「さらばリハビリ」~(15)急いでリハビリする必要はあるのか?

 脳梗塞を発症したとき、死んだ脳細胞の浮腫ができているかもしれないので、安静にしていないといけない。が一方で、動かなくなった手足を早いうちに動かさなければならない。

 アメリカの病院ではさっそくリハビリを開始した。言葉はまったくわからないが、療法士がきて私の手足を動かした。日本の病院でも同じだった。

 日本の急性期病院のPT担当は親しみやすい性格で、私の左腕をマッサージするように動かした。私は「痛い痛い!」と叫んだが、ドSなPTは笑顔で「動くと念じて! 動け動け!」と何度も私に語りかけた。私は「マジ無理! 動かないもんは動かないんだよ〜!」と反論したが、強制的なリハビリは続く。私は諦め、されるがままにした。

 まったく動かさないと筋肉が縮み、関節包外の軟部組織が原因で起こる関節可動域が制限されてしまう。つまり拘縮である。生理学的には、活動電位の発生の停止により筋が弛緩しなくなる現象である。頭ではわかっていたが、動かすととびきり痛いし、いつも疲れているし、やる気も皆無だった。

 在宅のPTは、訪問リハビリのときに毎回必ずしつこく言った。「可哀想に〜、左腕全然かまってもらえないんだね〜」「今日も手の甲がふっくらして、クリームパンみたいで美味しそう♪」。皮肉と言えば皮肉だが、「ごめんなさいごめんなさい」と私は笑って言った。でも相変わらず私は左腕をまったくかまおうとしない。それはなぜか。

 退院した私は、動かない手足が動くようになる方法をネット検索した。「鍼灸で麻痺が治った」という治療院も行ったし、栗本慎一郎考案の「ミラーボックス」も購入した。「川平法」導入の病院にも通った。慶応義塾大学病院の「BMI(Brain Machine Interface)療法」や、東京慈恵会医科大学の「TMS(Transcranial Magnetic Stimulation)経頭蓋磁気刺激療法」に門前払い覚悟で行った。でも結局全部ダメだった。

 鍼灸治療は施術師に「おそらくあなたには効果はあらわれないと思いますので、もう来ないでください」と言われ、在宅訪問のPTにミラーボックスを見せて「ああ、これはねえ…腕の神経がもう少し伸びないと無理かもしれないねえ」と言われ、川平法導入の病院は神奈川県なので通院するのに時間と電車賃がかかり、2つの病院の療法は適応条件があった。その適応条件に私の当てはまるものは皆無だ。当時の私ができるだけのことは全部した。

 散歩の途中、私は在宅訪問のPTに訊ねた。「左腕って、本当に動くの?」。PTは微笑しながら遠い目をして答えた。「左腕はね…最初にぎゅ〜って『く』の字に曲がるの。それからもっと、ぎゅぎゅ〜ってなるの。もうこれ以上ぎゅ〜ってならなくなったら、だらんと脱力するの。そしたら動くようになるから」。「ああ…」と私も遠い目になった。ため息しか出なかった。

 私は一人で考えた。左腕が「く」の字に曲がるのって、どういうこと? 入浴はどうするの? 服の着替えはどうするの? 半袖はまだ平気だけど、長袖やコートはどうするの? 腕が動く前に多大な困難があった。

 リハビリの回復過渡期に痙縮があると聞いた。痙縮とは、脳疾患後遺症による手足のつっぱりやこわばりであり、痙縮の治療のためボトックス注射療法をする。ボトックス注射とは、ボツリヌス毒素製剤の一つである。ボツリヌス菌(食中毒の原因菌)がつくるタンパク質(ボツリヌストキシン)を薬として用いられるように加工されたものを用いることで、ボトックスは筋肉を支配する神経に取り込まれ、その神経を麻痺させる。その結果、注射された筋肉を弛緩させることができる。過剰な緊張によって固くなってしまった筋肉を弛緩させることにより、関節を動かしやすくする。

 注射はよいのだが、でも値段がお高いんでしょう? 上肢痙縮・下肢痙縮・眼輪痙攣・発汗異常(脇汗)に対して健康保険が使えるらしいが、非常に高いお薬なので、自己負担3割で6万円以上はするらしい。治療一つとっても、まずは金である。貧乏人には治療できないってことなのか?

 もう、いいや。脚は訓練したいけど、腕は諦めた。腕が動くように訓練するより、片手で何でもできる工夫がしたい。茶碗は持てなくていい。調理もヘルパーさんがやってくれる。爪切りも訪問看護師に任せよう。幸い私は右利きなので、箸やフォークを使って食べることができるし、ノートに書くこともPCのキーボードを打つことももともとできる。現在できないことをできるように努力するのは諦めた。その代わり、現在できることをよりスムーズになるよう工夫しよう。

 というわけで、私の左腕は今日もだらんとしている。浮腫んではいない。ときどき思い出したように、うつ伏せになって肩を上げて筋肉を伸ばしたりしている。杖歩行のリハビリ散歩はなるべくしない。それよりも、本を読んだりラジオを聴いたり、シンポジウムや公開講座に参加したり、映画を鑑賞したりするほうがよほど有意義である。動かない脚を黙々と杖ついて散歩して、毎日ルーティンのように筋トレでもしろというのか? 価値観はそれぞれ個人差があり、私は前者のほうが楽しいのだ。

 発症から9年も経つとさすがに筋緊張が表れる。冬になるとそれがひどくなる。私は痙縮や拘縮を懸念して近くの治療院に週2回通院している。私以外に身体のオブザーバーがいるのは有効だ。些細な変化の原因は何かわかるし、痛みや違和感もとってくれる。まだ腕は「くの字」にはならないが、身体の変化がゆっくりなら、変化に対応もゆっくり時間をかけて検討できる。私はなんだか、このペースに合っているような気がする。