「さらばリハビリ」~(14)中途障害の落とし穴
野溝七生子『山梔』に、こんな引用がある。
将来に、望みをかけるほど、それほどの無感覚さが恐ろしい
高原英理『少女領域』のなかで、この部分を解説している。
[…]簡単に告げておけば、前進・進歩を何よりの理念とした近代国家日本が、明治を終えた頃、国民に内面化させていたのがこの、絶えず将来に望みをかけ、その一方で現在の不如意に耐えるという、『立身出世』的意識の持ち方なのだ。
[…]阿字子(『山梔』の主人公)はその発想が絶えず『現在』を押し潰すことを見抜いていた。そして、明治の帝国日本から発する『明日へ、未来へ、前進、進歩、拡大、支配、そのために今を犠牲にせよ』というイデオロギーを批判しているのだと言える。
となれば、憧憬や夢想への傾向も、『ありうるかも知れない未来』への期待とは背反する、『ありえない世界』への今の自分としての愛、でしかなく、今を豊かにしたいという意志とは矛盾しない。
いずれも進歩主義に敵対する意志なのだ。
この進歩主義は、男性に、より受け入れられ易い。一方、女性に対しては、夫の出世のために犠牲になれという種類の命令を含むことになる[…]
入院中のリハビリと退院してからのリハビリは違う。前者は、まだ失ってはいないが脳神経のつながらない身体を懸命に動かせば「偶然」つながり、「奇跡的」に回復するが、後者は、すでに失った脳神経を身体の刺激で少しずつ伸ばすことができる、という意味だ。
なるほど、療法士のいない在宅療法では、いつ回復するかわからない将来が見えない不安や、再発する恐怖もあるだろう。その不安や恐怖を、ただじっとベッドで横になっているだけでは、誰だって耐え切れないだろうと思う。そこで、「努力・根性・前向き」である。自分自身の身体と日本の経済事情を重ね合わせ、「低迷」することがないように、「不安」や「恐怖」を感じないように、考えないように一生懸命身体を動かし、地道に日々訓練、というわけである。「懸命のリハビリ」「日々努力のリハビリ」は、思考停止の証拠だ。
確かに、発症から9年経っている私は、気分や体調次第、マイペースでリハビリを続けてきて、薄紙を剥ぐように少しずつ身体を動かせることが嬉しかったりもしたが、長島監督のように「雪の日にも雨の日にも毎日欠かさず散歩する」ことは、どこかがおかしいとしか言いようがない。そのエピソードを「美談」だと思った読者はなおさら頭がおかしい。
「リハビリ礼賛」は、進歩主義に洗脳された己の姿だ。
一番手軽なセルフカスタマイズは美容整形と筋トレによるボディビルだと言われている。どちらもアンチエイジング商法であり、一方はお金を費やし、一方は努力と根性と時間を費やす。アンチエイジング商法は「老いは醜い」と言うが、私に言わせれば、「精神の醜さは誰にも測れないから、身体だけ老いるのが醜いんじゃん?」である。
リハビリを日々努力している脳疾患患者たちも同じだ。そもそも脳血管が老化しているのだし、生まれたときから健常者なのだから、「歩けるようになった!」「お茶碗を持つことができた!」などと噴飯物である。どのみち死ぬし、老いを避けることはできない。努力してリハビリすれば五輪のアスリートになって金メダルを穫れるのか、空を飛べるのか、ビックリ人間になれるのか、甚だ疑わしい。同じ努力をすれば、ハーバードやオックスフォードに合格し、ピューリッツァ賞やノーベル賞を受賞したり国際的な哲学者になったほうが、私には全然価値があると思う。
それぞれの手応えを感じたらいいし、リハビリをやっているときに楽しいと思えばいい。ただ、その手応えや生きがい、楽しさは、一種のまやかしではないのか、誰かに踊らされているのではないか、と疑ったほうがいい。