子宮摘出の背景
いかにも真面目そうなタイトルと真面目そうな研究会だが、その内容は衝撃的だった。ちょっと長いが引用する。
3 子宮摘出の背景
子宮をとってもかまわんか?
長谷川真弓(仮名)は30代の女性。重度の脳性まひで、車いす生活を送る。食事の時も排便の時も手助けが必要だ。地元の養護学校を卒業した後、1979年に自宅から車で約1時間の、山深い療養施設に入った。
最初に会った時、短く切った髪、白い肌にいたずらっ子のようなそばかす。まっすぐ相手を見つめる奥二重の瞳が印象に残った。紹介者から「言葉が不自由だから、初対面の人には電話では彼女の言うことがわからないかもしれないと思うよ」と忠告されていたが、彼女が意識的に大声で話してくれるため、何度も聞き返すことはほとんどない。自分の持っている意見や感想を忌憚なく、一生懸命伝えようとする女性だ。
毎日、施設ではワープロで詩作活動に耽ったり、十数年前から施設外の合唱サークルに参加していることから、週に一回発行のサークル新聞を執筆。「新聞では何度も表彰されたのよ」と誇らしげに笑う。書くことが大好き。時には学校時代の友達が訪ねてきてくれたり、電話で話し込むこともある。
だが、週末はできるだけ両親の待つ自宅に帰るようにしている。「施設生活にもそろそろ慣れてきたけど、長時間、施設に居続けると疲れてしまって、偏頭痛がしたり吐き気がするんです。病院の先生に診てもらうと、ストレスが原因らしい、と言われるんです」「でも、施設職員には、ここにいて仕事をしないで何がストレスだ、と言われる。自分でもよくわからないけど」
話が性の問題に移った時、真弓の顔がふとくもった。「結婚する、しないの問題と、性の問題はまったく別だと思う。結婚するから性は大事だとか、結婚しないから性は大事じゃない、ということではない」と前置きした後、彼女にとって身を切られるエピソードを教えてくれた。
真弓が20歳のころ。体調をくずして何日も部屋で寝込んだ。「そうなるといつもより、よけい手がかかるでしょう。ただ寝てるだけでも施設職員にはうっとうしいんだと思う」
介護していた女性職員が何気なく、「子宮をとってしまわんか?」と、真弓に尋ねたという。「ただでさえしんどいのに、そんなこと言われて、何を考えているんだと思った。確かに私は結婚するつもりはないけれど、それとこれは関係ない」。相手は同性であるばかりか、結婚して子どももいる。「きっとその人は深く考えて言ったわけではない、と思うけど」
同じ時期、別の女性職員と雑談をしていて、再び衝撃の発言が繰り返された。真弓の顔を正面から見ながら、「子宮をとってしまった方がいいのではない?」「お母さんもきっとそう思うわ」。知り合いに相談すると、「あんたのために、言うてくれたんやないか」と言われた。真弓は、「人にどうのこうの言われることではない。働いてないから、社会経験がないから、何を言ってもピンとこないと思ってるの。言うことが理解できないから傷つかないと思っている」と憤る。
真弓のいる施設は8人部屋だったのだが、現在は2人部屋になった。そのちょうど入れ替えの時、男性職員が冗談半分に言った。「これから2人になったら何をするかわからないな」「真弓さんなんか男を連れ込むんじゃないか」。「その時は本当に腹が立ったから、親に電話で相談した」。結果、男性職員は真弓の親に頭を下げて謝ったが、真弓に対しては謝るどころか、“告げ口”を逆恨みして、半年ほど真弓を無視し続けるという報復にでた。真弓はそのことも親に話したが「無視されてもいい。毅然とした態度で接しなさい」と、その職員に再度挑戦することはなく、普通に振る舞い続けたという。
「ずいぶん、自分は強くなってきたと思う。悪く言えば横着になってきた。合唱サークルで活動を始めるまでは、言いたいことがあっても言わない方がいい、と親に躾けられてきた。相手に反発したら手助けしてもらえない。してもらいたかったら我慢しなさい、と。反論したりできなかった。私は介護してもらわなければならない立場だから。今でもそう」
「やっぱり職員の言うことを、素直に聞いていた方が精神的に楽。サークル仲間は、素直に従っていてもひどいことをされるなら、自分の言いたいことをはっきり言った方がいいって励ましてくれる。けれど、どんなに真剣に私が怒っても、子どもが怒るみたいな感じでしか受け止めてもらえない」。真弓は車いすから乗り出して話す。
職員だけではない。入所者からも心ない言葉を投げつけられることもある。同じ施設にいる中途障害者に言われた。「生まれつきの障害者の場合は、年齢より10歳引かなあかん」。「彼らにとっては、私たちの年齢は幼く見えるらしいの。健常者の30代とは同等に見られない。まだ10代ぐらいの扱いなの」
最近、真弓の施設にも、脳梗塞などで倒れて半身まひになった働き盛りの元サラリーマンも生活している。そういう中途障害者との軋轢は深い。健常者からもよく「若く見えていいわね」と言われる。でも、それがそのまま本意なのか、素直に解釈すればいいのか、真弓はわからないと首を傾げる。
だが、その施設は、入所者同士の恋愛に寛容で、約100人ぐらいの入所者のうち、「施設内恋愛」をしているカップルが10組ほどいる。「職員は好意的に見ているの。入所者どうしの恋愛なんてもってのほか、と禁止している厳しい施設もあると聞くから、そんな施設に比べれば恵まれているのでしょうね」
…と、ここまでは序盤戦。軽いジャブ。次はノックアウト。
摘出しか方法はないのか
「障害者の子宮を摘出」。突然、こんな見出しが目に飛び込んだ。1993年6月12日付けの毎日新聞朝刊(大阪本社発行)の一面トップ。近畿と中部地区の国立大学付属病院の医師らが、女性の知的障害者3人の生理をなくすため、子宮を摘出したことを伝える記事だ。それによると、近畿、中部いずれの大学の例も、施設と両親、あるいは担当の精神科医から「整理の処理の介助が大変」と相談があり、医学部教授が「本人のため、それしか方法はない」と判断。本人の同意を得ないまま、手術が実行したのだという。摘出した子宮に異常があったわけでもなかったのに……。
この記事を読んだ人の大半は、おそらくかなりの衝撃を受けたにちがいない。
「どうしてそんなことが平然と行われるのか」と。
しかし、意外な反応も多かったようだ。
この記事が掲載されてから1か月以上たった後、毎日新聞は7月21日付けの朝刊で、子宮摘出について本社に寄せられた読者の反応を紹介している。
それによると、届けられた手紙や電話は80件以上。そのうち「(新聞記者も)一度介助してみろ」「きれいごと言うな」など、摘出に賛成する意見が3割も占め、知的障害者の親や介護者に賛成の意見が多かったという。
「障害者が生理で苦しんだ時、施設、親もつらいし、本人もかわいそう。他人に迷惑をかけず、本人が快適に暮らせるなら、手術してもいい」「研修中、生理用品を投げつけられた。本人がいやならなくしてあげたいと思った」。摘出に賛成する理由として、記事は介助体験のある2人の主婦の話を伝えている。
「実際のところ、女性障害者の子宮摘出は、施設の中では公然の秘密。昔から何例もあったんですよ」。この記事を読んだ施設職員の山中淳(仮名)が話した。
生理で情緒不安定になった女性障害者の介護は並大抵のことではない。生理用品ばかりではなく、ナイフや食器を投げつけることもあり、介護者自身の身の安全が脅かされることさえあるという。数少ない介護者に重い負担が押し付けられている現状では、ぜい弱な日本の福祉制度が子宮摘出を生み出しているといえなくもない。
しかし、「介護者のアプローチの仕方によっては克服できないことはない。結局は、介護者の知識と技術が足りないのが摘出につながっているのではないか」と山中は言う。
山中はかつて、他の施設から「あまりに暴れるので引き取ってほしい」と頼まれ、女性障害者の介護を受け入れたことがある。
受け入れたばかりの時には確かにたいへんだった。生理中はもちろん、そうでない時でも一日中、騒いでいる。手に取れるものは何でも投げつけ、「職員が危険にさらされることもあったので、隔離したこともあった」という。しかし、つきあっていくうちに次第に原因がわかってきた。「小さいころから親元を離れ、施設にずっと住んでることが原因ではないか。親にあこがれているのだろう」
いわゆる「施設病」。それからは親のように接触をはじめる。長い年月がかかったが、しばらくたって、その女性の乱暴は影をひそめたという。
「情緒不安定になるのは何も生理だけが原因じゃない。だから子宮をとったからといって、本人にとっても介護者にとっても、すべてが解決するわけではないんです」と山中。
「結局は、根本的な原因をしっかり究明しないと……。その原因も人によって違うしマニュアルがあるわけでもない。介護者自身が障害者とのふれあいの中で、自分で見つけていくしかないんです」。しかし、施設は、生理が原因だと決めつけ、入所者本人の気持ちを理解しようとはしない、のだという。
これとよく似た例がある。やはり性に関する障害、インターセックス(性分化疾患、あるいは半陰陽)である。
出生時、外性器形状異常が発見され、本人の意思もへったくれもなく、両親が相談し、担当医師が判断、手術。「性と障害」は、どちらの例も当の本人は疎外されている。
女性の知的障害といえば、性風俗の問題がある。本人も楽しくて嬉しくてしかたないし、施設になんか行きたくない。お客も店も喜ぶ(山本譲司「累犯障害者」)。
誰も困ってないじゃないか。それが何の問題なの?
それが問題なのだよ。社会に役立たずで迷惑な障害者は、みんな施設に入れろ。隔離しろ。
今はそう思っていても、事故にあったり病気になったり年とったりして、いずれ「施設」に入る。そのときになっても、もう遅いのだ。
「私は正常な大人だ」。もしそうだとして、生まれた子どもが知的障害の女児だったら?
この世界に起こることで、あなたに関係ないことは、ない。
あなたが「関係ない」と見て見ぬふりをすれば、実は「ひじょうに関係がある」と事実が明確になったとき、やはり「無関係な」他人は見て見ぬふりをするのだろうか?