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「クィアってなに?」清水晶子さんインタビュー(1)

2007年7月から9月まで、パフスクールにおいて、清水晶子さん(東京大学大学院総合文化研究科准教授。専門は表象文化論、批評・文化理論)を講師に招き、クィア・スタディーズ講座(全6回)を開講しました。


このインタビューは、講座第5回(9月5日)終了後に行ったものです。クィア学会立ち上げ準備などでひじょうにお忙しいなかを縫って、取材に応じてくださいました。前半/後半の2回に分けてお送りします。前半は、クィア・スタディーズ講座開講にいたった経緯や、実際に講座をおこなっての感触、清水さんご自身がクィア・スタディーズに感じる面白みなどをご紹介します。(聞き手/ミヤマアキラ)


●キレイな動機とキタナい動機のからみあい

――パフスクールでクィア・スタディーズ講座をなさった経緯には、主催側から、「クィアっていったいなんなのかよくわからない」という要請があったとうかがっていますが、大学の授業でも主にクィア・スタディーズを行なっているんですか?

日ごろは大学で主に英語を教えています。会話とか文法とか、カリキュラムとして組まれている英語とかを、教えていたりします。

とはいえ、あるとき授業でドラマを観たんです。ティーンエイジャー向けのコメディーホラーのようなシリーズもの(『Buffy the Vampire Slayer』)で、いまから10年くらい前のアメリカのドラマです。すごく長いシリーズのなかのワンシーズンを見せたのですが、主役がひとりいて、準主役が3人くらいいて、準主役のひとりの女の子が、シーズンのはじめに彼氏に振られて落ち込んでいて、シーズンのまんなかあたりで彼女ができる。それを観て学生たちはすごく動揺していました(笑)。ティーンズドラマで、しかも準主役、前の彼氏を憎んでいるわけでもなく、特に「男っぽい」わけでもない女の子にあっさり彼女ができてしまったという設定に驚いた学生さんが、結構いたように思います。

さらに、この2人が結局カップルになるエピソードでは、元彼さんが「よりを戻そう」と言ってきて、彼女と元彼さんはある意味ではいまだにお互いとても大切に思っていることを確認しあいます。けれど、それにもかかわらず、彼女はいまの自分の愛情が向けられている相手として新しい彼女の方を選ぶ。その過程が「女なのに女を選んだぞ!」というところで大騒ぎするわけでもなく描かれているので、「何? なんでそうなったの? え? あの子と恋人同士になったの?」と、一瞬ストーリーがつかめなくなった学生さんもいたりしました。けれども、「レズビアンの恋愛がこうやって描かれているのはとても良いと思う」という意見を寄せてくれる学生もいて、それはうれしかったです。

――清水さんが今回の講座を引き受けた理由は? どんなひとたちに学んでほしいとか、どう役立ててほしいとか、狙いはありました? あるいはご自分のなかの動機とか。

自分のなかのキレイな動機は……。

――キレイな動機とキタナい動機があるんですか(笑)?

ええ(笑)。最初、つなさんやターリさん、沢部さんと打ち合わせしたときに、「クィアとかクィア・スタディーズという言葉を聞くけれども、いったいなにをやっているんだろう?」という疑問をいただいて、そう感じるひとは確かに少なくないだろうと思い、そういうひとたちが来てくれたらいいなと思いました。また、3人からクィアという言葉の受け止めかたや印象をうかがって、それは私が考える「クィア」とは違うなと思ったので、逆プロパガンダをやっておこう、と。


――クィアとはなにかを知りたいひとのために、きちんと情報提供する場にしたいということですね。

そうです。ここまではキレイな動機ですね。キタナい動機はいっぱいあります。私自身、あまり実地の経験がないんです。基本的にはひとりで黙々と悩みながら、黙々と自分で折り合いをつけてきたタイプなので、コミュニティにも行かない。『ラブリス』(レズビアンバイセクシュアルのためのミニコミ。1992〜1995)をちょっと読んだけれども、彼女ができてやめてしまった。

――よくあるパターンですね(笑)。

そういう感じだったので(笑)。私は私の個人的な感情とかモチベーションがあっていまやることをやっているけれども、そこから出てくることを、ほかのひとたち、たとえば若いひとも年配のひとも含めて、それに対してどう思うのか知りたい、フィードバックがほしい、というのがキタナい動機のひとつ。

――ぜんぜんキタナくないです。

自分のためになるようにしようとしてるから。

――だって、その前に情報提供してるじゃないですか。

もうひとつのキタナい動機は、クィア学会の立ち上げと絡めて、クィアという言葉を微妙に宣伝しておこうと。

――なるほど、それはキタナいですね(笑)。今回の講座は5回目で、次回が最終回ですけど、これまでの講座を振り返ってみての、清水さんの感触はいかがですか?

やっぱり私は講義は下手だなぁと。

――いきなり反省モードですか(笑)。いいことないの? いいこと。

講義が下手で、一方的な講義口調になるんですね。それは学生からも常に怒られています。大学の授業って、講義とゼミがあって、講義はしゃべるひとが一方的にしゃべって聞くひとは聞く一方。ゼミは、みんなで考えていきましょう、という進めかた。で、私はゼミをやっていても講義になっちゃうんです(笑)。独壇場みたいな。

――ひとりでしゃべりまくりですか(笑)。言いたいことがいっぱいあるんですねきっと。

いや、下手なんですそこが。たぶん、聞いたことをその場でちゃんと有機的につなげてパッともってける感覚の鋭いひととか、それができる頭の鋭いひととかいるんですけど、私は感覚も頭もあんまり鋭くなくて。

――瞬発力の問題かな? 咀嚼して反応するまでに時間がかかるわけですね。

そう、時間がかかるんです。その場でちゃんと返せればいいんですけど。あと、早口(笑)。

――反省はもういいです、おひとりでやってください(笑)。

よかったことは、年齢層が広かったことが嬉しかったですね。一番心配だったのは、院生さんとか、私みたいなひとたちが4、5人来て終わりだったらどうしよう、ってことでした(笑)。そうなる可能性はあるなと思っていました。それが嫌なわけではないけれど、もしそうだとしたら、私がやっている授業にこっそり潜り込んでもらって、ほかの学生さんたちと一緒にやってもらうのがいいかもしれないと思ってましたが、そうじゃなかったから嬉しかったです。

クィア・スタディーズの面白みとは?

――クィア・スタディーズはまだはじまったばかりだとおっしゃってましたが、国内でそれについてレクチャーできるかたって、まだそんなにいないんですよね?

はじまったばかりというのもちょっと違っていて、クィア・スタディーズの前身であるようなことはずっとあったわけです。たとえば、フェミニズムのなかでレズビアンのことをやってきたひともいるし、三島由起夫を研究しながらセクシュアリティのことを扱ってきたひともいる。クィア・スタディーズという名前自体は90年代以降のものだから、そういう意味でははじまったばかりなんだけれども、90年代からクィア・スタディーズという名前でやってきているひともいるし、名前がそうじゃなくてもクィア・スタディーズと言えるようなことをやってきているひとたちは少なからずいる。他の領域とくらべてやっているひとの総数が少ないといえば明らかに少ないけれども。

――それぞれみなさん独学なんですか? 清水さんもそうなんですか?

独学というのとはちょっと違うけど、大学のコースとしては当時は皆無ですね。私の場合はとてもラッキーで、フェミニズム系のことに興味があると気づいたのが時期的に遅くて、大学4年のときでした。それから、ほんとうにフェミニズム理論そのものに興味があるんだと気づいたのは修士が終わったときですね。そのへんをがっちり勉強したいと思ったとき、たまたま自分のいた大学に大橋洋一さん(とりわけシェイクスピアと批評理論とをご専門になさっている英文学者。90年代初頭から英語による「クィア・スタディーズ」の日本語への翻訳紹介、あるいはそれらを参照した論文の執筆などを積極的に行っていらした)が先生として入っていらしたんです。あのかたが、学生にはほとんどわけのわからないことをやりながら(笑)、でも学生にはとってもよくしてくださる先生で、私たちが「勉強したい」と言えば、ご自分の時間をどんどん使って教えてくださって、一時は読書会を毎週やったりしてました。

フェミニズム理論を勉強したいグループが、主に大橋先生に指導していただきながら勉強していくなかで、当時は90年代だったので必然的にバトラーやセジウィックが出てきた。私はそのころちょうど、自分の個人的なセクシュアリティの問題と折り合いをつけはじめていたころで、しかも読書会をオーガナイズしたひとりでもあって出席率も高かったので、自分の好きな文献を読む方向にもっていったりして。大橋先生はそういう理論的なことをガンガンやっていらっしゃるかたなので、「じゃあ、今度はゲイ・スタディーズをやりましょう」というふうにノリノリで引っ張っていってくださった。

そういう小さな集まりの勉強会はいろんなところにあります。私の場合は英文学が専門で、そのなかでもフェミニズムの好きなひとたちの集まりにいました。ほかの大学にもそういう集まりはあるはずです。だから、完全な独学というケースは非常に少ない。ただ、体系だった大学のコースとしてあるかといえば、ない。

――清水さんご自身が研究されてきたなかで、「ここがクィア・スタディーズの面白いところ!」というのは、なんですか?

クィア・スタディーズってすごく漠然としていて、そのあたりは学問としてのフェミニズムみたいなものなんですよ。フェミニズム神学をやっているひとがいたり、フェミニズム心理学をやっているひともいれば、フェミニズム社会学をやっているひともいる。それと同じく、クィア・スタディーズにもすごくいろんなひとがいるんです。

私がやっているのは、文学理論系から入った批評理論系のクィア理論といわれている分野で、それはそれで面白いんですけど(笑)。

――その面白さを、ぜひ手短に。

これは一般論じゃなくて、私個人にとってですけど、自分の感覚で知っているけれども頭でわからなかったことが頭でわかる、と同時に、自分の感覚では知らなかったことが頭でわかることによって感覚でもわかるようになる、というところ。

――頭でわかることの利点はなんですか? 清水さんにとって。感覚との連絡がうまくいくってこと?

頭でわかることの利点のひとつは、それによって感じかたが変わることですね。頭でわかるからといって誰でも必ず感じかたが変わるわけではないから、個人差があると思うけど。頭でわかることによって、違う感じかたがわかるようになる場合もある。それが私にはとても面白い。

「感覚(実感)と理論ってズレてるじゃん」とよく言われるんだけれど、私は個人的にはそんなことはないです。自分とズレててまったくリンクしない理論は最初からあんまり興味がないからやってない(笑)。実感や感覚と理論がコネクトしていれば、実感が理論を補って違う方向にもっていく場合もあるし、理論が実感をサポートして違う方向にもっていく場合もある。それはどっち向きになるかわからないけれど、つながっているのが面白い。

――なるほど、それは面白い!

<後半につづく>