井田真木子の死因は本当に肺水腫だったのか? トラウマのトリガーの一事例について

 井田真木子はそもそもそれほど有名なノンフィクション作家ではなかったが、知る人ぞ知る著名な作家だった。50代以降のノンヘテロ業界では、主に『同性愛者たち(1994)』を知る人たちが多かった。
 一方、オデは『プロレス少女伝説(1990)』を読んでいた。いまでは慣用句になった神取忍の「(対戦したジャッキー佐藤の)心が折れる(感じがして実際に勝った)」という表現が初出なのは有名な話だ。続いて『小連(シャオレン)の恋人(1992)』、『十四歳(1998)』も読んだ。当時のオデはノンフィクション作家ナンバーワンといえば井田真木子だろう、彼女の業績はノンフィクションの革命になるかもしれない、と予感し、夢中になっていた。
 ところが、2001年3月、井田の訃報が訪れる。当時オデが毎月購読していた『噂の真相』によると、正確なフレーズは忘れたが、冷蔵庫のなかは空っぽで、部屋は荒れ放題、井田は布団で寝ながら亡くなっていた、井田のHPには意味不明な文章が羅列しており、「緩慢なる自殺」だった。普及し始めたPCで井田のサイトを実際に覗いてみたことがあった。いくらサイト訪問者が少ないとはいえ、井田の名前で出ているのは本人も承知のはず。ただそれが「独り言」のようでもあった。文章は支離滅裂で長ったらしいし、読者のことをまったく考えてない、他人のことは置いてきぼりで、まさに「イっちゃってる」人物の文面そのものだった。そのときオデは、「あーあ、とうとう狂っちゃったか、あるいは意識が朦朧としたまま執筆したんだろうか…」と心のなかで呟いた。
 久々に思い出して、井田真木子ウィキペディアを検索。そこには自殺のじの字もなく、死因は肺水腫だった。肺水腫を調べたら、主に心臓病が原因でこの症状になるケースが多いが、井田はそのような病気を持っていなかった。享年44。若すぎる死だった。衰弱の延長が肺水腫なのだろうか。
 井田の絶筆『かくしてバンドは鳴りやまず(2002)』を再読。確かに井田は、執筆中寝食を忘れて仕事に没頭していたことは事実だ。しかし 生業をノンフィクション作家と決めたからには、新書を完成させるたびに生死の境を往還することは極めて危険だと思う。文字通り「命を削って書く」仕事だ。
 その前の『十四歳』は、親の虐待などによって家出し、売春で食べていく逞しい少女たちを、アメリカのサンフランシスコや渋谷で取材したものだった。なかには実の親に性的虐待を受けた子どもたちもいる。そんななかで井田は自身の過去を思い出したのか、「自分にも覚えがある」というようなことを書いていたが、そう明確には文章にしておらず、読者にほのめかすように表現したのが印象に残っている。彼女の死を知ったとき、「やはりそうか」と静かに納得したものだった。
 そうか、取材対象の家出少女たちの会話のやり取りで、トラウマのトリガーを自ら引いてしまったのか。井田の「緩慢なる自殺」はほぼ知られていない。自身でも自殺をしたなどとは思っていないはずだ。
 『かくしてバンドは鳴りやまず』は、ランディ・シルツ『AND THE BAND PLAYED ON:Politics,and the AIDS Epidemic(1987)』が原題だ。邦題は『そしてエイズは蔓延した』。原題は、映画『タイタニック(1997)』で船と運命をともにした楽隊が沈没とともに奏でる曲である。
『運命(さだめ)はわれらとともに:エイズ政治学』くらいに訳しても罰は当たるまい。
と彼女は苦言を呈している。連載企画書は10回の予定だったが、残念ながら3回までで彼女の死が打ち切りとなっている。その第1回が「トルーマン・カポーティとランディ・シルツ」だ。
 すでに亡くなっている人たちを取材対象にするのはノンフィクションではない、と反論する人たちもいるだろう。しかし本書の出版社リトルモアは、冒頭で「本書の成立まで」と記載した文章で、
原稿料も大して差し上げられないうえに、取材費が出ません。お金のかからない連載をやっていただけませんか。
と井田にお願いして、苦肉の策で連載企画書を提出したものだと、一度はオデも納得した。でも、すでに亡くなっている人たちの謎を追うため取材対象にするというのは、自分の独り相撲と同じではないのか。自分で自分を消耗するだけじゃないのか、という疑問がまだ残っている。それが嫌なら、<正当な>ノンフィクション作家なら依頼を断ればいいじゃないか。なぜ彼女は受けたのか? ただでさえ金にならないというのに? 彼女は義理堅かったのか? それとも無理難題でも出版社の依頼は必ず応えなければならなかったのか? それが彼女のポリシーだったのか? それが革命的であればあるほど、革命で自ら身を亡ぼす。彼女は死に至る自傷行為をしていたのだろうか? 疑問が晴れる気配はない。
『同性愛者たち』を読んだことはないが、アメリカでエイズ・パニックとクイア運動が始まる一方で、おそらく彼女は日本の同性愛者たちがどんなことを感じているのか、当事者たちに取材したのではないだろうか(実際には「府中青年の家」の訴訟について)。彼女自身、表向きは既婚者だが、実は自分も密かに性的少数者だと思っていたのではないだろうか。これは穿った見方だけれども。
 実際、大宅壮一ノンフィクション賞講談社ノンフィクション賞を受賞した後、『十四歳』では何の賞も獲れず、スランプに陥った。ここでもオデは、自分の都合に合わせて事実をピックアップしたり、逆に都合の悪い事実をスルーしたりもしているのだろう。もしかしたら彼女の死はただの偶然の連続かもしれないし、単純に考えて新進気鋭のノンフィクション作家の夭折かもしれない。自分の人生を解釈する視点を運命論か偶然論かを選択すれば、彼女の死の解釈はまったく異なるだろう。
 このエントリでオデが言いたかったことは二つある。一つは、トラウマの危険さ、厄介さだ。トラウマは幼少期に起きた心的外傷なので、当人も傷の記憶や自覚はないし、自覚してもトラウマのコントロールは非常に難しい。当人は傷ついたことに無意識で蓋をしたがり、その蓋が突然外れるトリガーにいつ何時遭遇するかもわからない。自覚していたトラウマとは全く別のものが浮かび上がり、知らぬ間にアディクションとなっているかもしれない。井田真木子の事例のように、トリガーが外れたときには、取り返しのつかない事態になっている。「自分のトラウマはもう充分に完治した、克服した」とは決して言えないのである。
 もう一つは、今日(3月14日)が彼女の命日であること。今年で十八回忌である。本当に惜しい人をなくしてしまった。彼女の新刊をいまだに待望にしているのは、オデだけではないはずだ。
 それともう一つ追加。ネットの情報はあまり鵜呑みにしないほうがいい。このオデだって本人に関する文章をリアルタイムで読んでみて、もしかしたらそうであってほしいストーリーあるいはファンタジーを生み出しているかもしれないから。
 ウィキペディアには、井田に関する新たな情報が記載されていた。ノンフィクション作家の彼女は、最初は詩人でデビューしていた。最後に、彼女の詩集を読もうと思う。また新たな発見があるかもしれない。
 

www.youtube.com

2019年3月16日追記:

井田真木子選集1』の関川夏央氏によると、

・高校から実家を離れて一人暮らししていること

・結婚したがすぐ離婚したこと

・いつも長電話していたこと

・ネット仲間とチャットしていたこと

・ネット仲間が自宅に駆けつけて亡くなっている井田を見つけていたこと

・以前から救急搬送されて入院していたこと

 が判明した。

 

2019年3月22日追記:

 改めて『十四歳』再読。オデ自身記憶が朧げなことと、そのことだけをクローズアップするような下世話なエントリにはしたくないこととで曖昧な表現だったが、本人が直球を投げていた。以下引用。

 あんたはいつからその“廃墟”を感じ始めたんだね。ロジャーがいつになく柔らかい口調で尋ねる。

「十三歳から十四歳の間です。八歳のときに強姦されましてね。そのときには自分が何をされたのかわからなかった。十歳を超えるあたりから少しずつ事態がわかりはじめて、十三歳から十四歳の間に、衝動的飲酒というんでしょうか、定期的に、大量のアルコールを飲んではふらふら街に出ていって、廃ビルの地下に酩酊状態で転がっているという行動をおこしはじめました。十五歳からは、その行動が顕著でした。

 その行動を抑制できるようになったのは、二十三歳から二十四歳の間です。しかし、その間も学校にはちゃんと行っていました。成績は悪くなかったし、誰にも、そんな行動をとっていることを悟られなかった。

 でも、これは珍しいことじゃないですね。驚くほど多くの人が、十歳以下で同じ経験をして、十三、十四歳くらいで、売春や薬に走っている。その行動は約十年続き、幸運な人間は、その行動を抑制できる年齢まで生き延びる。ただし、自分だけが汚れた十年間を抱え込んでいると思っている人は多いですね。私が経験したのは悲劇でも特異な体験でもないですが、自分の中に廃墟を感じ始めたのは、たしか十三、四歳の間です。

 そして、今は四十歳ですが、まだ生き延びたいと思っています。

  「私たちの大半は廃墟の中にいる」と自覚するのは十三歳と十四歳の間だ、と井田は主張する。今は「厨二病」という自虐用語も出てきたが、「廃墟の中にいる」のが的を射ているのではなかろうか。

 何の因果か、ノンフィクション作家を生業にした彼女は、執筆中は寝ない、食べない、酒だけ飲む、という“アディクション”が始まった。酒井順子氏によると、肝臓や腎臓もやられて、リハビリのために『かくして~』の連載スタートとなるが、それも未完に終わった。

「尊厳死法案」合法化は人身(臓器)売買の暗躍化を増長するのか?

 「尊厳死」でネット検索してトップに出てくるのは朝日新聞連載「シリーズ:柊の選択 穏やかな死を探して」である。尊厳死の話題はだいたい網羅されているが、もう少し深く掘り下げたい方は立岩真也の著書を読みなさい。わかってきたことがどんどんわからなくなるから覚悟してね。

 立岩真也さんの本も難解で冗長だが、テーマがテーマである。おいそれと国会で法制化なんてできっこない。国会議員は「国民はバカだ」と思っていると邪推するが、そういう国会議員もバカ丸出しだから。国民舐めんなよ。

 冒頭にオデの見解を言っておくが、尊厳死の法制化には反対である。現状が最善だとは決して思わないが、法制化=合法化になることは間違いない。「安楽死尊厳死」は日本の現状では「自殺幇助」であって、刑法203条「自殺関与・同意殺人罪」は殺人罪減刑類型であり、法定刑はすべて「6ヶ月以上7年以下の懲役又は禁固」と殺人罪よりも軽い。これらの罪の未遂も罰せられる。

 つまり、尊厳死安楽死の“合法化”は、終末期患者や高齢者の医療措置をせず(消極的安楽死)、死を希望する者には安楽死を担当医師と同意契約して注射で死を全うさせる(積極的安楽死)ものである。医師の特権(法の抜け道)と言っても過言ではない。こうなると腹黒くて頭の悪い医師は特権を振りかざすんだよ。そんな連中に「自分の死」を任せられるか。

 法律はデコボコの道をブルドーザーで平坦に均すようなものだ。患者と医師との個別的信頼関係が事務的で冷たい「死の契約」となるに決まってんだよ。医師を信用するな。法律を信用するな。信用していいのは自分の判断だけだ。

 一部の欧米諸国にはすでに安楽死の合法化が行われているが、すべての国民が同意せず、反対意見もあるだろうと思う。スイスで安楽死したオーストラリアの環境学・植物学者デイビッド・クドールは「ふさわしい時に死を選ぶ自由」と定義している。

 さて、生死をめぐる考えかたは日本と欧米ではニュアンスが違う。「生きる権利・死ぬ権利」を主張する欧米と「生きる義務・死ぬ義務」を静かに受け取る日本の捉えかたも違えば、いざ合法化されたら「死の決定権」は医師に譲らねばならない(「先生にすべてお任せします」)日本人は増えるだろうと想像せざるを得ない。まったく安易だからな~日本人は。

 今年だったか、脚本家の橋田寿賀子さんが雑誌で「安楽死で死にたい」と主張した。オデはその雑誌はまだ見てないが、ネット検索すると「認知症になったり、身体が動かなくなったりしたら、安楽死したい」「私には、家族も心を残した人もいませんから、寝たきりになったり、重度の認知症になったりして、人に迷惑をかけてまで生きていきたくない。ただ単純にそれだけです」。

 出た!「迷惑をかけてまで生きていきたくない」。ここで日本人が共感するフレーズを盛り込んできたが、オデにとっては「薄っぺらくて浅~い主張だなあ」と思って冷笑するしかなかった。「お迎えが来ない~」と、ただ受動的に待ってるだけなのでは?

 橋田さんは長期高齢者だが、まだ健康的だ。軽い病気や体調不良になることもあるだろうが、末期がんや難病にはかかっていない。そうなる前に「安楽死」を、そうなってからでは遅い、とのこと。

 なんで? そうなってから生活してみなさいよ。気分も考えかたも変わるから。

 末期がん患者の生活や心情はオデにもわからないが、歌人中城ふみ子さんは『乳房喪失』の題で50首全部が掲載された。当時の歌壇に大きな反響を呼び、寺山修司は中城の短歌に衝撃を受けて自らも短歌を詠み始め、中城受賞の次回度に短歌研究50首詠を受賞した。 

 中城の作品は「アンチ写生」であり、そこでは徹底して短歌をつくる作者の「私性」が追求されていた。中城が目指した短歌における「私性」とは、虚構を排除しないものなのだ。中城はそうした虚実のあわいに出現する「私性」を、作品を書くことによって実践的に確立していった。自らが体験しつつある乳癌による死というドラマを通底音として、虚実取り混ぜた短歌作品としてある自己を「ロマネスク」に語ること。「新しい抒情の開拓」というのは中城自身の言葉である。そして現実もまた中城によって提示されたフィクションとしての短歌作品を、読者に改めて追体験させるかのように進んでいった。デビューからその死まで、半年に満たない強烈な印象を読む者すべてに与える、短くも鮮やかな生涯の軌跡だった。

 また、ALSを代表する全身性難病患者には「ALSを楽しく生きる」ことを目指しているかたも多くいる。そのうち「ALS文学」「難病文学」などの新しい分野を開拓するんじゃないだろうか。かくいうオデは「片麻痺文学」「重度身体障害者文学」なるものを開拓研究中である。

 かつて健常者の自分がそうなるなんて予想もしなかった心境は、病とともに発展・進化する。オデにはまだ希望がある。だから死ねない。生きるしかない。傍から見れば「生産性のない奴」と笑われているだろうが、現在は潜伏中である。いまに見てろよちきしょうめ。片麻痺のオデは半分死んでいるようなもので、脳梗塞という厄介な病気に日々驚かされている。てんかん発作の前兆はくしゃみが出るのと同じくらい自分でコントロールできないし、予兆も突然で、その発作を重ねて対策を講じなければならない。付け加えて老化の問題もあり、白内障で本の細かい文字が読めないし、部屋の明かりも眩しくてつけられないのだ。

 プロの脚本家・橋田さんはまだ認知症にはなっていないらしいが、突然なるわけじゃないと思うので、自己観察日記を書き連ねておいてドラマ化すればいいんじゃない? 『恍惚の人』は介護する妻の視点で展開するドラマだが、認知症本人の行動や思考の変化は橋田さんじゃなきゃ作れないからチャレンジしてみては? 安楽死のイメージが変わると思うし、オデもぜひ見てみたい。

 

 そんでタイトルの「人身(臓器)売買」は「アシュリー事件」にも関係するが、重度心身障害児(者)は「死の自己決定権」なんてないでしょ? それで安楽死の同意は両親が代理して契約するのよ。子どもは両親の所有物だから。死んだら後は自動的に臓器が運ばれて移植する。親は涙を浮かべて「せめて子どもの臓器が生きていけるように」との美談な茶番。医師も臓器を待っている人もめでたしめでたし…って、それじゃいかんでしょ! でもオデが「いかん」と思ってることに限って未開のビジネスチャンスはあるからな。「この世は金ばかり」の常識を打破しないとね。

 「人は運命に抗いながら生きる」って? 精神的・形而上学的には賛成だけど、医療技術で金と労力を費やして本人は平穏に漫然に生活を再開するのは絶対反対。新しい文学・芸術作品は楽しく平和なときには生まれることはないが、激しい慢性的な苦痛や死の瀬戸際にならないと誕生しないと思う。これはオデの持論だ。

 

 

 

 

『キルラキル』と「幼体成熟」

初見で少し気になって、時間をおいて『キルラキル(2013~2014)』をもう一度見直した。

キルラキル」は「人と服」がテーマとなり、「着る/着られる(あるいは斬る/斬られる)」という言葉遊びの凝縮したタイトルとなっている。日本のTVアニメは「戦闘美少女」のハードルがある(「女子高生、セーラー服」がないと視聴率を稼げない)が、それを上回る内容になっていると思う。

面白い部分はアニメに置いといて、面白くないほうをオデがこれから書いていこう。

 

そもそもなぜ日本では「衣」ではなく「服」と呼ぶのだろうか。辞書を調べると「1:身につけるもの。きもの。特に、洋服。『服を着る』。2:身につける。おびる。『服佩(ふくはい)』」となっている。「服」という字は容易に「服従、屈服、克服、征服(制服)」と聯想できる。

REVOCSコーポレーションCEO鬼龍院羅暁の目論見は「地球を生命繊維(特殊な布)で覆う(世界征服する)」ことで、それに抵抗する纏流子と鬼龍院皐月は姉妹である。ここには目に見える戦闘や格闘だけでなく心理的葛藤があるが、それは後述する。

服を身に着けるのはヒトだけである。メキシコサンショウウオ(流通名ウーパールーパー)のように、大人になっても毛皮も爪も牙も生えない。幼体成熟(ネオテニー)とは、幼生の形態を残したまま性成熟することを指す。

 

 

大学時代、放送作家になろうとしていたサークルの先輩が「自分の書くもの(創作物)は皮膚に近いか? 服に近いか?」と自問した。服なら流行に合わせて取り換えがきくが、皮膚は張りついてどうにもならない。オデは答えられなかったし、今でも答えられないでいる。『キルラキル』のテーマが、どこかに引っかかっている。おそらく製作スタッフ陣も切実に自問自答しながらアニメを完成させたのだと思う。

受け手としては、限りなく皮膚に近い創作物が結構好きだ。噛めば噛むほど旨味が出てくるからだ。作り手としてはどうなのだろうか。それは自分で決められることではないような気がする。

これからも『キルラキル』を見ようと思う。何度見ても発見がある。作り手は苦し紛れかもしれないが、オデには大きなヒントがある。

 

小説家を生かすも殺すも編集者次第ーー桜木紫乃『砂上(2017)』

「主体性のなさって、文章に出ますよね」
「大嘘を吐くには真実と細かな描写が必要なんです。書き手が傷つきもしない物語が読まれたためしはありません」
「わたしは小説が読みたいんです。不思議な人じゃなく、人の不思議を書いてくださいませんか」
「文章で景色を動かしてみてください。景色と一緒に人の心も動きます

「現実としては誰も、柊さんの私生活には興味がありません。あなたは芸能人でも政治家でも、有名人でもない。だからこそ求められるのが、上質な嘘なんです」

「虚構なら虚構らしく、本気で吐いた嘘は、案外化けるんです」

「人に評価されたいうちは、人を超えない」


以上、小川乙三編集者語録。

これまでエッセイばかり書いて懸賞に送ってきた柊玲央に、わざわざ玲央在住の江別にやってきて「小説を書いてください」と提案する。

「全員嘘つきの物語を書く」。谷川俊太郎の、
 
うその中にうそを探すな
ほんとの中にうそを探せ
ほんとの中にほんとを探すな
うその中にほんとを探せ
 
という有名なフレーズをつい聯想してしまう。
「ひとりよがりの一人称」はやめて三人称一視点で書くこと、
心を痛めながら書いて下さい」という条件つきで。
 令央は、自分より五歳下の編集者に反発しながらも指摘を受け入れ、何度も書き直してゆく。編集者との闘いであり、自分の心の奥底にどこまで迫れるかの闘いである。小説を書くことの苦しさが痛いほど読者に伝わってくる。
 (将来の)作家が奇跡的な小説を生み出す産婆術としてかなり優秀すぎる乙三は、もしかしたらレズビアンBDSMっぽくもあるかもしれない、と読了して密かに興奮したオデは確かに変態だろう。自分の変態っぷりを最初に自覚したのは、松浦理英子『裏バージョン(2000)』を読んだときだった。言葉でお互いを傷つけあう科白のやり取りはスリリングそのもので、当事者二人は精神的に疲弊しているにもかかわらず、読者(観客?)のオデは「いいぞ、もっとやれ!」とけしかけたりした。
 しかし『砂上』は、脳裏がヒリヒリするくらいの台詞の格好良さに痺れたが、それ以上に相手が先読みをして、嘘という名の都合のいい科白を言う。お互いに相手の心は読めない。その予測以上に言動を発するところがまた痺れた。囲碁将棋は興味はないが、相手の先の先まで読み、こう来たらこう切り返すという引き出しの豊富さ、丁々発止は小気味よく、評価したい。…がしかし、勝負物は予定調和になるからなあ…と無責任でわがままなぼやきを言ってしまう。
 それにしても『ホテルローヤル(2013)』のエンディングの大どんでん返しは感心したものだった。作者は登場人物の女性たちの生きざまを格好良く描くのが大変上手である。
 著者は本作について 「書けても恥、書けなくても恥でした」 と書いている。小説内での玲央は、 次作は「男の書き手を騙す女性編集者の話なんて、どうでしょうか」と切りかえした。次の作品も読みたい、いや、必ず読んでやるぞ。
 

「アシュリー事件」と児童買春の共通点について

つい先日、旧優生保護法:強制不妊手術9歳にも 宮城、未成年半数超という記事があったが、フェミニストではない人は気がつかなかったかもしれない。これは法律の名前も内容も変わったからもう過去のことだ、と思ってはいけない。

 

旧優生保護法

強制不妊手術9歳にも 宮城、未成年半数超

旧優生保護法

強制不妊手術9歳にも 宮城、未成年半数超

以前から気になっていた「アシュリー事件」だが、児玉真美さんの運営するブログはところどころしか閲覧できておらず、ことの顛末を知らなかったので、なんとなく事件について言及するのは控えていた。がしかし、今日は『アシュリー事件 メディカル・コントロールと新・優生保護思想の時代を読んでみた。その感想である。

 

2004年、重度重複障害児のアシュリー・X(当時6歳)の身体に“アシュリー療法”という外科手術を施術した。この療法はアシュリーの両親が要望している。


“アシュリー療法”とは、子宮摘出、乳房芽摘出、成長抑制を目的としたエストロゲン(女性ホルモン)のパッチを2年くらい皮膚に貼り続けるという療法で、2つの目的が達成されるというのだ。


1つは、在宅介護のためである。アシュリーの介護は両親と雇われた介護者がアシュリーの身体を抱えたり移動したりするのはかなりの負担になるので、できるだけアシュリーの身長と体重が成長しないようにコンパクトにさせてあげたいという両親の要望(メリット)である。


もう1つは、アシュリー自身のためだ。アシュリーは「寝たきり」であり、自分で寝返りができない。成長を抑制させれば、自重負担の軽減ができる。これは、私自身が片麻痺なので、身体が動かない不快さはよく知っている。


重度障害児(者)の不妊手術は、優生思想の歴史を踏まえて、米国では禁止されている。障害児に不妊手術をする前に司法省に報告して手術の許可をとらねばならない。


この「事件」については、2006年の秋、シアトルこども病院の担当医ダニエル・ガンサーとダグラス・ディグマが米国小児科学会誌の論文で報告され、一部の専門家と障害者支援や権利擁護の関係者の間から批判の声があがった。ところが、その批判に応答する形で2007年元旦の深夜に両親がブログを立ち上げたことから、ロサンジェルス・タイムズを筆頭にメディアが次々と取り上げ、世界中で激しい論争が巻き起こった。まさに賛否両論だった。


要するに、「事件」は事後報告だった。アシュリーの身体はもう元に戻らないのだ。


同年5月、ワシントン州の障害者の人権擁護団体Washington Protection and Advocacy System(旧称WPAS)が、1月6日から開始した調査を報告書にまとめ、アシュリーに行われた子宮摘出は違法であると結論付け、8日にシアトルこども病院はWPASと合同で記者会見を開き、公式に子宮摘出の違法性を認めた。


その後、事態は沈静化したが、9月末にはアシュリーのケースを担当し2006年の論文の主著者であった内分泌医のガンサーが自宅で自殺するという衝撃的な事件があった。


アシュリーの父親は身元は明かしていないが、とあるIT関連の大企業の役員であり、名前を明かしたら大変な騒ぎになると本人が懸念している。 “アシュリー療法” の理由と目的を、主治医論文は「在宅介護のため」と主張し、父親は「本人のQOLのため」と主張し、互いに食い違っている。ついでに父親は「(アシュリーの子宮は)基本は『用がない』それに『グロテスク』」とまで言っている。


そもそも、アシュリーの父親と2人の主治医たちの関係は、なにか様子がおかしい。父親が自分の“斬新な”アイディアを話しても主治医がまともに受け入れており、主治医論文は偽装と隠ぺいで溢れている。もしこれが一般の父親なら、そのアイディアを話しただけで診察室から追い出されるのでは、もしくは門前払いではないだろうか。


それに通常の倫理委とは別に「特別な」倫理委をセッティングしてもらい、直接パワーポイントを使って自説を解説し、医師らを説得する場を設けてもらっている。異例の待遇と呼べる。この父親、本当に大物らしい。

ここから、著者の児玉さんは「無益な治療」に通底する「死の自己決定権」や「尊厳死」「臓器移植」の方へ向かうが、私は「下種の勘繰り」をする。アシュリーの両親の品格を汚すことになるかもしれないし、このブログが英訳されたら名誉棄損で訴えられるかもしれない。でも私は、かつての児玉さんが「この危険な流れを食い止めなければ」と真剣に切実に思ってアシュリー・ブログを更新してきたように、私は私で切実なのだ。児玉さんの感じた「キナ臭さ」と私の感じた「キナ臭さ」とは比べ物にならないくらい私のほうがはるかに猟奇的で狂気を感じる。

子宮摘出は、アシュリーが性的虐待のため妊娠しないようにするというが、子宮摘出だけなら子宮口までは外見上変わりはなく、難なくインサート、つまり「レイプ」できてしまうし、妊娠が発覚しないのであれば、性的虐待は水面下に潜ってしまう。アシュリーにとってはかえって危険かもしれず、「介護」する両親はある意味好都合だ。妊娠予防のためなら卵管結紮という、より侵襲度の低い手術法も可能だが、卵管結紮しても月経は続く。

この事件についても児玉さんも、「月経痛」というものにまったく言及していないのが気になった。

私が中学生のとき、月経痛が重いクラスメイトがいて、月経になると目眩がして倒れそうになるを見たことがある。私は月経痛はそんなにひどくはなかったが(腰痛と下痢くらい)、月経痛は本当に人それぞれである。

いまはPMS(Premenstrual Syndrome:月経前症候群)と呼ばれており、ひどいケースになると万引きをしたり、海外では放火したりする症状があらわれるという。

健常者の月経の症状がこれなので、知的障害児や重度重複障害児の月経はどれくらいになるのだろうか。

かつて私を担当していたヘルパーさんは、障害児の母親だった。子どもが娘さんだと聞き、「お嬢さん、月経痛はあるの?」と尋ねると、「もう喚くわ暴れるわで大変です」と笑って答える。毎月の経血処理だけでなく、身体が不自由でしかも暴れるから、清拭やオムツの交換はさぞかし手こずっただろうなあ、と想像した。

 

話は変わって、アシュリーのことである。まず、アシュリーの顔写真は、率直に言って可愛らしすぎると私は思った。人によっては「色気がある」「抜ける顔だ」などと思うのだろうか、顔の造作も整っているが、全体的に「愛嬌がある顔」と言ってもいいくらいだろう。セクシーでチャーミングである。


アシュリーの両親は「ピロウ・エンジェル(枕の天使ちゃん)」とあだ名をつけていたが、腹黒い私はそこで、「…ん?」となった。

 アシュリーはいつも寝たきりなので、枕とお友だちである。「ピロウ・エンジェル」という言葉はかなりの赤ちゃん扱いらしいのだが、そのニュアンスは私にはまったくわからない。むしろ「ピロウ・トーク」と同じくらいにエロスな感じがするぞ。


それに加えて、「プチ・エンジェル事件」という謎事件を連想してしまう(興味のあるかたはご自分で検索してください)。

「プチ・エンジェル」は児童買春の店であり、経営者は謎の自殺を遂げた(自殺に見せかけた他殺?)。経営者の家族たちも続々と不審死している。事件の謎を追っていたフリーライターも殺されてしまい、もう誰も事件の詳細を探ることは恐ろしくてできないのだ。その顧客名簿には、ロリコンでお金持ち、要するに政治家や弁護士、医者などの有力者の名前がずらっとあったとされる。まさに「変態紳士たち」である。

児童買春といえば、腹黒い私は児童ポルノをついつい連想してしまう。児童ポルノの加害者は親、というのをどこかで聞いた。貧困な親が金づるのために我が娘を金で売ってしまうのだろう。

アシュリーの父親は社会的に成功しているらしい。親が貧乏でも金持ちでも、趣味と道楽のために我が娘を不特定多数の者に凌辱されるのが、さらにまたマニアックで変態的で気持ちが悪い。

子どもが障害者でなくても、子は親の所有物であることは全世界共通らしい。アシュリーの父親は、「アシュリー療法」を一般化させようとしていた。

 

「成長抑制のために“アシュリー療法”を」というところまで本を読んで、ダーティマインドな私は邪推し、「あっ」と確信したのだった。

都市伝説でよくある、インド奥地の「だるま」 をご存じだろうか。観光客の女性を拉致し、手足を切り落とし逃げないようにして、男たちに公開セックスをするのだそうだ。私が聞いた「だるま」の話は、ふだんは不動産会社の営業マンであり、観光客がなかなか足を踏み入れないマニアックな国や地域を探して観光するのが趣味で、その営業マンはインド奥地の見世物小屋の「だるま」が日本人女性だとわかった。虚ろな目をしてセックスする彼女は、自分を日本人観光客だと悟り、彼の目をカッと見て「大使館(を呼んで私を助けて)!!!!」と大声で叫んだのだった…。

 

私の邪推だけだったらまだしも、現実のアシュリーが性の玩具として今もシアトルの片隅に生きていたとしたら…確かに、重度障害者を死に至らしめることも惨いが、性の玩具として生き続けているとしたら、しかも両親が娘を性的に支配しているとしたら、まさに生き地獄、実在の「だるま」である。…でもまあ、実在はしないけども。

 

こんなバカバカしい妄想&邪推をして、児玉さん本当に本当にごめんなさい。申し訳ありません。謝罪します。お詫びとして、児玉さんの文章から引用します。私がこの文章を読んでグッときたので。

 

 本人利益と親の利益の混同や、より侵襲度の低い選択肢の検討の不在など、これまで多くの人が指摘してきた倫理問題も指摘しているが、(エイミー・)タンらの論文の眼目は、「仮に、自己決定能力と人格(パーソン)とをエージェンシーと呼び、その両者を持ち合わせている存在をエージェンシーであるとしたら、“アシュリー療法”は果たして正当化されるのか」との問いを立て、哲学的な検証を試みたことだろう。“アシュリー療法”正当化の基盤にある、知的機能の低いアシュリーにはその他の人と同じ扱いをする必要はない、との論理を問うたのだ。
 カントを読んだこともなければ基本的な知識すらない丸腰の素人が、読んだままの理解で内容をまとめてみるという、大胆な行ないを許してもらえるならば、タンらの主張するところは主として二点。まず、アシュリーがエージェントでなく、したがって個人として扱われないとしても、一方で家族という単位もエージェントの集合に過ぎずエージェントでないアシュリーにも同じ姿勢で臨んで然りということになる、というもの。しかし、医師らの正当化は家族全体の利益が本人の利益と分かちがたいと言っているだけなので、この批判はポイントがずれているかもしれない。
 しかし次の論点は、アシュリーではなく、医師のモラル・エージェントとしての義務という観点からの考察であり、私には非常に興味深かった。タンらはカントの「道徳上の義務」を参照しながら、おおむね以下のように論じている。
 我々がモラル・エージェントとして善行を求められる「道徳上の義務」とは、その善行の対象がエージェントであろうとノン・エージェントであろうと、それに関わりなく果たすべき義務である。それは、その義務が、われわれが他者に対してではなく自分自身に対して負っている義務であり、われわれが自分自身に負っている義務とは、ヒューマニティすなわち道徳的なエージェントとして行動できる能力を保つことだからである。その義務を負うがゆえに、われわれは例え自分とノン・エージェントしかいない状況下に置かれたとしても、道徳的にふるまい、自分のヒューマニティを損なわないよう行動しなければならない。したがって患者がノン・エージェントであろうと、エージェントである患者にしてはならないことはノン・エージェントの患者にもしないという義務を、医師はその患者に対してではなく自分自身に対して負っているのである。

(児玉真美『アシュリー事件 メディカル・コントロールと新・優生思想の時代』生活書院、2011年)

 
最後に。児玉真美さんは、アシュリーの父親のブログやCNNのニュースなどをオンタイムで視聴し、その父親の言葉が「どうせ」という文脈のニュアンスに聞こえるらしい。「どうせ障害者だし」「どうせ意識はないんだから」こんな程度でいいだろう、とアシュリーを下に見ているという感じだ。
「どうせ」は重度重複障害者にとってセーフガードにならず、人々に共有されると、逆に生命倫理の「すべり坂」にたちまちなってしまう。「道徳上の義務」がある社会的地位の高い男性たちは、その義務を忘れて自分自身の欲望と保身、権力を行使してしまうのだ。

ツイッターハッシュタグ「#metoo」で、女優さんたちが性的虐待やセクハラ・パワハラを暴き、性的被害者である自分を告白しているが、自分より弱い者、抵抗できない者に、性的な欲望を押しつけて沈黙しておくように仕向けているのも、まったく同じ構造である。

 

最後の最後は、重度重複障害児の施設「びわこ学園」に長年勤めていた医師が書いた文章を引用する。

 

1981年、国際障害者年にあたって、「全国重症心身障碍児(者)を守る会」は、「親の憲章」を作成し、守る会の三原則を決めた。
それは、「決して争ってはいけない、争いの中に弱いものの生きる場はない」「親個人がいかなる主義主張があっても重症児運動に参加する者は党派を超えること」「最も弱いものを一人ももれなく守る」であり、今日まで大切にして運動し事業を行っている。
(高谷清『重い障害を生きるということ』2011年、岩波新書

 

【2018/02/02 19:31追記】

以前私が付き合っていた25歳年上の彼女のお母さんがいるのだが、旦那に死に別れて妹の家に同居していた。彼女は長女で、妹と14歳離れており、妹が結婚するときにお母さんも一緒について行ったという。

お母さんは当時70歳を過ぎており、大腿骨骨折をきっかけに入院し、そのうち徐々に衰弱していった。聞けば、「栄養チューブを自分で断った」という。素朴な尊厳死、平穏死である。お母さんが死んだとき、妹は思わずお母さんに抱きつき、「まだ温かかった」。死んだお母さんの顔はまるで眠っているように見えた。

お母さんの死は、「女三界に家なし」のことわざ通りだと思った。伴侶がいなくなり、孤独になってもまだ死なない。女性の長生きは幸福か不幸か、微妙である。

 

「ファルスの世界」と「少女の世界」 ~クイア文学私論~

新年あけましておめでとうございます。

長年ネットの片隅でブログをシコシコ書いてるが、新年の挨拶は初めてだ。今日は「ご近所神社参拝ラリー」と称して自宅を三角形で結ぶ三つの神社に車椅子で移動した。移動は簡単だが、神社の賽銭箱には手すりなしの階段があり、こわごわ登ってこわごわ降りた。今年初のスリラーである。転倒して頭を打ったら大変だからな。

 

1:さて、本題に入る。

ニコ生で『少女終末旅行』の一挙放送を鑑賞した。冬の軍服のようなものを着た少女が二人、荷物が入るバイクに乗って、人がほとんどいない街というか廃墟をゆく物語である。一人は、背が高くて頭のネジが外れたユーリ、もう一人は賢くてしっかり者のチト。この旅行がいつ始まったのか、どこに目標があるのか、行先はあるかないかわからない。ただストーリーでは、二人が共通のおじいさんと住んでおり、おじいさんが死んでからこの旅が始まったと推測できる。この物語の設定は、戦争が起こった後だ。したがって、どこにも生きてる人がいない(後述するが、「戦争のない世界」とは「ファルス(ペニス)がない世界」である)。

チトとユーリは、食糧と燃料を求めて移動する。見つかるのは軍事用食糧ばかり。今ある燃料や食糧がなくなったら死活問題だが、二人は楽天的に旅行する。その会話でユーリが「絶望ともっと仲良くなれるよ」との科白がある。印象的な科白の一つだ。

二人の会話はボケとツッコミのように観客をクスリとさせ、全体的に明るい。絵のタッチもまんまるなまんじゅう顔をしたコミカルなものだ。延々と外を移動するから雨や雪が降り、吹きさらしの風の下で眠る。彼女たちの寝床はいつも空の下だ。これほど悲惨な設定はないと思うが、それで絶望で悩んだり自殺したりする気配はない。少女たちは先へ進む。ある意味平和で平穏である。

二人の少女の物語であり、ストーリーのなかには温水プールや川に入って水浴びをするという、「ありきたりな百合」要素が入ったものだが、それでもオデは二人の関係性にちょっと萌えた。その理由を述べようと思う。

まず、幸か不幸か人がいない。登場するのはミヤザキかイシグロ(名前失念。確か4つの音だったと思う)という男性(地図を作製するのが生き甲斐)、イシイという女性(飛行機を一人で設計して向こうの都市へと向かう)、ヌコという変な生き物(弾薬を喰う)のみである。それらと出会って一度合流するが、間もなく別れる。二人は出会った人びとに対して「一緒に旅をしよう」と執着の台詞を言わない。淡々と出会い淡々と別れる。「君子の交わりは淡きこと水の如し」である。

では、ユーリとチトに執着はないのか? 『銀河鉄道の夜』のカンパネルラとジョバンニのように(読んだことないが)、もしかして二人は一人ではないのか、と思った。意見が対立して深刻な別れもないし、葛藤もない。二人はまだ見ぬ世界をあらかじめ受け入れて驚かない。なるほどこれならシリーズ化できる。延々と旅が続けられる。「起承転結」の「転」と「結」がない。「少女の世界」である。

 

2:「山に登る」物語は「ファルスの世界」

前回は『メイドインアビス』を紹介した。シーズン2があるらしいが、果たしてどんな結末を迎えるかについてオデは興味がまったくない。それより何より設定が「山に登る」ではなく「穴に降りていく」ことにいたく興味を持った。「山」とはペニス、ファルスのメタファーであるからだ。「穴」のメタファーはヷジャイナくらいのものだろうか。

ファルスのメタファーは「山」に限らない。現実社会の「昇進」もそうだし、昇進と連動した「肩書」もそうだ。「昇進」すれば「肩書」も高くなるし、男性社会のマウンティングもやりやすくなる。マウンティングとは、どちらが勝つか負けるかの世界、「戦争がある世界」である(先述した「ファルスがない世界」は「少女の世界」である)。「男」はどんどん強くなって廻り(女)を支配する、ファルスを象徴する物語なのだ。

ここで『ナイツ&マジック』の話を入れよう。主人公はプラモオタクで優秀なSEであり、交通事故で突然の死を迎える。が、生まれ変わった主人公は魔法が使える別世界におり、魔法を鍛錬する学校に入る。ファンタジーの世界でも「先輩/後輩」の序列があると気づいて、オデは初回で見るのを止めた。「学校」もまた「ファルスの世界」である。

 

3:あらゆる世界は「ファルスの世界」

勘のいい読者ならもう気づくはずだ。「ファルスの世界」に対して「少女の世界」がある。「ファルスの世界」の物語は「起承転結(=勝敗、戦争、競争の世界)」があるが、「少女の世界」は、ない。そこが面白い。

 

オデはクイア理論を正式には学んでいないし、フェミニズム映画論や文学も齧った程度だが、「起承転結はペニスが勃起して射精するまでの物語」とどこかで読んだか聞いたか印象に残っている。言語の発達は比較的男子より女子が早いが、高校の現国くらいになると女子はもう理解できずに成績が低下する。その理由は「ファルスの世界」を生理的に学んでいないからである。宮台真司曰く「男には作法がある」とのことで、言いかえれば「手続き」くらいかな? 会社ごっこやお役所ごっこで「書類」「署名」「印鑑」「証明書」(「肩書」に入るが「名刺」交換も同列)などの回りくどいことばかり。これって「前戯」みたいなもんよ? あーつまんね。

 

探偵ものか推理ものと比べよう。

ある事件が起こり、手掛かりの伏線などが入るが、結末は「誰が犯人なのか?」のワンパターンである。火サスや土ワイをギャグした「主人公たちが崖の上で延々と科白を言い続ける」シーンもかなり間抜けであり、それは「射精したら後はグダグダになる」ことが分かっているからだ。男の生理はつまらないつまらないからわからない気持ちよくない。オデが推理小説を読まない理由はこれである。ダサくてワンパターンでつまらない。でも不思議と現国はできたのよヲホホ。

 

4:「ファルスの世界」の限界とは?

ところが、最近(オデにとっての)新しいサスペンス小説を発見した。桜木紫乃硝子の葦』である。

ストーリーが超どんでん返しな上、語り手の男性はまるで太鼓持ちだ。ハードボイルドな小説と言えるが、男性が主人公の場合、探偵や刑事などの職業上のハードボイルドにすぎず、私生活は情けなくだらしないかもしれないが、とりあえず職業上はかっこいいらしい。だが、この小説の主人公はホテル経営者の愛人である。それなのにかっこいい!! 濡れる!!

あ。それと、ぼちぼち「この小説が濡れる!」というカテゴリも作ろうかしらね。

 

 

 

 

 

 

 

 

『メイドインアビス』を観てわたし(たち)が思うこと

メイドインアビス』を観た所感(初見感想)などをメモ。なおこれはアビスを読んだことも観たこともない人たちに向けたものである。このエントリを読んで興味を持った人は、AmazonプライムやAbemaTVでご視聴されたし。

 

1:深淵は「山」の負のメタファー

アビスは「人類最後の秘境と呼ばれる、未だ底知れぬ巨大な縦穴」という設定であり、これは「山/頂上」の反対の(負の)メタファーかもしれない。人々は山に憧れ、過去に遭難したにもかかわらず、その山に登ることが多い。「なぜ山に登るのか?」と問われれば「そこに山があるから」と哲学的な理由があり、まるで禅問答みたいだ。高いところや光などを神と重ね、決して山に「毒」や「呪い」があるとは思っていない。山にあるのは「畏怖」であり、人々の「征服欲」であり、より高い山には「死の危険」がある。生還すれば探検家としての栄光はあるが、失敗すれば生きて帰ることはできない。


反対にアビスは「穴」であり「深淵」である。山と同じように人々はアビスに惹かれるが、下層へ行くと同時に段階的に(深界一層~七層、深界極点)探窟家への注意喚起をする。具体的に、上昇負荷は重い吐き気と頭痛、末端の痺れ(深界二層 : 誘いの森)、二層に加え、平衡感覚に異常をきたし、幻覚や幻聴(深界三層 : 大断層)、全身に走る激痛と、穴という穴からの流血(深界四層 : 巨人の盃)、全感覚の喪失と、それに伴う意識混濁、自傷行為(深界五層 : なきがらの海)、人間性の喪失もしくは死(深界六層 : 還らずの都)、そして確実な死(深界七層 : 最果ての渦)。(ウィキペディア参照)

 

2:主人公たちの紹介

主人公は孤児院にいるリコと、深界一層で出会ったロボットのレグ。リコの母親ライザは白笛と呼ばれる探掘家で、遺物に紛れてライザが書いたと思われる手紙をリコは見つける。二人はアビスに入って母親を探すが、それまでの経過をアニメで展開する。探掘家は、青笛<赤笛<黒笛<白笛というふうに色でヒエラルキーを示し、白笛と呼ばれる者は数人しかいない。

 

ロボットのレグは人間と違って深界に深く潜っても変化は見られないし、リコを助ける便利な道具もある(両腕が伸縮可能、手のひらには火葬砲という強力な武器)。だが深界四層でタマウガチの襲撃によってリコの左手が猛毒の針に刺されてしまい、意識を失ったリコは死線を彷徨う。そこへ「なれ果て」と名乗るナナチが声をかけ、猛毒の処理の指示を出す。彼女が回復するまでの話はナナチとミーティの出会いから今に至るまでのエピソードで、オデは年甲斐もなくなぜか号泣した。元浮浪児のナナチとミーティは、白笛ボンドルドの上昇負荷実験のモルモットにされたのである。

 

3:ナナチとミーティ

さて、アニメの設定やあらすじを書いた。ここで本題に入る。ナナチとミーティは深界六層からの上昇負荷実験で人間性の喪失に遭う。ナナチは半分ウサギ半分人間のふさふさした可愛らしいフォルムになるが、ミーティは化け物のようになり、コミュニケ―ションがとれなくなった。いわばミーティは身体障害と知的障害を伴った<異形の者>となったのだ。

ミーティが<異形の者>となったのは、それだけではない。いくら傷つけても「死なない/殺せない」者になってしまったのである。ボンドルドの実験報告を聞いたナナチは悩み続けるが、レグの火葬砲を見て、「ミーティを殺してほしい」と頼む。「オレが死んだ後でも、ミーティは永遠のひとりぼっちだからさ。ミーティの魂は地上に返してもらいたい」。かくしてレグはミーティに向けて火葬砲を撃つ。オデはもう涙滂沱である。

 

4:これは「やまゆり学園連続殺傷事件」を基にしたエピソードではないか?

リコは無事に回復した。「あれ? ここにもう一人いたよね?」と彼女は言うが、レグもナナチも口を噤む。ナナチの住処には、過去にナナチがミーティした数々の毒の実験の後(棚の瓶たち)があったが、リコは実験のおかげで生還した。意識不明になったリコが、ミーティに会った夢の話をした。ミーティはもうここにはいないが、生きた証があるのではないのか。

 

このエピソードは、「やまゆり学園連続殺傷事件」を基にしているのではないか。我田引水な解釈だと我ながら思うが、ナナチハウスがある深界四層は、ひいて言えばアビスの奈落の底は、精神障害者知的障害者、重度身体障害者たちの隔離施設なのではないか。ミーティは障害当事者であり、ナナチは彼女の友人であり、思い出を持った福祉職員である。

 

やまゆり学園の被害者たちは、神奈川県警が氏名の公表を控えており、被害者遺族もマスコミも異議を唱えなかった。「障害者の生は意味がない。不幸しか生まない」という犯人の主張も、「障害者は隔離すべし」との政策も、「障害者が生きた証は残さない」という遺族やマスコミも、全ては「人権侵害」の延長線である。医療・福祉的パターナリズム人道主義は決して交わらない。「障害者はかわいそうな人たち」だとの発想こそが不幸な発想である。同情は見下しの感情だ。

 

現在、漫画は全5巻、アニメは13話だ。リコとライザの遭遇もまだだし、レグの「なぜ自分はロボットなのか?」という謎は解明されていない。ストーリー展開は期待するが、破綻しないよう祈っている。アニメが再開したら、またオデは書くかもしれない。