「アシュリー事件」と児童買春の共通点について

つい先日、旧優生保護法:強制不妊手術9歳にも 宮城、未成年半数超という記事があったが、フェミニストではない人は気がつかなかったかもしれない。これは法律の名前も内容も変わったからもう過去のことだ、と思ってはいけない。

 

旧優生保護法

強制不妊手術9歳にも 宮城、未成年半数超

旧優生保護法

強制不妊手術9歳にも 宮城、未成年半数超

以前から気になっていた「アシュリー事件」だが、児玉真美さんの運営するブログはところどころしか閲覧できておらず、ことの顛末を知らなかったので、なんとなく事件について言及するのは控えていた。がしかし、今日は『アシュリー事件 メディカル・コントロールと新・優生保護思想の時代を読んでみた。その感想である。

 

2004年、重度重複障害児のアシュリー・X(当時6歳)の身体に“アシュリー療法”という外科手術を施術した。この療法はアシュリーの両親が要望している。


“アシュリー療法”とは、子宮摘出、乳房芽摘出、成長抑制を目的としたエストロゲン(女性ホルモン)のパッチを2年くらい皮膚に貼り続けるという療法で、2つの目的が達成されるというのだ。


1つは、在宅介護のためである。アシュリーの介護は両親と雇われた介護者がアシュリーの身体を抱えたり移動したりするのはかなりの負担になるので、できるだけアシュリーの身長と体重が成長しないようにコンパクトにさせてあげたいという両親の要望(メリット)である。


もう1つは、アシュリー自身のためだ。アシュリーは「寝たきり」であり、自分で寝返りができない。成長を抑制させれば、自重負担の軽減ができる。これは、私自身が片麻痺なので、身体が動かない不快さはよく知っている。


重度障害児(者)の不妊手術は、優生思想の歴史を踏まえて、米国では禁止されている。障害児に不妊手術をする前に司法省に報告して手術の許可をとらねばならない。


この「事件」については、2006年の秋、シアトルこども病院の担当医ダニエル・ガンサーとダグラス・ディグマが米国小児科学会誌の論文で報告され、一部の専門家と障害者支援や権利擁護の関係者の間から批判の声があがった。ところが、その批判に応答する形で2007年元旦の深夜に両親がブログを立ち上げたことから、ロサンジェルス・タイムズを筆頭にメディアが次々と取り上げ、世界中で激しい論争が巻き起こった。まさに賛否両論だった。


要するに、「事件」は事後報告だった。アシュリーの身体はもう元に戻らないのだ。


同年5月、ワシントン州の障害者の人権擁護団体Washington Protection and Advocacy System(旧称WPAS)が、1月6日から開始した調査を報告書にまとめ、アシュリーに行われた子宮摘出は違法であると結論付け、8日にシアトルこども病院はWPASと合同で記者会見を開き、公式に子宮摘出の違法性を認めた。


その後、事態は沈静化したが、9月末にはアシュリーのケースを担当し2006年の論文の主著者であった内分泌医のガンサーが自宅で自殺するという衝撃的な事件があった。


アシュリーの父親は身元は明かしていないが、とあるIT関連の大企業の役員であり、名前を明かしたら大変な騒ぎになると本人が懸念している。 “アシュリー療法” の理由と目的を、主治医論文は「在宅介護のため」と主張し、父親は「本人のQOLのため」と主張し、互いに食い違っている。ついでに父親は「(アシュリーの子宮は)基本は『用がない』それに『グロテスク』」とまで言っている。


そもそも、アシュリーの父親と2人の主治医たちの関係は、なにか様子がおかしい。父親が自分の“斬新な”アイディアを話しても主治医がまともに受け入れており、主治医論文は偽装と隠ぺいで溢れている。もしこれが一般の父親なら、そのアイディアを話しただけで診察室から追い出されるのでは、もしくは門前払いではないだろうか。


それに通常の倫理委とは別に「特別な」倫理委をセッティングしてもらい、直接パワーポイントを使って自説を解説し、医師らを説得する場を設けてもらっている。異例の待遇と呼べる。この父親、本当に大物らしい。

ここから、著者の児玉さんは「無益な治療」に通底する「死の自己決定権」や「尊厳死」「臓器移植」の方へ向かうが、私は「下種の勘繰り」をする。アシュリーの両親の品格を汚すことになるかもしれないし、このブログが英訳されたら名誉棄損で訴えられるかもしれない。でも私は、かつての児玉さんが「この危険な流れを食い止めなければ」と真剣に切実に思ってアシュリー・ブログを更新してきたように、私は私で切実なのだ。児玉さんの感じた「キナ臭さ」と私の感じた「キナ臭さ」とは比べ物にならないくらい私のほうがはるかに猟奇的で狂気を感じる。

子宮摘出は、アシュリーが性的虐待のため妊娠しないようにするというが、子宮摘出だけなら子宮口までは外見上変わりはなく、難なくインサート、つまり「レイプ」できてしまうし、妊娠が発覚しないのであれば、性的虐待は水面下に潜ってしまう。アシュリーにとってはかえって危険かもしれず、「介護」する両親はある意味好都合だ。妊娠予防のためなら卵管結紮という、より侵襲度の低い手術法も可能だが、卵管結紮しても月経は続く。

この事件についても児玉さんも、「月経痛」というものにまったく言及していないのが気になった。

私が中学生のとき、月経痛が重いクラスメイトがいて、月経になると目眩がして倒れそうになるを見たことがある。私は月経痛はそんなにひどくはなかったが(腰痛と下痢くらい)、月経痛は本当に人それぞれである。

いまはPMS(Premenstrual Syndrome:月経前症候群)と呼ばれており、ひどいケースになると万引きをしたり、海外では放火したりする症状があらわれるという。

健常者の月経の症状がこれなので、知的障害児や重度重複障害児の月経はどれくらいになるのだろうか。

かつて私を担当していたヘルパーさんは、障害児の母親だった。子どもが娘さんだと聞き、「お嬢さん、月経痛はあるの?」と尋ねると、「もう喚くわ暴れるわで大変です」と笑って答える。毎月の経血処理だけでなく、身体が不自由でしかも暴れるから、清拭やオムツの交換はさぞかし手こずっただろうなあ、と想像した。

 

話は変わって、アシュリーのことである。まず、アシュリーの顔写真は、率直に言って可愛らしすぎると私は思った。人によっては「色気がある」「抜ける顔だ」などと思うのだろうか、顔の造作も整っているが、全体的に「愛嬌がある顔」と言ってもいいくらいだろう。セクシーでチャーミングである。


アシュリーの両親は「ピロウ・エンジェル(枕の天使ちゃん)」とあだ名をつけていたが、腹黒い私はそこで、「…ん?」となった。

 アシュリーはいつも寝たきりなので、枕とお友だちである。「ピロウ・エンジェル」という言葉はかなりの赤ちゃん扱いらしいのだが、そのニュアンスは私にはまったくわからない。むしろ「ピロウ・トーク」と同じくらいにエロスな感じがするぞ。


それに加えて、「プチ・エンジェル事件」という謎事件を連想してしまう(興味のあるかたはご自分で検索してください)。

「プチ・エンジェル」は児童買春の店であり、経営者は謎の自殺を遂げた(自殺に見せかけた他殺?)。経営者の家族たちも続々と不審死している。事件の謎を追っていたフリーライターも殺されてしまい、もう誰も事件の詳細を探ることは恐ろしくてできないのだ。その顧客名簿には、ロリコンでお金持ち、要するに政治家や弁護士、医者などの有力者の名前がずらっとあったとされる。まさに「変態紳士たち」である。

児童買春といえば、腹黒い私は児童ポルノをついつい連想してしまう。児童ポルノの加害者は親、というのをどこかで聞いた。貧困な親が金づるのために我が娘を金で売ってしまうのだろう。

アシュリーの父親は社会的に成功しているらしい。親が貧乏でも金持ちでも、趣味と道楽のために我が娘を不特定多数の者に凌辱されるのが、さらにまたマニアックで変態的で気持ちが悪い。

子どもが障害者でなくても、子は親の所有物であることは全世界共通らしい。アシュリーの父親は、「アシュリー療法」を一般化させようとしていた。

 

「成長抑制のために“アシュリー療法”を」というところまで本を読んで、ダーティマインドな私は邪推し、「あっ」と確信したのだった。

都市伝説でよくある、インド奥地の「だるま」 をご存じだろうか。観光客の女性を拉致し、手足を切り落とし逃げないようにして、男たちに公開セックスをするのだそうだ。私が聞いた「だるま」の話は、ふだんは不動産会社の営業マンであり、観光客がなかなか足を踏み入れないマニアックな国や地域を探して観光するのが趣味で、その営業マンはインド奥地の見世物小屋の「だるま」が日本人女性だとわかった。虚ろな目をしてセックスする彼女は、自分を日本人観光客だと悟り、彼の目をカッと見て「大使館(を呼んで私を助けて)!!!!」と大声で叫んだのだった…。

 

私の邪推だけだったらまだしも、現実のアシュリーが性の玩具として今もシアトルの片隅に生きていたとしたら…確かに、重度障害者を死に至らしめることも惨いが、性の玩具として生き続けているとしたら、しかも両親が娘を性的に支配しているとしたら、まさに生き地獄、実在の「だるま」である。…でもまあ、実在はしないけども。

 

こんなバカバカしい妄想&邪推をして、児玉さん本当に本当にごめんなさい。申し訳ありません。謝罪します。お詫びとして、児玉さんの文章から引用します。私がこの文章を読んでグッときたので。

 

 本人利益と親の利益の混同や、より侵襲度の低い選択肢の検討の不在など、これまで多くの人が指摘してきた倫理問題も指摘しているが、(エイミー・)タンらの論文の眼目は、「仮に、自己決定能力と人格(パーソン)とをエージェンシーと呼び、その両者を持ち合わせている存在をエージェンシーであるとしたら、“アシュリー療法”は果たして正当化されるのか」との問いを立て、哲学的な検証を試みたことだろう。“アシュリー療法”正当化の基盤にある、知的機能の低いアシュリーにはその他の人と同じ扱いをする必要はない、との論理を問うたのだ。
 カントを読んだこともなければ基本的な知識すらない丸腰の素人が、読んだままの理解で内容をまとめてみるという、大胆な行ないを許してもらえるならば、タンらの主張するところは主として二点。まず、アシュリーがエージェントでなく、したがって個人として扱われないとしても、一方で家族という単位もエージェントの集合に過ぎずエージェントでないアシュリーにも同じ姿勢で臨んで然りということになる、というもの。しかし、医師らの正当化は家族全体の利益が本人の利益と分かちがたいと言っているだけなので、この批判はポイントがずれているかもしれない。
 しかし次の論点は、アシュリーではなく、医師のモラル・エージェントとしての義務という観点からの考察であり、私には非常に興味深かった。タンらはカントの「道徳上の義務」を参照しながら、おおむね以下のように論じている。
 我々がモラル・エージェントとして善行を求められる「道徳上の義務」とは、その善行の対象がエージェントであろうとノン・エージェントであろうと、それに関わりなく果たすべき義務である。それは、その義務が、われわれが他者に対してではなく自分自身に対して負っている義務であり、われわれが自分自身に負っている義務とは、ヒューマニティすなわち道徳的なエージェントとして行動できる能力を保つことだからである。その義務を負うがゆえに、われわれは例え自分とノン・エージェントしかいない状況下に置かれたとしても、道徳的にふるまい、自分のヒューマニティを損なわないよう行動しなければならない。したがって患者がノン・エージェントであろうと、エージェントである患者にしてはならないことはノン・エージェントの患者にもしないという義務を、医師はその患者に対してではなく自分自身に対して負っているのである。

(児玉真美『アシュリー事件 メディカル・コントロールと新・優生思想の時代』生活書院、2011年)

 
最後に。児玉真美さんは、アシュリーの父親のブログやCNNのニュースなどをオンタイムで視聴し、その父親の言葉が「どうせ」という文脈のニュアンスに聞こえるらしい。「どうせ障害者だし」「どうせ意識はないんだから」こんな程度でいいだろう、とアシュリーを下に見ているという感じだ。
「どうせ」は重度重複障害者にとってセーフガードにならず、人々に共有されると、逆に生命倫理の「すべり坂」にたちまちなってしまう。「道徳上の義務」がある社会的地位の高い男性たちは、その義務を忘れて自分自身の欲望と保身、権力を行使してしまうのだ。

ツイッターハッシュタグ「#metoo」で、女優さんたちが性的虐待やセクハラ・パワハラを暴き、性的被害者である自分を告白しているが、自分より弱い者、抵抗できない者に、性的な欲望を押しつけて沈黙しておくように仕向けているのも、まったく同じ構造である。

 

最後の最後は、重度重複障害児の施設「びわこ学園」に長年勤めていた医師が書いた文章を引用する。

 

1981年、国際障害者年にあたって、「全国重症心身障碍児(者)を守る会」は、「親の憲章」を作成し、守る会の三原則を決めた。
それは、「決して争ってはいけない、争いの中に弱いものの生きる場はない」「親個人がいかなる主義主張があっても重症児運動に参加する者は党派を超えること」「最も弱いものを一人ももれなく守る」であり、今日まで大切にして運動し事業を行っている。
(高谷清『重い障害を生きるということ』2011年、岩波新書

 

【2018/02/02 19:31追記】

以前私が付き合っていた25歳年上の彼女のお母さんがいるのだが、旦那に死に別れて妹の家に同居していた。彼女は長女で、妹と14歳離れており、妹が結婚するときにお母さんも一緒について行ったという。

お母さんは当時70歳を過ぎており、大腿骨骨折をきっかけに入院し、そのうち徐々に衰弱していった。聞けば、「栄養チューブを自分で断った」という。素朴な尊厳死、平穏死である。お母さんが死んだとき、妹は思わずお母さんに抱きつき、「まだ温かかった」。死んだお母さんの顔はまるで眠っているように見えた。

お母さんの死は、「女三界に家なし」のことわざ通りだと思った。伴侶がいなくなり、孤独になってもまだ死なない。女性の長生きは幸福か不幸か、微妙である。