンスあるの?」というセリフには、ほとんどの場面で意味はないが、「そのやりかたで、在院日数や総医療費やADL改善度に効果が出てるの?」という問いは、かなり的を射ている。

  リハビリテーションの価値を高めていくためには、エヴィデンスの構築は必要だ。ただし、「職人が喜ぶエヴィデンス」をベースにしても、自己満足以外は上がっていかないのではないだろうか? 社会に必要と認められるための「評価項目」が、今回の報酬改定で突きつけられた。自分たちの仕事の「結果」で見せていこう。「在院日数」や「総医療費」という形で、皆さんが行ったリハビリの結果が表現され、リハビリの価値が認められていく。「やりかたのエヴィデンス」にこだわっていると、支払う側からそっぽ向かれかねない。「求められる形」を表現していこう。

 

 療法士も大変なんだなあ、と他人事のように思ってしまったが、これは患者個人も変えられない深刻な状況である。確かに骨折患者、特に大腿骨折した高齢の患者は傷口が癒えるまで安静にしていたが、現在では傷口が塞がる前にリハビリして、ちゃんと歩けるようになっている。医療側は筋肉の衰えを重視しており、傷口には「寛容」である。大腿骨骨折の治療は骨にボルトを入れるが、その術法も後側の大臀筋を切開するのではなく、前側の筋肉が比較的細いほうで切開する。それで骨折したお年寄りがどんどん早く回復して退院しようとする。「効果(質)」があるわけだ。

 だが私のような片麻痺患者は、ある程度時間が必要だ。脳のダメージは個人差があるが、私が退院したときは、完全に歩けなかったのである。脳のダメージは何と言っても疲労しやすい。がしかし、「やる気」のある患者はどんどんリハビリに参加するらしい。

 いまはまだ脳の解明がなされていないせいで、神経細胞ニューロン)が自由自在にできないからである。とはいえ、脳の解明が進み、脳疾患の後遺症を完全に治療回復する最新技術ができても、私には飛びつくことができない。技術の進歩は良い影響と悪い影響との功罪がある。応用倫理学ピーター・シンガーは「凶悪な犯罪者は“道徳ピル”を飲ませて更生させればよい」と主張しているが、犯罪に関する法律は不変ではないし、道徳とはいったい何かという定義もないので、「もっとも影響力のある現代の哲学者」の思想は危険である。

 

 療法士が一人前になるコースは、ざっと「療法士専門学校→リハビリ病院→訪問リハビリ」だと思う。なかには音大を卒業して療法士の資格取得をした療法士もいるし、もともと製薬会社の営業マンだった療法士もいる。

 私が一番驚いたのは、急性期病院のリハビリの時間だった。私が担当療法士に連れられてリハビリ室へ向かうとき、ある患者が搬送されて、「○○さんじゃないですか!」と担当は驚いて言った。その後、「○○さんがお亡くなりになりました! お疲れさまでした!」と療法士の挨拶があった。私の推測にすぎないが、その死亡した患者は頭を強く打ったに違いない。

 後に「無理をするとリハビリができなくなるからね。無理なリハビリは意味がない」が口癖の小生意気な療法士がいたが、その口癖が私には「無理をしてもしなくても、死ぬときは死ぬ」という覚悟と、無言の反論をしていた。その療法士は患者の死を実際に見た経験はないかもしれないが、私はあった。他人事には思えなかった。

「さらばリハビリ」~(13)一番親しかった患者

 回復期病院の患者で、車椅子に乗った大柄の40代男性がいた。仮に彼をOさんとしよう。Oさんは毎日ナースに向かって話し、いつも帽子を被り、食事のときはテレビ画面と反対の方向に座って食べ、一番早く食べ終わっていた。

 私はOさんの不思議な行動に軽い疑問をいつも感じており、彼に話しかけた。帽子を被るのは寝癖がひどいせいで、テレビを見ない代わりにラジオを聴いていた。Oさんは脳梗塞の後遺症により、左片麻痺言語障害で、しかも復視だった。

 復視とは、ものを見たときに「二重に見える」ことを言う。二重に見えるというと「乱視かな?」と思うかもしれないが、ものが二重に見えるのは乱視だけとは限らない。目の病気だけではなく、体の病気でも二重になって見えることがある。

 複視には「片眼性複視」と「両眼性複視」とがあるが、両眼性複視の場合、目そのものの異常というよりも、目をキョロキョロ動かす筋肉や目関係する神経が原因となっている可能性が高い。乱視の場合や、もともと斜視だったという場合、急に二重に見えるということはない。

 いままで普通に見えていたのに、急にものが二重に見えるようになった、また目の向きによって症状がひどくなるなどの場合、脳の病気や血管障害、全身性の病気などの可能性がある彼の場合は、私と同じ脳疾患からくる障害だった。

 Oさんは私より少し早くこの病院に入院し、同じ担当のSTのリハビリを受けていた。私は彼に注目した。顔はゴリラみたいだったが、リハビリを受ける貪欲で前向きな精神を私は彼に見習った。

 あるとき、リハビリの一環(自主練の一つ)で、食堂で布巾を畳む彼を見た。Oさんは私と同じ左片麻痺なのに、左手は動いている。「なんで動くの?」と素朴に聞くと、「左手の人差し指を動かしながら『動け動け』と念じた。ヒマさえあればとにかく動かした。そしたら、半月ほど経ってほんとに人差し指が動き出し、連動して中指、薬指、小指も動き、手首も動き、肘も動き、腕全体が動いた。でも皮膚感覚はないけどね。おかげで腕が車椅子のタイヤに擦れて大けがしたよ。何針も縫った」と答えた。

 PTに聞くと、「僕たちが数年かけてやっと動いたようなものを、Oさんはわずか半月でやっている」と感心した。ネットや書籍のリハビリ関連では、ニューロン再生の科学分野か、もしくは奥深い鍼灸の神秘と、「動かない手指を必死に念じてある日偶然」みたいな精神論+オカルト分野だ。

 私は後者をはなから諦めていた。日々寝起きや着替え、入浴などの生活動作を繰り返していれば、脳が勝手にシナプス形成を地道に進め、数年経ったら突然動いたみたいなサプライズギフトでハッピーに、というシナリオを気に入っていた。

 これでは「いつか王子様が♡」と夢見ていて、その実やっていることは漫然とした日々の連続である。活字だけで「脳梗塞 左腕 回復」というキーワード検索ばかりやっておきながら、事実、左腕はまったく意識せずに、気づいたら腕が痺れてきたというていたらく。海の向こうの最新科学情報か、いまは亡き見知らぬ人の書物を引っ張り出して読み、胡散臭い東洋医学の宣伝情報を知って、ここへ行こうか逡巡する。すぐ隣に、なんの変哲もない自然体の患者がいるのにもかかわらず。

 Oさんが寸暇を惜しんで左人差し指の反復をやったのは「当たり前のこと」だし、結果「当たり前に」腕は動く。そのことを、声を大にして自慢するでもなく、私の疑問にさりげなく応えたのだ。あんなにも敬遠していた精神論+蓋然性オカルト分野なのに、Oさんの経験談を聞いて私も早速やってみた。なにも集中しなくても日々左腕の存在を気にかけ続けるだけのことなのだが、人差し指が真っ赤に熱を持ち痒くなったところで、「Oさんにとって左腕が動くことは『当たり前』のことなんだろうな」と思う。私はいつか左腕が動いたらと夢見るが、実は左腕が動くことを信じてなどいない。これはもはや信仰の問題なのかどうか、私にはもうわからない。

「この動きをずっと続けて、ピク、とでもわずかに指が動いたらそれで勝ち。そうなるまでには先が長い。分からないからね」とおだやかに笑うOさんであった。ちなみに、腕が動いたOさんの握力は7キロに満たない。動いた先もまだまだ長い。

 私も見習って、左の親指を懸命に動かしたが、発症から数ヶ月経っていた。それでもいい、糠喜びでもいい、親指が動けばいい。そんなある日、親指が動き始めた。でも私はあるときそれを辞めた。左腕をまるごと忘れたと言ってもいいと思う。

 右腕は完全に動くようになった彼だが、歩行することができなかった。立ち上がった彼の背は190センチくらいだ。復視も言語障害も回復していない。麻痺した左腕が元通りに動くのは、テレビや本を見づらい彼の、必死な暇つぶしなんだろうなと思った。もうすぐ彼の退院の日が近い。私は電動車椅子をリハビリでリクエストした。彼もそれに倣って早速注文した。歩けない彼もこれで生活できると私は思った。

「さらばリハビリ」~(11)3.11の大地震

2011年3月11日(金)晴れのち曇り、突然地震

 昨日の昼、中堅ナースに相談した。私の言いたいことをよく分かってくれたが、「主治医に確認しなかったことは主治医に聞いたの?」と尋ねた。「いいや」と私は言った。「不明な点は確認しなよ。すぐ言いなよ」と言った。「でも」と私はくぐもった。正直、私はコストをかけたくなかったが、そのぶん私は独りでに心理的コストをかぶっているのではないのか。あるいは、コストをかけて言い合うのは互いを信頼しているからではないか。

 黙っても言っても面倒くさい。手間をかける意味がない。「分かんなかったら発散しなよ。そのほうがあなたの言い分もわかるしさ」

 出た! 「説明してくれないとわかんない」という開き直り。鈍感な健常者相手になんでも言語障害者が説明してくれるよ! なんで困っている障害者が困っていない健常者に説明しなきゃならんのだ。だったらお前も障害者になってみろ。

 黙っていたら「なに考えているのかわからない」と不審がられ、そんなら、と腹のなかを明け透けにしてみると「そんなふうに言われると思わなかった」と苦しみ、落ち込む。黙っていればひとりで孤独。黙っていなければふたりで孤独。相手は「言ってくれないとわかんない」とまだ期待している。私は、「言ったが最後、決裂だろう」と思っている。この絶望とズレを、それでもまだ「説明しなければ」ならないのだろうか。

 そういうのをずっと堪えてきた。私は、まずじっくり時間をかけないと言葉が出ない。たどたどしい言葉に自分でいらつきながら、それでも相手は容赦なく言葉で追い越してゆく。私の言いかけた言葉を遮り、やっとのことで言い終わった言葉を平然と無視し、消し、なかったことにする。憔悴するのは私であり、コストを支払うのも私である。

「なんとかしてほしい」と相談し、結局「あなたがやれ」と放り出した。とても丁寧な言葉で、それとは気づかないように。私は結局それをやらなければならない。途方に暮れた私は思わず涙が出た。ナースは「分かりやすい形」として「同情し」、「励まし」、つまり、ようやく「内面を吐露した」私が流した「涙」「弱さ」「鬱憤」であり、それをありふれた応答で「大丈夫だよ」「こう言っちゃなんだけど、あなた頑張ってるもん、努力してるよ」。

 私は腹が立った、というか呆れ果ててしまった。なんて典型的な弱者と強者コンビだろう。その典型に「あなたがやれ」と言ったのだ。相談は無事解決した。ナースの鈍感な言葉に涙を流し、泣けば「可愛いじゃん。女の子だもんね」とさらに逆鱗なことを言う(41歳だっつの!)。こんな茶番に巻き込むな!

 

【教訓】:弱者の涙は御法度であり危険である。特に弱者にとっては健常者に「同情」を誘う。曰く、「かわいそうに」。

 

 私(=患者)が思ってもみないような先回りをして快適さを感じさせるのが「攻めの介護」で、私が希望することを言い訳し、できない理由を並べ立てるのが「守りの介護」。なにを守っているかというと介助者自身である。介助者ができないと、患者はいつまでもできないままだ。

 

 当時の日記を読む。私はPTとトラブルになり、師長に「あなたの問題では?」と言われて「全部私のせいかよ!」と悲しみと怒りが混乱し、懇意にしていた別のOTに相談していた。ここで大地震が起こる。車椅子に乗った私は平気だが、立っていた療法士は、車椅子をかばうポーズをして実際には車椅子に支えてもらっていた。地震の規模を示すマグニチュードは9.0、気象庁マグニチュード 8.4を記録した。

 大正関東地震(1923年)のマグニチュード8.2を上回る日本観測史上最大であるとともに、世界でもスマトラ島沖地震(2004年)以来の規模で、1900年以降でも4番目に大きな超巨大地震であった。

 この病院は耐震設備もあり、揺れに揺れたが被害は皆無だった。その代わりエレベータが休止して、スタッフ総出で一階から四階まで患者の食事を階段で運ばなければならなかった。

 余震は何度もあり、その度に患者は食堂に集まってテレビのニュースを観た。報道では、間もなくスーパーやコンビニの食糧・飲料が不足し、病院では、牛乳の代わりにヤクルトで代用をしていたと思う。お見舞いにきた知人が福島に訪問した話をし、「風景はぐちゃぐちゃにひっくり返っていて、とにかく臭いがひどかった」という感想を言った。テレビのニュースなんて信じていなかった私は、少しでも外部の情報を求めていた。「私のアパートはどうなったのか? 食器や家具は壊れなかったのか?」までは誰にも聞けず、不安よりも不満が多かった。

 後日、新患のお婆さんがテーブルの隣に座り、「震災のとき、階段で転んで骨折した」と話していた。お婆さんならともかく、神戸地震のとき知人が階段を上って両脚骨折したという話も聞いた。地震のとき、外にいるか家にいるかで死人や怪我人の出る確率は、はっきり言ってわからない。季節や時間帯、国や地域にもよるかもしれない。

 ただ一つ、この震災が起こって私は直感した。地震で倒壊した地域は、私の身体にたとえると麻痺した左側である。実際には右脳が壊れたのだが、その崩壊が目に見えて不便なのは左片麻痺と言語だ。私が東北地震をこんなに意識するのは、脳梗塞の後遺症と重ね合わせたメタファーになっているからだ。

 倒壊した土地の道路や建物は、驚くほど再建が進んでいる。私は地震の前後を比較したわけではないが、地震の爪痕は一見してまったく見られない。地震二次被害は、言わずと知れた福島の原発であり、東電が必死に深刻な被害を隠蔽しようとしている。被害に遭って生き残った人々のトラウマは癒しようがない。

 1989年に起こったチェルノブイリ原発事故は人災であり、30年以上が過ぎたいまでも健康被害や自然界の影響が残り続けている。東北大震災は自然災害だが、そもそも日本の土地は地震が起こりやすい還太平洋火山帯にあるので、環太平洋火山帯にはメタンハイドレート(低温かつ高圧の条件下でメタン分子が水分子に囲まれた、網状の結晶構造をもつ包接水和物の固体)が多く分布する。特にプレートが集中して地震も多い日本には大量のメタンハイドレートが分布している。その事実を知りながら原発を20基以上抱えている日本は、正気の沙汰とは思えない。

 日本で暮らす私にとっては、日本の土地は生活を支える重要な身体の延長であり、危険だと知りながら簡単に他の国へ移住することはできない。だが、私の身体は私が決め、生きかたの方針を決める。外野が「自己責任だ」と野次の声がするのは当然だ。だから私が反対する危険な原発を絶対に許すことはできない。確かに原発によるさまざまなメリットはあるが、一度ならず事故が起こると、そのコストは高すぎる。

 日本は広島・長崎に原爆を投下した「唯一の被爆国」だ。この表現は、第二次世界大戦の、核による被害者であることを主張したいわけではない。いまや日本政府は、敗戦した歴史を忘れ、原発という核による加害をしている。金子勝原発不良債権である』のタイトル通り、原発の価値はまったくなく、かつて原発を夢見た政府でさえも「原発がないと日本経済は悪化する」予言がデマであるとようやく知り、予算を削っている。予算を削るとまず自主非難した人たちが犠牲になる。結局、被害者は私たち国民である。