「クィアってなに?」清水晶子さんインタビュー(2)
[http://d.hatena.ne.jp/deltag/20071110:title=
「クィアってなに?」清水晶子さんインタビュー(1)]の後半です。クィア学会を立ち上げるにいたったいきさつや、どんなニーズがあって設立を目指したのか、クィア・スタディーズに必要なものとはなにかなどについて、お聞きしました。(聞き手/ミヤマアキラ、つな)
●クィア学会って、なにをするところ?
――クィア学会の呼びかけ人にもなっていらっしゃいますが、この学会ではどんなことをやろうとしているんですか(ワクワク)?
ご存知のようにとても問題含みなのですが、この学問領域の制度化をやろうとしているんです。必ず問題になるんですけど、クィアなものとかクィアっていう概念は、学会というシステムとは一致しない。制度をつくって、なにかやるためにひととお金を集めて、事務局があって、という「システム」が学会ですけれども、クィアっていうのは基本的にシステムを壊すほうの概念なので、理念的にはほんとうは一致しないんです。けれど、大学で系統立てて学べるコースもなにもないし、研究者同士もバラバラになっていて、連携がとれているひとはとれているんだけれども、個人的にがんばるとか顔が広いとか人見知りしないとか、いろんな条件がそろわないと、いろんなところにネットワークができていかないんですよ。だからそういう状況を変えたいなぁと。
それから、たとえば東京にいるのと地方にいるのとでは状況がぜんぜん違う。いまは学会の話なので、基本的に研究生とか大学生とか大学院生を念頭におくと、そういう若手のひとたちが研究会に顔を出そうとしたときに、東京にいてすごく頑張って探していればなにか見つかるんです。それが、地方の大学になればなるほど、少ない。
――レズビアン・コミュニティと同じだ。
そうですそうです。それは教員になっても同じ。あともうひとつは、学会がないということは学会誌がないんですよ。たとえば、文学の領域で特定のディシプリンをやるひとが、クィア関係のことに関して一生懸命リサーチしていい論文を書こうとする。それを発表しないとひとにも知られないし業績にもならない。発表しようと思っても、そのひとがメインで入っている○○文学とか○○美学とかの分野では、そんなものは認められないし評価されないので論文が出せない、ということが実際にあるんです。
だけど、学会誌があればそこに出せる。そうすることで研究者が業績をつくれる。業績をつくることで大学とか高校とかで職を得やすくなる。そういうところで職が得やすくなるということは、基本的にはクィア・スタディーズをやろうというほどの関心がないひとたちに、話をする機会が増えるんですね。
――研究者のためのリクルートでもあり、それがクィア理論の裾野を広げることにもなるわけですね。日本以外ではクィア学会って制度化されているんですか?
クィア・スタディーズの学会は、アメリカなどにはないと思います。いらないんです。大学にセクシュアリティに関するコースはいっぱいあるし、クィア・スタディーズなんていう広い形で無理矢理学会をつくる必要がない。あと、良くも悪くも全国的な組織としてのセクシュアルマイノリティ系団体や女性団体があったりして、そういうところでも本が出る。すごく細分化された形でいろいろ団体があるから、わざわざつくらなくてもいいんだと思います。
●クィア・スタディーズには想像(=創造)力が必要
――日本でクィア学会をつくろうという動きが起こった経緯について、教えてください。
「クィア学会やろうよ」という声は身近にいろいろあって、「それがいい、応援するからやりましょう!」と強く言ったひとがひとりいて、そのひとに強引に推されて、「じゃあ、ひとを集めねば」という感じで、そこからあとは単純に知り合いに呼びかけたりして。
ほんとうは、最初は国際学会をやりたかったんですね。あるところに「国際学会をやりませんか?」と持ちかけたんです。すると、「その前に、国内でどういうひとがやるのかまず確認しなきゃいけないよね」という話になって、「じゃあ学会立ち上げてよ」というところからはじまった。その話を持ちかける前に別な国際学会に一緒に行ったメンバーが、わりと中心になって立ち上げにかかわっています。
――他団体と学会が組んでなにかをやる、ということはアリなんですか?
実際のところ「学会として」するのは難しいと思います。「こことは組むのにあっちと組まないのはなぜか?」という疑問も出てくるでしょうし、「あそこと組むならやる!」というひともいれば、「あそこと組むならやめる!」というひともいるでしょう。で、学会がなにかの役に立つとしたら、ある種の中立性なんです。「だったらやる」というひとと、「だったらやめる」というひとが話し合う場になればいいと思っています。
クィア・スタディーズには想像(=創造)力が必要です。とても大事です。これは私の個人的な感覚ですけど、Camp(キャンプ)の表現ってありますよね。私にとって、キャンプ表現の一番の魅力は、そこに既にあるものをそのまま受け入れるのではなく、場合によっては自分が持っていないもの、手に入らないものを強引にその場につくりだすというところにあります。ここでのキャンプがドラァグとは限りませんが。その力はやっぱりすごく強い。いまの社会とは違うほかの社会を想像する、こういう自分じゃないほかの自分を想像する、こういう状況じゃないほかの状況を想像することによって、たとえば、具体的に生き延びることができるかもしれないし、あるいは、もっと強ければ、違うところに行こうとか、違う社会をつくろうとか。
――私つねづね思うんですけど、もう生きていられないと思ってこの世と決別するひたちって、自分の妄想にとらわれて、それ以外のものにアクセスできなくて死んでしまうのではないかと。もちろん、意図せずして薬のオーバードーズで死んでしまうひとも多いけれど。
そのときに、芸術があればいいってものではなくて、飢えたひとの前でどんなにすばらしい芸術を見せたところで、それを見ながら死んでしまうから、そういう意味では無力なんだけれど、でも、なにかがクリックしたときに、そのひとがその状況をなにか違う目で見るとか、それによってこれまでとは違うことをしたり、違うところに行ったりすることが、時には可能だと思っています。可能性ではありますが。芸術の力ってそういうものですよね。
――そうですね。マイナスの想像(妄想)は自分を殺すけれども、プラスの想像は自分を生かすのだと思う。その想像によってがんばろうって思えるんだと思う。
――芸術家は自殺するよ?(つな)
――それは負の方向に行っちゃったんだろうね。そこ、危ういんだよ。紙一重。剃刀の刃のような分水嶺のうえを歩いているんですよ。
芸術家本人は自殺しちゃうかもしれないけど、そのひとが遺したものが、そのひとが思っていたようにほかのひとに受け止められるとは限らないですよね。本人は、「もうだめ、死ぬ」と思って最後の作品を遺して死んじゃったかもしれないけど、それを観たほかのひとは、違うように受け止めるかもしれない。
――芥川龍之介は自殺したけれども、芥川の作品を読んで「生きよう」と思ったひともいるかもしれない。
芸術家本人は、それこそ死ぬほど思い悩みながら作品をつくっているかもしれないけれども、それを観たひとたちは、わからないなりにもそれぞれ勝手になにかを受け止める。バトラー(ジュディス・バトラー)もそうですよ。みんなわかんないんだけど、わかんないなりにみんな勝手に受け取っている。
――オーディエンスの力、ですね。そうなると、書いたひとつくったひとは責任の取りようがない(笑)。
――フランスの芸人で、バナナの皮で滑って転ぶ、みたいなベタな芸をやっているひとがいるんですけど、そのひとのパフォーマンスを見たある聾唖者が、涙を流して感動したそうです。「初めて音というものを感じた」って。それは完全にその受け取ったひとの力だなぁと思った。(つな)
――演じ手はそんな意図を持っていなかっただろうね。
そういうものですよね。
――最後に、清水さんがお薦めする、日本語で読めるクィア・スタディーズの文献があれば、ぜひご紹介ください。
入門書としては、
河口和也『クイア・スタディーズ (思考のフロンティア) 』(岩波書店、2003)
かなり前のものですが、図書館などで見つかれば、
1997年『現代思想:97年5月臨時増刊号 レズビアン/ゲイ・スタディーズ』
語り口は明快だけれども、「クィア」の雰囲気を良く伝えるもの。
ケイト・ボーンスタイン『隠されたジェンダー』(新水社、2007)
取っつきにくいですが理論系のものが好きなかたに。
竹村和子『愛について―アイデンティティと欲望の政治学』(岩波書店、2002)
ジュディス・バトラー、イヴ・セジウィックの著作(ちょっと難しいですけれど)