「さらばリハビリ」~(2)仁義なき病院との闘い
アメリカから帰国した翌日、川口さんが入院手続きをして、私の部屋を用意してくれた。カーテンを締め切っていたので詳細はわからないが、部屋は4人か6人くらい。窓が広くて、部屋全体に日光が明るく差している。川口さんは机で書類の記入をし、売店でパジャマとオムツとタオルを買ってくれた。彼女が帰った後、昼食の時間である。その前に、私のオムツは糞まみれだったのでオムツ交換してすっきりしてから食べようと思い、ナースコールを押した。
だが、押しても押してもナースは全然来ない。たぶんナースたちは忙しいだろうと思って最初は余裕で待っていた。しかし、短気の私は堪忍袋の緒がすぐにブチ切れた(高次脳機能障害のせいでもあるかも?)。もういい! 待っても全然来ないなら、逆にハンガーストライキをしようじゃないか!
同室の患者が私の糞の臭いに困ってナースステーションに苦情を言い(私は鼻が悪いので、自分の糞の臭いはおろか、ドリアンでもくさやでも平気で食べた)、やっと師長が私のところに怒ってやってきた。それを見た私は怒髪天を突く勢いで怒鳴り返した。
「私が呼んでも呼んでも来なかったくせに! 隣の患者さんの言うことは利けるのか! もうオムツは絶対に取り替えさせない! 絶対に!」
困った師長は、今度は懇願の姿勢で言った。私がオムツを取り替えないと、部屋の隣人が困る(私は全然困らない)のである。当事者の私がイエスと言えばオムツを交換できるが、私はノーと言っている。要は、患者の身体について反対意見があると医療者側は強制できない。
1981年に採択された「患者の権利に関する世界医師会(WMA)リスボン宣言」において、良質の医療を受ける権利、選択の自由の権利、自己決定の権利、情報に関する権利、守秘義務に対する権利、健康教育を受ける権利、尊厳に対する権利、宗教的支援に対する権利などが挙げられているのだ。
今度はナースたちが私のベッドを取り囲んで威圧してきた。そんな威圧がなんだ、私は絶対に負けない。私がオムツを取り替えたくても、いままでナースたちはいったい何をしてたのか? 無視したじゃないか! だったら私もナースの要望を無視してやるからな!
当時の私はおそらく、こんなふうに明確な主張を言葉で訴えるわけでもなく、実際には怒号を伴った咆哮だったろうと思った。意味も言葉もわからず、ただオムツ交換を拒否する、迫力と凄みのある羆かゴリラであった。ベッドを取り囲んだナースたちは一斉に泣いた。緊張のピークになったのか、私の気迫が怖かったのか、それとも超多忙でストレスフルなナースたちの心が折れて、疲れさせたんだろうか。
これ以上、私にかかわり合ったら業務に差し関わると判断した師長は、一度彼女たちを撤退させた。でも私の意志は変わらなかった。となると、困るのは同室の患者さんたちだ。
「あ〜、臭い臭い」と隣の患者は皮肉に言った。私はすかさずリベンジした。カーテンの隙間から患者の目を瞬きなしで強く睨み、「コロシテヤルコロシテヤルコロシテヤルコロシテヤルコロシテヤルコロシテヤルコロシテヤルコロシテヤルコロシテヤルコロシテヤルコロシテヤルコロシテヤルコロシテヤルコロシテヤルコロシテヤルコロシテヤル…」と私はつぶやき、黒い殺意を込めて呪いに呪った、患者の心臓をきゅっと掴むように。カーテンの隙間から覗いた患者は困ったように手で顔を覆った。そして患者は速攻で移動した。ざまあみろだ!
以降、ナースたちは私に声をかけ始めた。「アメリカで倒れたって本当ですか?」が「アメリカ人なの?」に容易に変わる。バカたれ、名札を見ろよ名札をよ! といっても、私は短期間アメリカにいたせいで言語障害がさらにアレンジされ、「外国語訛り症」と診断された。すぐ治ったが、「し」が「すぃ」と発音され、勘違いナースを生み出したのは私が原因だった。
季節は冬。私と似たような症状の患者が次々搬送され、顔はまったく見えないが、深夜の病室でしくしくと泣いているようだった。「患者たちは何が悲しくて泣くのだろうか? 私は脳梗塞になり寝たきりになっても泣いたことがないぞ? むしろ笑ったり怒ったりで忙しいんだよ!」と不思議に思った(←おそらく高次脳機能障害で感情のコントロールができない。それが判明するのは退院してから)。
時は2011年の正月を迎え、私は病室で「寒い、寒い」と繰り返した。それもそのはず、入院してまだ2週間も経っていないのに、私は寝たきりになって筋肉をまったく動かしていないのだ。
北海道の豪雪地帯で生まれ育った私が、東京の冬の寒さに負けるなんてありえない。なのに、部屋の暖房を入れても重ね着してもまだ寒いのである。「身体が凍えるように寒い」という謎は、発症して数年経ってやっと解明した。傷ついた脳はエネルギーコントロールが不能で、あめ玉やチョコレートなど高カロリーのものを常に携帯し、摂取しなければならない。脳が「エネルギーゼロになった! カロリーをくれ!」ということを身体の寒さで必死に訴えている。それが判明したいまは机の上に常備食をセットして、空腹より先に身体の冷えが始まるとそれらをすぐに食べるのだ。若いときは冬になると過ごしやすく感じたが、いまは春や夏が待ち遠しい。冬が天敵になるとは思ってもみなかった。
話が寄り道した。誰が知らせたのかわからないが、「お仲間」の見舞いが続いた。「お仲間」というのは、私と同じような性的マイノリティの知人友人たちである。当時の私は国際基督教大学の性的マイノリティ学生サークル「シンポジオン(ギリシャ語で「饗宴」)のメンバーと一緒にイベントや飲み会に参加していた。メンバーとの年齢は10歳も離れていたが、ジェネレーション・ギャップは私にはあまり感じなかった。共通する話題は「くたばれ家父長制」「天皇制廃止しろ」という物騒なもので、性的マイノリティだけでなく、外国籍の留学生とも日常的に接触が多く、たとえば、一人が日本人でもう一人がフィンランド人のゲイ・カップルがいた。ジェンダーだけでなく人種や階級にも敏感なメンバーたちは、怒りながら飲みながら食べながら笑っていた。
私はベッドで寝たきりで、言葉もうまく喋られなかったが、いまでも覚えているのは、ユニクロの黒いヒートテックをお見舞いにもらったこと。左腕が動かないので袖を切って着ると、「まるで前衛舞踏家みたい」と友人が言い、私は笑いのツボに入った。
レズビアンのカップルで、いつでもどこでもバイクで移動する2人がやってきて、「この病院、屋上があるよ。一緒に見に行こうよ!」と言って車椅子で私を連れ出し、2人は「眺めがいいねえ」と悠長に言っていたが、時間帯は夜で周りは暗く、私は寒くて、左胸のあたりの筋肉が寒さで収縮し、肺が痛くて苦しくてそれどころじゃなかった。なんというか、ありがた迷惑だと当時の私は思った。。。
入院以来、私は歯も磨かず、風呂にも入れない状態だった。そんな折、これも別のレズビアン・カップルだが、一人は看護師、もう一人は患者のプロで、洗面器と歯ブラシセット(なんと膿盆入り!)を持参し、看護師が私の右足を洗い、足を鼻につけて「臭い!」と言った。私は笑った。
帰り際、看護師が私の左手を持ち、石けんで洗った。その官能的な泡の感触が、私の性的興奮をくすぐったことは内緒にしている。
その月は私の41歳の誕生日で、病院内で「お仲間」たちと集まり、ささやかな誕生日会をしてくれた。北海道出身の友人が茶色のあったか〜い膝掛け・肩掛けをくれたので、さっそく試してみると、ゲイの友人が「マタギみた〜い♪」と笑った。そのとき私のヘアスタイルはスキンヘッドを伸ばした感じだったので、クマやシカの毛皮を着たおっさんのようなマタギだった。これは否めないなと思い、笑うしかなかった。入院中はいろいろな見舞い品をいただいたが、これはいまだに重宝している。だって、あったか〜いんだもの。