第1回のご報告と第2回のお知らせ

昨日、第1回「デルG読書会」無事終了しました。参加者はわたしを含め5人。実に有意義な会でした。

取り上げたテキストは掛札悠子『レズビアンである、ということ』(1992年、河出書房新社)。20年近く前に出版された本なので、内容はそれなりに古いはずなのですが、わたしはこの本の内容を「古い」と言い切れるほど、レズビアンを取り巻く現状が変化しているとはあまり思えていません。当時の活動の様子を知らないことも一因ですが、本書で触れられている問題が、「いまはもうすっかり解決してるじゃん」「それはすでに終わった話だよね」とは言い切れないと思うからです。

たとえば、バイセクシュアルのこと。「『レズビアンである』ということは、その人が『レズビアンでありつづける』ことを意味しないと私は考えている」(P21)とはいうものの、「人間は本来バイセクシュアルである」という発言を、異性愛者か同性愛者のものとしてのみ想定して、属性によって発言の意図の読み込まれかた(発言の効果)が変わるとし、バイセクシュアルによる発言はまったく想定されていません。その後、バイセクシュアルを排除しない動きが出てきてはいますが、バイバッシングの声は依然としていまでも耳にすることがあります。

レズビアンである」ことと「レズビアンでありつづける」ことは違う、という点だけ取り上げればわたしもまったく同意なのですが、もし両者が別物であれば、ある時点から「レズビアンはじめました/やめました」ということも成立するとわたしは考えます。しかし、掛札さんは、「だれも、なにかの原因があって『レズビアンになる』わけではない。『ある特定の他人に出会うこと』以外の理由では。レズビアンはあくまでも『レズビアンである』という存在だ。それに、『レズビアンになる』とはどういう状態になることを言うのだろう? 女性と『セックス』をするようになることだろうか? 女性と生活するようになることだろうか?」(P40)と述べ、主に「選択的レズビアン」を批判しています。

レズビアンであること」に一定の原因(や理由)を求めることには意味がない、とは、わたしも思います。掛札さんのこの考えには、多数派(異性愛者)から向けられる「あなたはなぜ同性に惹かれるのか」という無遠慮な疑問と、その疑問を内面化してしまうことからレズビアンを守ろうとする意図が読み取れます。けれども、「女性が女性に魅かれる理由は『ない』と言えるほどに多様なのだ」(P36)と述べながら、他方では、「私は思想によってレズビアンになることが可能だとは思わない」(P32)として、多様なはずの理由から「思想」を排除しています。

掛札さんが本書で批判の対象としている川原狩戸さんの言は、引用箇所だけを見てもかなりお気楽というかむちゃくちゃな感じがするのは確かですが、川原さんの主張にツッコミを入れることと選択的レズビアンを否定することを混同してはいけないはずですし、川原さんを撃とうとして放たれた流れ弾がほかのレズビアン(の周辺をさまよっているひと)たちに当たってしまうことは掛札さんの本意ではないだろうとも思うのです。

そもそもこの本が出た当初、わたしは自分がレズビアンなのかどうか、レズビアンであることを引き受けていいものかどうかちょうど考えあぐねていたときで、「これを読めばなにか手がかりが見つかるかもしれない」と思って速攻入手しました。が、本書の冒頭からして、「『レズビアン』あるいは『同性愛者』という言葉にまとわりついているさまざまなイメージへの抵抗感」(P9)から「私は断じて『レズビアンなんかではない」(P7)と述べられていて、わたしの懸念や逡巡とはちょっと違うのね〜、と肩すかしを食らい、軽い失望を味わったものでした。当時のわたしは、いまで言う「トランス感覚」が強かったので、レズビアンであるかどうか以前に、自分が女であるかどうかというところに強い引っかかりを抱いていたのですが、本書を読んで、レズビアンが女であることは自明の前提なのだなと思い、ああ、やっぱりわたしはレズビアンのグループには入っていけないのだと疎外感を抱いたものです。

そんなほろ苦い思い出語りもほどほどに、話を戻しましょう。今回の読書会に備えてレジュメをつくるために改めて本書を精読したときに、まず引っかかったのが、ポルノグラフィにおけるレズビアンのイメージとして提示されたものでした。「女と女がまるで男と女のように『セックス』をしている姿、あるいはまるで男のように女を支配している姿」(P10)というのですが、そういうイメージで描かれたレズビアンのポルノグラフィをわたしはまったく見たことがない、と思ったのです。わたしの知っているレズビアンポルノ(アダルトビデオですが)といえば、フェム×フェム同士で生温いじゃれあいをして、双頭バイブでお互いあんあん喘ぎあって終わりとか、後半に男が出てきて3Pになだれ込んだりとかいう代物で、「なにこれぜんぜんレズビアンじゃないじゃん」という印象しか持っておりませんでした。

で、その疑問を読書会で提示したところ、本書で想定されているのは当時の日本のポルノグラフィではなく、たとえばアメリカのレズビアンSMもののポルノグラフィではないかというご意見が出ました。そこを端緒として、日本におけるレズビアンのポルノイメージはどのように派生していったのか、という話になりました。おそらく、わりと長いあいだ、レズビアンに限らずポルノグラフィは文学(活字)の形でごく一部のひとたちにのみ開かれていたのが、70年代に家庭用ビデオデッキが登場してアダルトビデオと抱き合わせで普及しはじめ、80年代前半にフォーカス、フライデーなどの写真週刊誌が創刊してヌードグラビアが多くのひとの目に触れるようになり、80年代後半にはレンタルビデオ店の普及によりアダルトビデオ全盛期を迎えた、と。

本書を読み解くうえでは、時代背景やものごとの移り変わりを推察することはひじょうに重要ですし、参加人数は少ないながらも、当時のレズビアンコミュニティの様子をじかに知っているかたや、アメリカでのクィア・ムーブメントの歴史を知っているかたなどが参加したので、知識や情報が複層的につなぎあわされ、とても刺激的で実り多い時間をすごすことができました。なによりも、ひとりで読んでいると意味が読み取れない箇所や読み間違いをする箇所が多々出てきたり、著者の混乱やしんどさが伝わってきてこちらもしんどくなるのですが、「わかんねーわかんねー」と騒いでいると「こうじゃないかしか、ああじゃないかしら」と疑問をひもといてくださる声がどんどん出てくるので、とてもありがたいものです。

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というわけで、次回予告です。

第2回デルG読書会 8月17日(火)19:00〜 @コミュニティセンターakta(アクタ) 飲食持ち込みOK

使うテキスト:掛札悠子『レズビアンである、ということ』(1992年、河出書房新社
結婚と家族と「レズビアン
「母」という呪縛

参加する際、当該テキストがほしいけれど入手できないかたには実費負担でコピーを差し上げますので、メールでご連絡ください。テキストなしでの参加も歓迎。「内容がわからないので話についていけない」なんていじけなくても大丈夫。お菓子をつまみながらその場の思いつきや直感であれこれ話しましょう。でも、グランドルールは読んでおいてくださいね。

また当日、会場で席がとれない場合は急遽場所を変更することがありますので、(たぶん大丈夫だと思いますが)できれば参加ご希望のかたは当日連絡可能な連絡先を併せてメールでお知らせください。