「さらばリハビリ」~(35)より快適な生活を求めて 

 ここ数年、東京の街を車椅子に乗って観察した結果、地下鉄の駅が構造的にエレベータを設置できず、階段でエスカルに移動しないといけないことがわかった。鬼門は九段下の乗り換えと東銀座である。九段下の乗り換えは、一度地上に出て移動しないと乗り換えられない。他にも、エレベータが駅ではなくビルの敷地であり、ビルの閉門時間はエレベータもオフになっていることも多かった。渋谷の歩道橋のエレベータは夜10時に閉まっている。下の車道は国道246で、始終自動車がびゅんびゅん飛ばしている。車椅子は10時以降外出禁止だと言いたいのだろうか。

 生活保護で仕事もなく、たまに映画館へ行くだけだから、私は都会に住んでいる必要がなくなった。郊外ならば新築のショッピングモールは奇麗に舗装し、バリアフリーが行き届いている。車椅子にとってアクセスしやすい街を探そうと思った。

 まず、風呂がバリアフリーな住宅を探すこと。そのためには都営住宅の抽選に当たること。毎年抽選に外れていたが、今度こそは郊外の都営住宅でいい。なるべく築年数の浅い物件をチョイスしてみると、即当たってしまった。

 車椅子住宅といっても所詮都営だからなあ。私は期待しないように内見し、肝心の風呂にも入ってみた。これならイケる! いまは1週間に2度、湯船に浸かっているが、最初はいかに安全で楽に着替え、移動するか試行錯誤した。浴槽の滑り止め用マットも敷いた。風呂の事故は怪我しやすいと聞く。私は私のヘルパーになった。身体は使えないが、その代わり知恵を出し工夫して使える。

 23区内に住んでいたとき、最後の訪問リハビリを受けた。STもOTも、「これ以上何も教えることはないよ。心配や不安になることはないから。あなたはあなたのままで生きていってね」と言われた。転居先には訪問看護(爪切り)以外に要求することはなかったが、このド田舎の素晴らしい景色を見て、「二本足で歩いてみたい」と思い、ケアマネに頼んだ。ゆくゆくは電動車椅子も卒業する予定である。

 都心から一時間弱で長閑な風景が見られる。ちょっとした平野と、ちょっとした山々。この山は『となりのトトロ』のモデルとなった山だそうだ。健常者のハイキングには物足りないが、片麻痺の私にはひじょうにチャレンジングである。

 長閑なのは風景だけでなく、人もそうだ。通り過ぎるお年寄りと挨拶する街。たとえそれが互いに知らない人であっても、私は機嫌良く挨拶する。

 『高次脳機能障害の世界』を再々読し、「毎日の生活がリハビリ」「オーダーメイドのリハビリの出発点とは、オーダーメイドの観察」とあった。私は知らないうちに山田さんの影響を受けたのかもしれない。

 回復期病院のリハビリはマスプロ教育にたとえると、維持期自宅のリハビリは家庭教師や個人授業みたいなものである(悲しいかな、回復期病院を退院してもマスプロ教育は続いている)。十把一絡げのリハビリは患者の個性を殺してしまい、受験勉強が終わってモーレツ社員になり、病気や事故で身体の故障をすればモーレツにリハビリをする、老体に鞭打って。リタイアは絶対にしない。ちょっと待て、時代は高度経済成長の黄金期ではなかったか? もうそろそろ時代は下り坂になってはいないか? 

 リハビリに専念する患者たちは、泳ぎを止めたら死んでしまうマグロのように、毎日必死で歩いている。私から見れば、彼らは何をそんなに急いでいるのか? と疑問に思う。簡単な仕組みの商品は、もし壊れても簡単に元通り修理できる。拙速で粗製濫造な商品だ。せっかちな商品たちは、とにかく歩いていればかまわない乱雑さで、脚を引きずりながら回復していく。逆に私は巧遅でいよう。彼らには遅れているかもしれないが、同じ回復するなら美しいフォームで歩けるよう回復したい。それこそ、私が健常者のときよりも美しく歩きたい。

 フィンランドでは、学校のテストを全面的に廃止したら、逆に優秀な学生が次々とあらわれるようになった。マスプロ教育ではなく、個人の特徴や能力に対応した教育方針だからである。尾木ママがラジオ番組のゲストで登場し、フィンランドの学校を視察した。ずっと廊下で勉強している少年がいて、校長に訊ねたら、「彼は廊下が好きなんですよ」と笑って答えたのである。

 かつて日本のGDPが世界1位だったとき、すでに経済のピークが過ぎて坂を下っていたことに気づいている人は皆無だった。教育もリハビリも「護送船方式」はもう古すぎる。個人が「空っぽ」のまま生きて、「空っぽ」のまま死んでいくのは滑稽としか言いようがない。日本が輝き出したずっと前に、そもそも太平洋戦争で日本は敗戦していなかったのか? いくら経済大国になっても精神の貧しさは変わらないし、ますます貧しくなっているんじゃないだろうか?

 人間の身体は研究されつくしており、「脳神経が壊れて片麻痺になったらどうするのか?」は、医学上では解決されている。だが、個々の生活上ではどうなのか? これは昨今の「当事者研究」として今後の課題である。リハビリの教科書はない。自分でつくるのだ。

「さらばリハビリ」~(34)「善良な車椅子ユーザー」のイメージを払拭してやる!

 昨今、日本のスモーカーは徐々に駆逐されている。街なかでは喫煙エリアと称された体裁程度の灰皿が置いてある。健常者でこんな程度だから、車椅子ユーザーのスモーカーはいったいどうなるのか。 

 私が目の当たりにした喫煙エリアは、当然ながらアンチバリアフルで、喫煙所まで段差があったり階段や細い廊下や通路があったりして利用できないのである。ムカついた私は決意した。「善良な車椅子ユーザー」のイメージ通りにはなってやらない。むしろそのイメージを払拭してやる。「歩行喫煙禁止区域」なら、携帯灰皿を用意して、悠然と煙草を吹かす。あるいは、人気のないところでは歩き煙草やくわえ煙草で電動車椅子を操縦している。これで文句があるか。

 いま住んでいる田舎では、歩道の作りが雑なので、いちいち歩道に乗り上げることをしない。乗り上げるたびに身体ごと振動する歩道は危険である。注意してみれば、歩道は真っ平ではなく、車道に乗り入れやすいように斜めになっている。そんなところを慎重に走行するのはかったるい。タイヤも減る。だったら私は堂々と車道を走るぞ。道路交通法では、車椅子ユーザーは歩行者と同等だが、歩行者の歩きは楽で安全だ。車椅子なら車輪が四つついているから、これはもう充分四輪だろう。私はマクドナルドは利用しないが、狭い入り口で段差があるのを見たら、入る気がしない。いっそのことドライブスルーを利用してやろうかと思っている。

 見通しの悪い道路や幹線道路以外、信号無視は当然する。信号を遵守するのは生真面目な日本人の歩行者だけで、アメリカでもイギリスでも信号無視はガンガンする。昔、ロンドンやポーランドに滞在したとき、警官たちが堂々と信号無視をしていた。もちろん、自分の命を充分気をつけたうえである。

 平日の朝、急いでいるサラリーマンが信号を無視してるのに、車椅子の私が無視すると、正義感の強くてはた迷惑なおっさんが、「車椅子のくせに信号守れ!」と注意してきたので、「うるせー! 死ね!」と即座に言い返してやった。車椅子に乗っているイメージは、だいたい「善良、従順、気弱でお人好し」である。私はそれらのイメージを払拭してやりたい。

 退院したてのころ、通り過ぎる住民がみんな私のほうを見た。車椅子がそんなに珍しいのか社会勉強が足りないのかよくわからないが、おそらく人は無意識に他人の目を見るのだろう。

 電車に乗ったときは如実だった。特におっさんと子ども連中に多く(無意識に珍しい対象を見るのは幼稚な習性)、私は瞬きもせずに「見られたらじっと見る」戦法をとった。絶対に視線は外さない。ヤクザのメンチ切りだ。相手は立っており、こっちは車椅子である。『時計仕掛けのオレンジ』の主人公ように、三白眼のような目つきで睨む目線位置でラッキーだった。他人の顔をジロジロ見つめるのはもう懲りたろうと思ってやったまでのことである。

「さらばリハビリ」~(33)40代以下の「若い失語症の集い」に参加して

 上川あやさんとの会話で知った「若い失語症の集い」を、私はネット検索して参加した。参加費は2000円で、参加者たちの近況報告をダラダラとしゃべり、食事をし、最後に歌を歌って閉めるイベントである。失語症の原因は、私と同じ脳疾患、スキー事故、交通事故などいろいろだ。

 参加者は圧倒的に男性が多い。しかも新参者の参加者が高次脳機能障害で、周りを無視して勝手に話し、二次会で鍋を用意して完成するまで待ち、マイペースに食べ、エロ話しかしない。気分が悪いので参加はもう辞めてしまった。参加費を払ってわざわざヘテロ男性中心の会話に混ざりたくないし、私は私に合ったコミュニティで会話したいのである。

 当時の会長は、大学生のときから脳疾患で失語症になった40代だ。私と同じ左肩麻痺で、杖も歩装具もなく、腕も手首まで動く。20年経つとこんなふうになるのかと私は楽しみになった。会長はスモーカーで、喫煙タイムのときに私とサシで話し合った。「若い失語症の集い」の意義や歴史や、発足当時は医師やセラピスト中心主義の集いであり、参加する失語症者たちは単なる研究調査の対象となった。当事者たちは集いの意義に対して反旗を翻し、医療従事者を全員追い出して、現在のような当事者中心になった、という話だった。

 他の参加者がGSD(ゲート・ソリューション・デザイン)を履いていたので、「それ、どこで入手したの?」と訊いたが、「これは高いよ。13万もする」と答えたので魂消てしまった。GSDを製作した業者さんは長嶋監督がトレーニングする際に麻痺脚の構造を研究し、通常の靴でも履けるようになっている。また、関節がフリーだが、踵の固定と油圧式の反動を利用して歩行する、最先端の歩装具である。

 偶然、このGSDを研究・開発し、販売もする福祉用具会社に勤めていた友人がいて、営業所の住所とメール、担当者を教えてもらった。この装具は特定疾患に指定され、また私は生活保護なので経費はゼロ円である。持つべきものは福祉関係に勤めていた友人とありがたい情報だ。

 オレンジ色(ジャイアンツカラーとも言う)のGSDをゲットして、最初に装着したとき、OTに支えられてやっとのこと歩いた。桜の季節に散歩しようと思ったが、どういうわけか転倒して顔面を打って怪我をし、眼鏡も壊れた。さんざんな歩装具だ。でも使い慣れたいま、この歩装具一つで室内は歩けるし、調子のいいときは杖もいらない(おそらく)。ゆくゆくは外を杖なしで歩くことがいまの私の目標だ。

 なぜ「若い」失語症の集いなのかというと、失語症者たちはたいてい高齢者であり、地域の社会福祉協会などでコミュニティを形成している。若者は年寄りと話が合わなくて孤立しやすいから、コミュニティの名称に「若い」をつけているのだと想像する。失語症なのに、会に参加して一言も喋らないのなら参加する意味がない。

 ちなみに、近所でも失語症の会が開かれているらしいが、私は絶対に参加しない。理由はすでに書いてある。

「さらばリハビリ」~(32)単身リハビリ生活は、バリアフリーでないから大変!

 ポンコツな医療ソーシャルワーカーにはもう頼らない。自分の部屋は自分で探す。病院の近所の不動産会社から生活保護用(都内であれば家賃平均約5万円)のアパートだけを選りすぐって吟味する。これじゃ収納スペースが足りない。私は不動産会社の担当に「候補に挙がった物件では選べない。これじゃ納得できない」と主張し、担当は涼しい顔をして隠し物件を提出した。なんだ、こんなにあるじゃんかよ! 

 そのなかからもっとも広い物件を探し、マップを見て、どの物件が駅に一番近いか、商店街はどこかをくまなくチェックし、実際に内見もした。どの物件も室内に階段や段差があってアンチバリアフルで、いつか転倒するに違いない。最初のうちは歩きが下手なので部屋は狭くていい、その代わり広い収納スペースがほしい、ついでに電動車椅子も雨を避けるため屋根付きがいい。私の我が儘は際限がなかった。

 数件の候補のうち、最後に絞った一つが最終的な物件となった。広さ約16平方メートル。湯はワンタッチで出る。調理はIHだ。玄関の高い段差とユニットバスが難点だが、後は引越を手伝う友人が何とか収めてくれる。

 退院当日は、今後の将来を予感した土砂降りだった。部屋の鍵を開けると、家具やモノで溢れ返っていた。私は椅子に座って靴を脱がなければならないし、部屋の大半は段ボールで埋められた。これじゃあ学生時代のほうがましである。季節は夏真っ盛り、エアコンも何とか動く。私は毎日近所の偵察に散歩に行った。近くの神社も当然アンチバリアフリーで、参拝に行く途中、階段で転倒し怪我をした。こんなことで負けてなんかいられない!

 冬になった。日当りが悪くて底冷えがする寒い部屋だった。室温は8度。私は足元の暖房器具と防寒具、電気毛布を買い、冬に備えた。四六時中震えた。

 後から判明したが、最寄り駅は都営地下鉄線で、障害者は区役所に申請し、フリーパスになった。区役所が近いのは便利だった。

 夏はシャワーで済ましたが、冬はあったかい湯船に肩まで浸かりたい。エアコンで室温マックスでガンガンにして、ユニットバスにバスボードを乗せて座り、温度は50度設定にしてシャワーした。部屋は寒いし、脱ぎ着は疲れるしで、自分が惨めになり、「死にたい」と思わず呟いた。たぶん気力がなかったんだろうと思う。私の最悪な自宅療養である。

 毎日のように通っていた図書館の帰り道。曇り空で、遠くに団地や家々が並び、下り坂になっていた。その風景を私は思わず涙ぐんだ。なぜかはわからない。悲しいとか寂しいとか具体的に何かを感じたわけじゃない。たぶん、鬱状態だったと思う。

 近所の自立生活センターのサイトを閲覧すると、そこは何と機械浴と檜風呂があった。センターにアクセスして、「利用したい」と申し出、最初は訪問リハビリのOTが入浴介助をしてくれた。久しぶりに湯船に浸かった気分は超極楽だった!

 代表の人が懇切丁寧にシステムを説明してくれた。障害支援法を活用してセンターのスタッフに入浴介助をやってもらい、雪や雨の日には「同行介助」を追加した。週1回は極楽の入浴タイムが待っている。介護保険のプランも障害支援課が調査するのではなく、セルフプランを区役所に提出して終了。

 アパートは1階に2部屋、2階に1部屋がある。私が入居したとき、2階は兄妹が住んでいた。兄は一日中部屋にいてネット稼ぎをしており、派手で人なつこい妹は風俗の仕事をして夜遅く帰宅していた。隣の廃屋は老夫婦がひっそりと住んでおり、あるときお婆さんが亡くなって、お爺さんはボケ始めた。深夜突然、隣から宇宙語を叫ぶ声がした。あのボケたお爺さんだ。ボケた雄叫びに2階の住人は気持ち悪くなって急に引っ越した。

 春。引っ越した2階の空き部屋は母娘がやってきた。娘は小学低学年で、母は何の仕事をやっているのかわからず、昼間は高いびきをかいていた。デブな母は2階の天井をドスドスと響かせ、学校から帰宅した娘はこれまた暴れ走っていた。私は不動産会社に苦情のメールを出し、防音対策をできないかと提案した。同時に生活保護ケースワーカーに連絡して、区内で引っ越せるところはないかと要求した。不動産会社は「防音対策をできる構造じゃないので申し訳ありません」と回答し、ケースワーカーは「娘さんが大きくなるまで辛抱してください(つまり生活保護では引越できないこと)」と懇願した。これじゃ八方ふさがりだよ!

 2階の母娘の騒音はエスカレートした。母が叱り、娘が泣きわめく。ときには近所の住民が虐待じゃないかと通報し、警官がやってきて注意をする。あの母娘も相当荒んでいるのだろう。

 私は生活保護のままアパートの脱出計画を立てた。都営アパートの単身者向住宅・単身者用車いす使用者向住宅は2月と8月に募集要項が出る。私は何度も区役所に行って募集要項と住宅候補をチェックし、何度も応募し、何度も抽選に外れた。それでもめげなかった。

 あるときふと、これは23区内と23区外とで分けているのではないか、と気づいた。東京ならどこでも場所は選ばない。むしろ僻地でもいい。土地はどこでもかまわないが、住宅の築年数がなるべく浅いところを狙って選択した。単身用車椅子使用者向住宅が抽選を通った。やったあ! 

 とき同じくして、母親が深夜2時に帰宅した。私のベッドの側の鉄の階段はギシギシ鳴り、ドアが開いて、母親の一挙手一投足がまるで目に見えるようだ。私の怒りのストレスはマックスになり、ユニットバスのドアはバタンバタン開け、杖で天井をガンガン叩いた。母親は警察に通報し、警官が私の部屋のすぐ隣にスタンバイした。私は2階がドスドス鳴ると必ずバタバタガンガンして、警察がチャイムを押して私を牽制したが、私は無視した。こんな夜中に帰ってくる母親が悪いのだ。

 母親も生活保護らしく、昼間は鼾と寝っ屁をして私を修羅にした。娘が帰ってくるとPCの音楽を止めたが、今度という今度は容赦しない。音楽のボリュームをマックスにした。

 効果があってか、母娘はそそくさと引っ越していった。万歳! 私は勝ったのだ!

 八月に抽選した都営住宅は、手続きや書類提出があり、最終的に2月中旬に転居した。オンボロアパートよさようなら。もう二度と帰ってこないからな! あばよ! 

「さらばリハビリ」~(31)患者を支配・管理しすぎる医療のシステム

いまからおよそ30年前、大学の入学手続きのため田舎の病院で検査を受けて健康診断書を作成してもらったとき、医者から「あなたは糖尿病ですね」と診断された。特に治療薬の処方もなく、いまのように食事療法もなく、診断されても何も手の施しようがなかった。それに、近所にヤブ医者という噂が出る医師の言うことは話半分であった。

 それから数年後、40歳の私は脳梗塞で倒れた。アメリカの病院ではインシュリン注射をしていたようで、気づいたら左腕に注射の跡がいくつもあった。インシュリンキットは荷物と一緒に運ばれたが、ここ日本では主に投薬治療と食事療法をしており、私も治療を受けていた。

 「糖尿病は完治しない」と巷では言われている。理由は「死滅した膵臓ベータ細胞(インシュリンを分泌する)は再生しないから」。疲弊した膵臓ベータ細胞は、時間はかかるが、ある程度回復する。

 糖尿病の病態は個人差が大きく、「膵臓に異常はなく、インシュリン分泌量は足りているがインシュリン抵抗性があり、インシュリンの効きが悪い」「インシュリン分泌能がある程度傷んでいて、現状ではインシュリン分泌量が多少不足しているので、投薬によるインシュリン分泌を促進してやる必要がある」「インシュリン分泌能がかなり傷んでいてインシュリン分泌量が足らないため、外部からインシュリンを補ってやる必要がある」という具合である。
 そういうわけで、診断時点でどの程度インシュリン分泌能が痛んでいるか(膵臓ベータ細胞が生き残っているか)によって、その後の治療方針や経過がかなり異なってくる。

 入院中は強制的に投薬治療と食事療法を受けていた。「退院したら思う存分食うぞ! 飲むぞ! 吸うぞ!」とウキウキし、退院して最初に入ったコンビニで煙草を買った。久しぶりに吸った煙草の味は格別に美味かった。

 在宅療養の最初は訪問医が来て、血圧計、サチュレーション(酸素飽和度)、体温計と聴診器を当てて帰っていった。翌年、就職のため通院に変えてもらった。近所の病院では定期的に血液検査をし、主治医が「ヘモグロビンA1c(エーワンシー)が高いね。いまは7.4パーセントだが、10パーセントを超えたら、ミヤマさんは自分でインシュリンを打てないから入院するほかないね」と言った。主治医は患者に優しく伝えたつもりだったが、私は「入院はもういやだ!」と恐怖に戦き、自堕落な食生活が急遽、野菜中心の粗食生活となった。

 ヘモグロビンA1c値とは、赤血球中のヘモグロビンのうち、どれくらいの割合が糖と結合しているかを示す検査値である。ふだんの血糖値が高い人はヘモグロビンA1c値が高くなり、ふだんの血糖値が低い人はHbA1c値も低くなる。過去1〜2ヶ月の血糖値の平均を反映して上下するため、血糖コントロール状態の目安となる検査で、多くの病院の糖尿病外来で毎月測定されているようである。

 現在は私も糖尿病の知識をつけ、ネットで「白井田七」という漢方薬とヤクルトの「私青汁」を買い、毎朝これらを飲んでいる。これでヘモグロビンA1cは6パーセント台に安定した。膵臓ベータ細胞が完全にやられる前に完治してやる!

 就職はしたものの、契約社員の私は給料も少なく、不足分は生活保護で賄っていた。これじゃあ働いても働かなくても収入は変わらない。最初は編集の仕事をするはずだったが、会社トップの営業ツールの名刺代わり、派手で下品な赤い(ギョーカイでは「キンアカ」という)本の制作だった。夕方には素人の投資家志望がパラパラと集まり、どこに投資するのが損か得かを吟味していた。比較的税金の安い国に起業し、自分の会社は自動的に監査役に収まっているんだから悪どい商売である。金勘定の会社も雰囲気は悪く、入り口には怪しいポエムを掲示している。トップは嘘つきで強欲だった。半年経たずに私は会社を辞めた。そもそも私には団体や組織、集団が合わなかった。

 相変わらず生活保護の日々。しかし、生活保護受給者は強制的にジェネリック医薬品にさせられた。ジェネリック医薬品とは、新薬と同じ有効成分で作られ、「医薬品、医療機器等の品質、有効性及び安全性の確保等に関する法律」にもとづくいろいろな厳しい基準や規制をクリアした薬である。効き目や安全性が新薬と同じだと認められてから発売される。開発にかかる期間が新薬と比べて短い分費用が安くて済むため、価格を安く済ませることができる。

 私が処方されたのは、糖尿病の治療薬と睡眠導入剤だった。眠剤は、どうしてもベッドで熟睡できないから私が要求したものだった。その眠剤ジェネリックに変えさせられ、私はしかたなく飲んだ。すると、てんかん発作のようなものが私にあらわれて、このまま飲み続けたら危険だと思い、さっそく眠剤を変えてもらった。

 このころの私は転院して間もないときであり、近所も知らないのでネットでマップを調べた。そう遠くない場所に「東京都障害者スポーツセンター」があることを知り、主治医に「行ってもいいか?」と相談した。主治医は「ミヤマさんは血圧が高いからスポーツはNGだね。水泳はOKだが」と答えた。

 さっそく私は散歩がてらにセンターへ行き、見学を行った。2階のロビーでプールを見る。それから1階の受付相談に降りて職員に相談した。

 何を隠そう、小学校のころの私は競泳選手だった。母のお仕着せだが、道内の水泳大会に出場してメダルやトロフィーをもらったことが多々あった。大人になってから一人でふらっと市民プールに行き、優雅に黙々と泳いだ。休憩から休憩までずっと泳ぐこともできた。水着に着替えることも抵抗ないし、片麻痺になったとはいえ、水に浮くことはできるだろう。ネットで水着と水泳帽を注文した。着替えること自体は面倒だが、この身体で泳ぐことはできないだろうかと考えた。

 最初は職員の指導でプールサイドからはしごで昇り降りし、簡単な歩行をレクチャーしてもらった。職員が去った後、まず私は片手片足のクロールをトライした。溺れるかと思ったが、25メーターのプールは泳ぐことができた。ビート板を持ちながらバタ足をした。キックターンは足指が壁にぶつかりそうで怖くてできなかった。泳ぐ型はクロールしかできないが、それでも満足だった。夏は涼しくて気持ちいいが、冬は着込むのが面倒で行かなかった。夏が来たらプールに通った。

 主治医は人格的には立派だったが、通院して数ヶ月経ったころ、突然ケアマネと訪問リハビリのOTが慌てて、「ミヤマさん、ベッドを買わなくてはなりません。主治医が勝手に介護用ベッドを廃止してしまいました!」と報告した。いくら主治医と言っても患者の意見を聞かずに無断で変更するなんて、やっぱり医者は自分勝手で嫌いだ。ベッドがなくなる前に、超安値のベッドを検索した。ネットショッピングなら任せておけ! 私は楽天でシングルベッドを8000円でゲットした。

 しかし、環境が変われば身体も変わる。転居したころは市販のシングルベッドで事足りたが、そのうち背中が痛くなり、一度エアマットをレンタルしたがそれでも身体がだるくなり、現在は介護用ベッドに逆戻りである。幸い、転居して主治医が変わり、医師の指示書が変更された。実はケアマネが優秀なので、利用者優先で説得に応じたのである。

「さらばリハビリ」~(30)アバウトに聞かれるオープン型質問と、YES/NOで答えるクローズ型質問

 介護や看護で用いられる面接/会話技法に、「KOMI理論」がある。この技法はかなりメジャーなので簡単に説明する。

 患者とやり取りをする質問には2種類ある。クローズ型(YES/NOで答える)質問とオープン型(YES/NOで答えられない、もしくは5W1Hの)質問である。例を挙げよう。


・クローズ型質問
 「その後、変わりありませんか?」「気分はいいですか?」「熱はありますか?」「痛みは感じますか?」「夜眠れましたか?」

 

・オープン型質問
 「その後、いかがですか?」「気分はどんな感じですか?」「熱の具合はどうでしょうか?」「痛みの具合は、どんな感じですか?」「睡眠の状態はいかがでしょう?」

 

 クローズ型質問は、答えが「はい/いいえ」とシンプルにしか返ってこないのに対し、オープン型質問をされた人は、自分の状態や感想を自分の言葉で説明しなくてはならなくなるそれが私には難しい。

 考えながら喋ることは、いまの私にとっては高等な技術である。歩きながら喋ること、考えながら喋ることなど、喋ることを含んで同時並行的に行動することは、自分が歩いているのか喋っているかわからなくてパニックになり、考えながら喋ることは、喋っている自分が何を考えているのか混乱してわからなくなる。「てにをは」の助詞をどうつけるのか、接続詞はこれでよかったのか、日本語って本当に難しい。相手に理解させる前にまず自分が文章全体をまったく理解していない。これは困った。

 「若い失語症のつどい」の参加者が、こう言った。「自分は大阪生まれの大阪育ちなんですが、失語症のせいで大阪弁を喋れなくなりました」。また、英語が堪能な人は、発症後、英語が全然喋られなくなる。かと思うと、これまで普通に英語で会話していたのに、発症後はまったく見知らぬ言語でベラベラ喋るのである。ある言語研究者が調べてみると、現在では誰も使わない古語の部類だった。もはや失語症はミステリーの域に入った。

 この2つの質問はかなりメジャーではあるものの、看護や介護に携わっていない人たち、また看護や介護業務外にいる人たちには、質問型を考えず、無自覚に会話するものだろう。私がこれまで質問された事例を挙げよう。

 まずは駅員である。私は駅から出発し、駅員に「○○まで」と目的地を告げる。各駅電車しかない電鉄会社はまだいいとして、急行・特急が同時に発車する電鉄会社は、特に駅員が親切な場合は逆に厄介だ。

「いまでしたら、○○まで各駅で行かれますか? それとも△△で降りて急行を待ちますか?」「特急と急行がありますが、どうしましょうか?」

 親切心もありがた迷惑である。私は返答に困ってしまった。考えても頭のなかが真っ白で、何も答えられないのだ。

 また、就職の面接のとき、面接官はこう言った。履歴書には「言語障害失語症」と書いているのに、である。

「さて、これで面接は終了です。ミヤマさん、いかがでしたか?」

 最初はスラスラ喋っていたのに、最後の最後で絶句だ。高次脳機能障害失語症の私が答えられないのは、質問がアバウトすぎるのだ。健常者のお前の質問が下手なのだ。確かにオープン型質問は、面接の場合は短時間で相手の情報をより多くゲットすることができるが、ただしそれは健常者に限った話である。

「さらばリハビリ」~(29)感情のコントロールができない「感情失禁」

 高次脳機能障害の主な症状は、いまはない、と思いたい。自然治癒した症状もあり、後は工夫して訓練して克服した。たとえば一般のカレンダーは読めないが、黒白反転した「大活字カレンダー」を買ったら少しは読めるようになった。アナログ時計もいまは読める。

 だが、いまでも症状が収まらなくて困ったことがある。それは友人と歓談中に「笑いのツボ」に入って出られなくなってしまうことだ。

 「感情のコントロール」ができないことは、人間関係にヒビが入ることがある。笑うのや泣くのが止まらないことは私一人だけ苦しいのだからまだましだ。人によっては、爆笑したかと思うと今度は号泣し、相手が不思議がって距離を置く場合がある。でも、怒るのが止まらないのは実体験を伴ってみんなが困った。高次脳機能障害であることを自覚せず、周りの人たちも理解していないと、離婚や絶交の危機が訪れることもしばしばある。

 最初は怒るのが止まらず、一人の友人と絶交したことがあった。私は喋るのが遅く自分でもイライラするのだが、当時はビールを飲んで興奮してしゃべっており、そのスピードについて行けずに自分でちゃぶ台をひっくり返し、そばにいて私の話を遮った友人の一人に、怒ってジョッキのビールを鞄にかけてしまった。その瞬間の脳内はいまでも覚えている。怒鳴る私が全面に飛び出し、普段の冷静な私は「うわーっ、どどどどうしようどうしよう、困ったなあ?」と後ろでひゅーっと縮こまっている。しばらくして統合した私は事態の収拾をつけられず、黙ってその場を去った。これは解離性同一性障害(多重人格)の症状とまったく同じじゃないか。

 その友人たちは全員私の見舞いにきてくれたが、私の言語障害というか高次脳機能障害は完全に理解していなかった。私も彼女たちもフェミニストである。「ああ言えばこう言う」性格の、うるさいフェミニストだ。どっちも大人しく静かにしていられない。

 最近、笑うのがたまにツボに入って窒息するほど苦しい思いがした。表面的には笑っているのだが、内面は「発作中」である。たとえるなら、強制的にくすぐりマシーンに拷問をかけられているようなものだ。

 アメリカに入院したとき、レズビアンのボランティアのグループが私に話しかけたこともそうだった。当時の私は嬉しいことを笑って表現するしかなかった。思い出し笑いをしてそのままツボに入る症状を何とかしたい。相手はなぜ私がクスクス笑い続けているのかわからず、かえってドン引きをしているだろう。私もこういう奴を見て腹が立つが、これは症状であって癖ではないので、自分では治しようがない。鉄の感情を持って笑いに挑むべきか。それではダウンタウンの『笑ってはいけない』になってしまうじゃないか!

 脳神経がやられると、脳が消費するカロリーをコントロールできないことは以前も書いた。春や夏の間はいいのだが、冬になると私オリジナルの「防寒対策」をしなければならない。できれば板チョコではなく、一口サイズのチョコを舌の上で溶かしたい。最近、歯茎が下がってチョコを噛むと歯が染みてくるようになった。子どものころは平気だったのに。こうやって老いの下り坂を強く感じる。

 後は夜更かしである。原稿が気になり眠れなくて執筆しているとき、急に左背後に誰かが覗いているような気がして、麻痺の身体を一気に痙攣させてしまう。てんかんである。これも脳が「疲れた!」という主張をし始め、私の身体はストライキとなるのである。

 客観的に見ると、私は車椅子ユーザーの身体障害者だが、もしかしたら高次脳機能障害の症状のほうがまだしも「病人」という感じである。糖尿病の服薬治療は続けているが、低血糖症になったことはいままでに一度もない。

 「病人」という定義は曖昧だが、少なくとも「コントロールが利かない」ことと「回復治療の決定的な手立てがない」こと、つまり状態が不安定で対処法がないところである。

 左片麻痺言語障害、糖尿病も立派な病名だが、これらの病名は安定していること、予測がつくことが私にとって「病人」らしくない。端から見ればいかにも「病人」らしいが、外出のシミュレーションをして、少し予想外のことがあった場合、脳が疲労して「早くおうちに帰りたい!」となり、帰宅して着替えてベッドに伏せた状態になったら、それはもう立派な「病人」である。「富士山は月見草がよく似合う」は太宰治だが、「病人はベッドがよく似合う」という、ありきたりなイメージの出所は、私の印象のせいである。