宇佐美翔子さんの来た道ゆく道(3)
●水商売の世界を渡り歩く
大学はなんとかギリギリ卒業した。踊りのプロの道に進むことはせず、水商売の世界でいろいろな店を渡り歩いた。知るひとぞ知る渋谷の『AUBE(オーブ)』に勤めたこともある。赤坂のオナベバーに勤めていたとき、マルサ(国税局査察部)がはいって何千万円という追徴金を言い渡され、店を閉めることになった。店の先輩が苫小牧のミックス・バーに行くことに決め、私ともうひとりを誘ってくれたので、一緒についていくことにした。
苫小牧の店では、最初の2ヶ月はオカマ3人とオナベ3人で共同営業していた。しかし、オカマとオナベでは接客のしかたがぜんぜん違う。オナベが丁重に応対しているお客さんたちに対して、オカマはこき下ろすような冗談を言う。お客さんがそれを喜んでいても、私たちには耐えられないしいたたまれなかったので、ゲイバーとオナベバーを分けることにした。市内の奥さん連中が、男の子よりはちょっとキレイなオナベを興味半分で見にくるといった感じだったけど、店はかなり繁盛した。
オナベの世界は年功序列が厳しくて、先輩の言うことには絶対に従わなければならなかった。そのうえ、私を誘ってくれた先輩はヤクザみたいなところがあったし、ほかに頼るひとのいない苫小牧では、その先輩にただひたすらついていくしかなかった。私たちの給料はぜんぶ先輩が預かっていて、「必要なものがあれば買ってやるから遠慮なく言え」とは言うものの、現金はけっして渡さなかった。気前のいいふりをしながら私たちを支配していた。先輩は口がうまくて威圧的な態度で丸め込むから、私たちは上手に洗脳されて逆らえない状態だった。店でも家でも24時間ずっと先輩と一緒にいて、そのひとから集中的にいろんなことを吹き込まれていると、それが正しいのかなと思って感覚が麻痺していった。
その状況からどうやって抜け出せばいいのかわからず、ずっと悩んでいた。母親には頼りたくないし、かといってほかに相談できるひともいなかった。不安が強くなって、もうひとりのオナベの子と手を握りあって寝ていた。先輩は地元のホステスと付き合うようになり、かのじょがやっていたシンナーに自分もハマり、私たちはラリった先輩にさんざん振りまわされて耐えきれなくなったので、やっとのことで店のオーナーに直談判して先輩を追い出してもらった。
私はいろいろ悩みながらも仕事はきっちりやっていた。お客さんから少しでも多くお金をもらうことが自分のビジネスだと思って専心していた。けれども、もうひとりのオナベの子はちゃっかり恋人をつくっていた(笑)。そしてその恋人と一緒に店をやりたいと言い出した。
そのころは札幌のオナベ業界でもうちの店が話題になっていて、遊びにきてくれて仲良くなった子たちが何人かいた。その子たちに「そろそろ札幌の店で働こうかな」と言ったら歓迎してくれたので、10ヶ月勤めた苫小牧の店を辞めて札幌に行くことにした。
最初はカウンターバーに勤め、その後、ショータイムのある店に移った。27歳まで札幌にいたが、後半2年のあいだに、セックスのときにトランクスを脱いでナベホモ化するという劇的なことが起こった(それまではバリタチ人生を歩んできた)。相手は同じ店の後輩オナベで、一緒に暮らすようになった。
店のお得意さんである料亭の女将に、私は可愛がられていた。踊りをやっているのを知っていて、「もっと踊りに集中できるようにジム付きのマンションを借りたからそこに住みなさい」とまで言ってくる入れ込みようだった。ところが、私が同じ店のオナベと付き合っていると知って「自分はバカにされていた」と思いこみ、店のオーナーに文句をつけた。オーナーはバカバカしいとは思いつつ大切なお得意さんだったので、私たちに向かって「お前たちのうちで『女役』のほうは店を辞めろ。『女役』にオナベは務まらない」と言ってきた。仕方なく、私は店を辞めた。
店を辞めてから、それまでの反動もあったのか、思いっきりフェミニンに変身した。髪を伸ばし化粧をし、爪を伸ばし、女装するようになった。下着もトランクスからリボンやヒラヒラのついた女性ものに替えた。もともとバレエをやっていたので女性らしい格好をすることに抵抗はなかった。可愛らしい格好をするのも好きだし、マニキュアを塗ったり、長い髪をかきあげる仕草をしたりと、女性っぽい立ち振る舞いを楽しむことが新鮮だった。
格好が男だろうと女だろうと、「どうやったらより男らしく/女らしく見えるか?」を研究するのが楽しかった。どちらがほんとうの自分かはどうでもよくて、同じ化けるならより上手に化けることに関心があった。バレエの衣装を着て踊るのと同じ感覚で、内面を服装や仕草に反映させることは考えなかった。
オナベの子とは相変わらず付き合っていて、私がお弁当をつくって持たせてあげたりと、まるで男女の真似事みたいな付き合いをしていた。オナベバーを辞めてからヘテロ男性客相手のスナックに勤めはじめた私を見て、その子はだんだん居心地が悪くなっていった。仕事とはいえ男性客に営業電話をかける私を、その子は見たくないと言った。自分の居場所がないように感じていたらしいが、私には私の生活があり、やりたいことがある。それで、一緒にいないほうがいいとお互いに判断して、別々に暮らすことにした。
別れてからも、その子はしょっちゅう私に会いにきた。「あまり会わないほうがいいんじゃない?」と言っても甘えてきて、こちらはまったくその気じゃないのに、無理矢理押し倒して犯す、みたいなことをされた。本人が居心地が悪いと言ってきたから別れることにしたのに、別れてからもストーカーのように付きまとわれていた。
私は私でひとりの時間を楽しめるタイプだったので、そのころ流行っていたダイヤルQ2の伝言ダイヤルを聞いて、目ぼしい人に電話した。なかでも東京在住のひととよく話すようになり、付きまとわれている相手の話をしたら、「東京においでよ」と誘ってくれた。住むところもそのひとが紹介してくれて、わたしは再び東京に行くことにした。
そのひととは4年くらい付き合ったが、途中で青森の母に呼び戻されることになり、帰省しているあいだに関係は終わってしまった。
●自分自身はカムアウトの大失敗例
母には何度となくカムアウトしてきたが拒絶されっぱなしだった。大学生のころ、当時付き合っていた子にねぶた祭りを見せたくて一緒に帰省したこともあるし、大学の女子寮に母が来たこともあった。洗濯物のトランクスを見た母は、「男でも連れ込んでいるのか!」と怒ったけれども、そのトランクスは私が履いているんだと言っても理解できなかった(笑)。
誤解されたままではかなわないので、あるとき思い切って、「自分は女性が好きなんだ」と言ったら、「気持ちが悪い。女が好きだなんて気のせいだ。気のせいでなければそういう病気だキチガイだ病院に行け」の一点張り。そのうち「片親で育ったし、自分の育てかたが間違っていたんだ」と泣き出す始末。「(そうかもしれないけれど)そうじゃない」と言っても聞かず、「お前とは親子の縁を切る! 二度とうちの敷居をまたぐな!」と勘当された。だから、北海道にいた約5年のあいだは一度も帰省しなかった。
カムアウトしようとしている若いレズビアンたちを応援しているけれども、自分自身はカムアウトの大失敗例(母にしてみれば子育ての大失敗例)。もともと親子仲が良くなくて意志の疎通がほとんどできていないのに、そこへさらにカムアウトしたってうまくいくわけがない。親子関係が円満なら、親が娘の言い分に耳を傾けようとする可能性はあるけれど、うちは私が小さいときからちゃんとしたかかわりかたをしようとしてこなかった親子なので、セクシュアリティのことだけ取り出して親に理解しろと言ったってどだい無理な話。
オナベバーに勤めていたことも、女の子を喰いまくっていたことも、当然母には言っていない。母としては、別れた父を見返すためだけに私を「立派に」育て上げようとしていた。女性を好きだという私を拒絶しているけれども、実際、母だっていざというときに助けてもらったのは女のひとが多かった。幼いころ私を預かってくれた近所のおばさんとか。だけど、どこかしら男のひとへのファンタジーも捨てきれずにいる。本人はそもそも男との関係に失敗しているのに。
●「男」というだけで無条件に信用する母
勘当されたとはいえ、札幌にいたときも、母との電話連絡だけは定期的に欠かさなかった。ある日、男の声で家に電話がかかってきた。連絡先を知らせているのは女性ばかりなのでおかしいなと思い、「どちらさまですか?」と尋ねたら、「ひとが心配して電話してやってるのに、『名を名乗れ』はないだろう!」と逆ギレされ電話は切られた。
そのすぐ後に母から電話があった。「信頼しているお客さんにお前のことを相談したら、『オレが様子を聞いてやる』と言ってわざわざ電話してもらったのに、お前は『名前を言え』と言ったんだって?」と責められた。母にとっては頼りになる客かもしれないけれど、私にとっては知り合いでもなんでもないのだから、知らないひとから電話があればまず名前を尋ねるのは当たり前のことだし、ひとり暮らしの女の家に夜中に知らない男の声で電話がかかってきたら警戒するに決まっている。
だいたい、店の客をまともに信頼する母もどうかしている。私も客商売を長くやってきたからわかるけれど、お客としては、店のママにちょっとかっこいいところ見せて気に入られたら酒の一杯もサービスしてもらえるだろう、くらいの魂胆をもっている場合もあるのに、そんな区別もできないまま相手の態度を真に受けて信用しようとする母もバカだ(たぶん、相手が「男」というだけで無条件に信用して頼りたいという思いが母にあるのだと思う)。私としては、酒の席で勝手に話のネタにされたのが腹立たしいし、そのうえ夜中にいきなり電話してこられるのはえらい迷惑だった。
<つづく>