「さらばリハビリ」~(12)リハビリテーション料の根拠は「量(時間)」より「質(効果)」

 病院にいたときと自宅にいたときで、担当療法士の経験値(技術や知識)の落差が激しいことを知った。そのぶん、リハビリ病院の療法士は比較にならないほどレベルが低い。修行も足りないし経験値も低い。それゆえ賃金も安いだろうし、病院経営は低賃金の療法士を搾取している。その搾取は結果的にわれわれ患者たちに影響することになる。

 診療報酬がどんどん目減りしているなか、病院勤務の療法士たちの実態はどうなっているのか、某サイトを引用してみよう。ただし文意が変わらないように表記はアレンジしている。

 某PTは、セミナーや研修で、知識や技術を増やし深めることが、自分自身にとっても患者にとってもリハビリ室にとっても良い影響が出ているように感じていた。

  しかし、ある日、先輩から「他のスタッフができないようなテクニックは行うべきではない」と指摘される。その先輩の理屈では、「診療報酬でリハビリテーション料が一律に定められている以上、PTによって提供できるサービスに違いが生まれるのは患者さんにとって不公平だ」「だから、全員ができることをやるべきだ」とのことである。

 そのPTはとうてい納得できなかったが、「先輩に逆らう技術」はまだ身につけていなかったので、従うほかなかった。

 そのリハビリ室は部屋全体の技術水準が低く、モーティベーションの上がらない暗い空間となっていた。療法士が学んだことを実践で表現できないために学ぶ意欲が薄れ、周囲と合わせることで「満足」が生まれてしまった。

 部屋全体が低水準なので、患者も「そういうもの」と納得してしまい、身体を良くすることでなく、「リハビリ室に行く」ことが目的になってしまった。そのような状況に、誰も異を唱えない空間ができ上がったのである。

 さて、この先輩の言い分、行った措置を見てみよう。あなたはどう考えるか?

言っていることはもっともなことのように聞こえなくもないが、違和感があるのだ。

 この先輩、所属している組織の「高い方」ではなく「低い方」に水準を合わせて行ったのである。そんなことしたら集団としての成長は起こらず、ただただ腐敗していくだけなのに。

 理由を考えてみる。

 

・プライド(自己保身)のため

・努力(勉強)したくないため

・出るかどうかわからないクレーム対応が面倒だと予想したため 

 

 いかがだろうか。患者だけだはなく、一般人にはまったく縁のないリハビリ業界の狭い集団をかいま見てしまった。さらにリハビリ診療報酬が「時間(量)」より「効果(質)」の評価で変わったコラムを、少々長いが引用しよう。

 

 2016年4月の診療報酬改定で、回復期病棟に質の評価が導入された。少し強引な解釈をすると、「時間ばかりかけて結果が伴わないなら、リハビリテーション料の請求を認めません」と支払側から言われている、ということである。

 これまで、リハビリテーションに対しての評価は時間(量)によって行われてきた。そこには、「時間をかけたら社会復帰できることが多い」という根拠が存在したものと推測する。十数年前の社会では、「病気になったら(怪我をしたら)、良くなるまで病院で寝てればいいさ」と本気で考えられていた。

 いまでは信じられないことだが、もちろん、これは医療者側の頭のなかではなく、患者側の頭のなかである。体調が良くなるまで病院では入院できていたので、実際に病院で寝ていると、当然のことながら「残存機能、認知機能」の低下は起こる。低下した状態では自宅や会社で活動できないので、「リハビリテーション」が活発に行われるようになった。

 しかも、「低下してからでは遅い。機能低下が起こる前に介入を始めないと、機能低下を避けられない」という考えに基づき「早期リハビリテーション」が始まった。早期リハが始まったころの患者たちは、「まだ具合が悪いっていうのに、なんでリハビリなんてやるんだ!」って怒った。「早期リハビリテーション」の認知がまだなされてなかったようだ。

  病気や怪我の発症間もない状態から、早期にリハビリテーション介入すると、医療に必要な時間が短縮できて、結果的に医療費を抑制することが可能となる、というデータをもとに、「急性期のリハビリテーション」には「加算」がついた。いやらしい言いかたをすると、「早期のリハビリテーション」はお金になったわけである。

  そういう「報酬」からの誘導によっても、各種報道のされかたによっても、「早期のリハビリテーション」は市民権を得ていったのである。 「早く始めれば早く良くなる」という考えは患者側にも受け入れられ、入院は短いほうが良いという考えかたも定着していったように思う。

  こんな感じで、「診療報酬、介護報酬」のコントロールによって、医療・介護の考えかたそのものが動かされる。その「診療報酬、介護報酬」を動かす元になっているのは何か? 社会保障費という国家予算。日本の国の収入(税金など)の一部を指す。

 人口動態の変化、医療の高度化などによって、社会保障費は上がり続けている。国家予算にも限りがあるので、社会保障費ばかりに使うことはできない。財源が抑えられていっているわけである。そのなかで、手術に関係する報酬、薬に関係する部分などとの兼ね合いもあり、「リハビリテーションに関係する報酬」に「チェック」が入るわけだ。

  これまで行った時間に対して報酬を請求できていた「リハビリテーション料」は、「時間」ではなく「効果」に目を向けられてきた。莫大な時間をかけても、効果のないことに金は出せないという意思表示が、今回の診療報酬で出されたわけである。

 リハビリテーション料を請求する側にとっては、ついにきたかという感じだろう。厳しい条件を突きつけられた、なんて感じる人もいるかもしれないが、これ、当たり前の話である。そういうこともあって「根拠」が重要だ、とずっとずっと言われていたのだ。

 がしかし、これまで積み上げてきた根拠は、「◯◯という疾患の患者××名に、▲▲という方法を行ったところ、対照群に対して◆◆名の患者で改善が見られた。この▲▲という方法は、◯◯という患者に効果が期待できると示唆された」というテンプレートに則ってきたように思う(学会発表のほとんどはこの形である)。この根拠は、職人仲間のあいだだったら最高に美味しい根拠だが、「リハビリテーションの必要性」という面では薄い。なぜなら、ある疾患に有効であるという根拠のある方法を行っても、在院日数の短縮や、ADLの改善につながらなければ、意味がないからである。

 リハビリ現場で求められるのは「根拠のある方法」ではなく、「診療報酬が定めるリハビリテーションの質的評価をあげる方法」である。 「そのやりかたにエヴィデンスあるの?」というセリフには、ほとんどの場面で意味はないが、「そのやりかたで、在院日数や総医療費やADL改善度に効果が出てるの?」という問いは、かなり的を射ている。

  リハビリテーションの価値を高めていくためには、エヴィデンスの構築は必要だ。ただし、「職人が喜ぶエヴィデンス」をベースにしても、自己満足以外は上がっていかないのではないだろうか? 社会に必要と認められるための「評価項目」が、今回の報酬改定で突きつけられた。自分たちの仕事の「結果」で見せていこう。「在院日数」や「総医療費」という形で、皆さんが行ったリハビリの結果が表現され、リハビリの価値が認められていく。「やりかたのエヴィデンス」にこだわっていると、支払う側からそっぽ向かれかねない。「求められる形」を表現していこう。

 

 療法士も大変なんだなあ、と他人事のように思ってしまったが、これは患者個人も変えられない深刻な状況である。確かに骨折患者、特に大腿骨折した高齢の患者は傷口が癒えるまで安静にしていたが、現在では傷口が塞がる前にリハビリして、ちゃんと歩けるようになっている。医療側は筋肉の衰えを重視しており、傷口には「寛容」である。大腿骨骨折の治療は骨にボルトを入れるが、その術法も後側の大臀筋を切開するのではなく、前側の筋肉が比較的細いほうで切開する。それで骨折したお年寄りがどんどん早く回復して退院しようとする。「効果(質)」があるわけだ。

 だが私のような片麻痺患者は、ある程度時間が必要だ。脳のダメージは個人差があるが、私が退院したときは、完全に歩けなかったのである。脳のダメージは何と言っても疲労しやすい。がしかし、「やる気」のある患者はどんどんリハビリに参加するらしい。

 いまはまだ脳の解明がなされていないせいで、神経細胞ニューロン)が自由自在にできないからである。とはいえ、脳の解明が進み、脳疾患の後遺症を完全に治療回復する最新技術ができても、私には飛びつくことができない。技術の進歩は良い影響と悪い影響との功罪がある。応用倫理学ピーター・シンガーは「凶悪な犯罪者は“道徳ピル”を飲ませて更生させればよい」と主張しているが、犯罪に関する法律は不変ではないし、道徳とはいったい何かという定義もないので、「もっとも影響力のある現代の哲学者」の思想は危険である。

 

 療法士が一人前になるコースは、ざっと「療法士専門学校→リハビリ病院→訪問リハビリ」だと思う。なかには音大を卒業して療法士の資格取得をした療法士もいるし、もともと製薬会社の営業マンだった療法士もいる。

 私が一番驚いたのは、急性期病院のリハビリの時間だった。私が担当療法士に連れられてリハビリ室へ向かうとき、ある患者が搬送されて、「○○さんじゃないですか!」と担当は驚いて言った。その後、「○○さんがお亡くなりになりました! お疲れさまでした!」と療法士の挨拶があった。私の推測にすぎないが、その死亡した患者は頭を強く打ったに違いない。

 後に「無理をするとリハビリができなくなるからね。無理なリハビリは意味がない」が口癖の小生意気な療法士がいたが、その口癖が私には「無理をしてもしなくても、死ぬときは死ぬ」という覚悟と、無言の反論をしていた。その療法士は患者の死を実際に見た経験はないかもしれないが、私はあった。他人事には思えなかった。