「父殺し」と「母殺し」と

雨宮まみが亡くなったことを知るまで、オデは彼女に何の興味も示さなかった。

その後、能町みね子がブログでこんなことを書いていた。

追悼しないー能町みね子のふつうにっき

そのなかで、こういうフレーズがあった。オデはどきりとした。

紀伊国屋書店に行って、さっき調べた本を2冊買った。伊藤野枝島尾ミホ、頭おかしいほど強く生きた人の本である。

伊藤野枝はすでに読んだ。島尾ミホは近所の図書館で予約中である。

話は唐突に変わる。昨日オデは『』という映画の上映会+シンポジウムに行った。
応援トークショーという、監督と男優の軽いトークを見て帰ったが、映画の内容は少し気になった。主人公はリストカットの跡(おそらくアディクション)があり、男性に暴力以前のことをされて、太ももに血膿のような瘢痕のような幻想?というか妄想で驚くシーンがあり、警察に被害届を出さなかった。おそらく、具体的な犯人の物的証拠がないと被害を訴えられないと担当の人に言われ、それで断念したようである。
ところが、犯人を野放しにして、被害者が続出した。主人公は被害者たちに「あなたのせいよ! あなたが被害に遭えばいいのに!」と責められた。
ショックなことがあると、主人公は泣くか嘆くか、自分を責めることをする。最初に暴行以前の事件のとき、森のなかで妄想や幻覚を見て、フクロウに会う。フクロウは「あなたは悪くない」と言い、主人公は少し勇気をもらう。しかし、続出した被害者たちが責めるシーンの後は(それらは立件した調書を読んで知った)、森の妄想や幻覚は同じだが、フクロウは何も言わなかったのだ。このシーンで映画は終わった。オデは監督の心情が心配になった。
性暴力被害に遭うと、「私がいけなかったんだ。夜遅く出歩いたから、ひとりだったから」と自分を責めるのが現代日本女性の典型的思考である。だが、アメリカの1970年代では女性や黒人の公民権運動が始まり、コンシャスネス・レイジング(CR)という当事者のグループワークがあって、「私は悪くない。悪いのは社会のほうだ!」と怒りのパワーに満ちていった。
ところが、トランプが大統領候補に正式になった昨今、国民はポリティカル・コレクトネス(PC,政治な正しさ)にうんざりし(通称「ポリコレ疲れ」)、オルタライト(オルタナティブ・ライト、日本でいうネトウヨたちが目標とするのは日本である、理由は「多様性がないから」。一周回ってびっくりぽんである。

雨宮まみが何らかのアディクションを持っていることを、オデは知らない。書籍やブログのタイトルにも、あまり惹かれない。米米CLUBやB’zの音楽は趣味じゃない。オデは根っから中島みゆき教の信者である。ただ、偶像崇拝は禁止なので、『夜会』という名の教会には行ったことがない。

昨日、友人のFBで、彼女は九州の生まれで厳父との確執があった、と書いてあり、雨宮まみで検索すると、トップに大野佐紀子のブログがあった。大野は「父殺し」に共感している。

しかし、オデの場合は「母殺し」だった。上京してすぐ、憎しみのために小説の構成を書いたが、あまりに憎悪が生々しくて、自分からある程度距離を持たないと書けないと思ったが、殺す前に、母は自分の人生を絶った。

母親は父親より厳父で、父親よりも怖かった。コントロールフリークでありながら放任主義で、策略家で、嘘つきでずる賢く、父親が憎いという洗脳を行った。そういう意味ではヘルガ・シュナイダー『黙って行かせて』の母親と一緒だ。

 

雨宮まみとオデの違いを数えたらきりがない。彼女は九州出身で、オデは北海道出身。彼女は怒りを見せたが、その怒りは自分自身を侵蝕した。彼女は年を取ることを嫌がったが、オデは年を取る前に体が動かなくなった。

これから、雨宮まみの書籍やブログを読む。読んでも共感しないと予想するが、それでも読む。