「尊厳死法案」合法化は人身(臓器)売買の暗躍化を増長するのか?

 「尊厳死」でネット検索してトップに出てくるのは朝日新聞連載「シリーズ:柊の選択 穏やかな死を探して」である。尊厳死の話題はだいたい網羅されているが、もう少し深く掘り下げたい方は立岩真也の著書を読みなさい。わかってきたことがどんどんわからなくなるから覚悟してね。

 立岩真也さんの本も難解で冗長だが、テーマがテーマである。おいそれと国会で法制化なんてできっこない。国会議員は「国民はバカだ」と思っていると邪推するが、そういう国会議員もバカ丸出しだから。国民舐めんなよ。

 冒頭にオデの見解を言っておくが、尊厳死の法制化には反対である。現状が最善だとは決して思わないが、法制化=合法化になることは間違いない。「安楽死尊厳死」は日本の現状では「自殺幇助」であって、刑法203条「自殺関与・同意殺人罪」は殺人罪減刑類型であり、法定刑はすべて「6ヶ月以上7年以下の懲役又は禁固」と殺人罪よりも軽い。これらの罪の未遂も罰せられる。

 つまり、尊厳死安楽死の“合法化”は、終末期患者や高齢者の医療措置をせず(消極的安楽死)、死を希望する者には安楽死を担当医師と同意契約して注射で死を全うさせる(積極的安楽死)ものである。医師の特権(法の抜け道)と言っても過言ではない。こうなると腹黒くて頭の悪い医師は特権を振りかざすんだよ。そんな連中に「自分の死」を任せられるか。

 法律はデコボコの道をブルドーザーで平坦に均すようなものだ。患者と医師との個別的信頼関係が事務的で冷たい「死の契約」となるに決まってんだよ。医師を信用するな。法律を信用するな。信用していいのは自分の判断だけだ。

 一部の欧米諸国にはすでに安楽死の合法化が行われているが、すべての国民が同意せず、反対意見もあるだろうと思う。スイスで安楽死したオーストラリアの環境学・植物学者デイビッド・クドールは「ふさわしい時に死を選ぶ自由」と定義している。

 さて、生死をめぐる考えかたは日本と欧米ではニュアンスが違う。「生きる権利・死ぬ権利」を主張する欧米と「生きる義務・死ぬ義務」を静かに受け取る日本の捉えかたも違えば、いざ合法化されたら「死の決定権」は医師に譲らねばならない(「先生にすべてお任せします」)日本人は増えるだろうと想像せざるを得ない。まったく安易だからな~日本人は。

 今年だったか、脚本家の橋田寿賀子さんが雑誌で「安楽死で死にたい」と主張した。オデはその雑誌はまだ見てないが、ネット検索すると「認知症になったり、身体が動かなくなったりしたら、安楽死したい」「私には、家族も心を残した人もいませんから、寝たきりになったり、重度の認知症になったりして、人に迷惑をかけてまで生きていきたくない。ただ単純にそれだけです」。

 出た!「迷惑をかけてまで生きていきたくない」。ここで日本人が共感するフレーズを盛り込んできたが、オデにとっては「薄っぺらくて浅~い主張だなあ」と思って冷笑するしかなかった。「お迎えが来ない~」と、ただ受動的に待ってるだけなのでは?

 橋田さんは長期高齢者だが、まだ健康的だ。軽い病気や体調不良になることもあるだろうが、末期がんや難病にはかかっていない。そうなる前に「安楽死」を、そうなってからでは遅い、とのこと。

 なんで? そうなってから生活してみなさいよ。気分も考えかたも変わるから。

 末期がん患者の生活や心情はオデにもわからないが、歌人中城ふみ子さんは『乳房喪失』の題で50首全部が掲載された。当時の歌壇に大きな反響を呼び、寺山修司は中城の短歌に衝撃を受けて自らも短歌を詠み始め、中城受賞の次回度に短歌研究50首詠を受賞した。 

 中城の作品は「アンチ写生」であり、そこでは徹底して短歌をつくる作者の「私性」が追求されていた。中城が目指した短歌における「私性」とは、虚構を排除しないものなのだ。中城はそうした虚実のあわいに出現する「私性」を、作品を書くことによって実践的に確立していった。自らが体験しつつある乳癌による死というドラマを通底音として、虚実取り混ぜた短歌作品としてある自己を「ロマネスク」に語ること。「新しい抒情の開拓」というのは中城自身の言葉である。そして現実もまた中城によって提示されたフィクションとしての短歌作品を、読者に改めて追体験させるかのように進んでいった。デビューからその死まで、半年に満たない強烈な印象を読む者すべてに与える、短くも鮮やかな生涯の軌跡だった。

 また、ALSを代表する全身性難病患者には「ALSを楽しく生きる」ことを目指しているかたも多くいる。そのうち「ALS文学」「難病文学」などの新しい分野を開拓するんじゃないだろうか。かくいうオデは「片麻痺文学」「重度身体障害者文学」なるものを開拓研究中である。

 かつて健常者の自分がそうなるなんて予想もしなかった心境は、病とともに発展・進化する。オデにはまだ希望がある。だから死ねない。生きるしかない。傍から見れば「生産性のない奴」と笑われているだろうが、現在は潜伏中である。いまに見てろよちきしょうめ。片麻痺のオデは半分死んでいるようなもので、脳梗塞という厄介な病気に日々驚かされている。てんかん発作の前兆はくしゃみが出るのと同じくらい自分でコントロールできないし、予兆も突然で、その発作を重ねて対策を講じなければならない。付け加えて老化の問題もあり、白内障で本の細かい文字が読めないし、部屋の明かりも眩しくてつけられないのだ。

 プロの脚本家・橋田さんはまだ認知症にはなっていないらしいが、突然なるわけじゃないと思うので、自己観察日記を書き連ねておいてドラマ化すればいいんじゃない? 『恍惚の人』は介護する妻の視点で展開するドラマだが、認知症本人の行動や思考の変化は橋田さんじゃなきゃ作れないからチャレンジしてみては? 安楽死のイメージが変わると思うし、オデもぜひ見てみたい。

 

 そんでタイトルの「人身(臓器)売買」は「アシュリー事件」にも関係するが、重度心身障害児(者)は「死の自己決定権」なんてないでしょ? それで安楽死の同意は両親が代理して契約するのよ。子どもは両親の所有物だから。死んだら後は自動的に臓器が運ばれて移植する。親は涙を浮かべて「せめて子どもの臓器が生きていけるように」との美談な茶番。医師も臓器を待っている人もめでたしめでたし…って、それじゃいかんでしょ! でもオデが「いかん」と思ってることに限って未開のビジネスチャンスはあるからな。「この世は金ばかり」の常識を打破しないとね。

 「人は運命に抗いながら生きる」って? 精神的・形而上学的には賛成だけど、医療技術で金と労力を費やして本人は平穏に漫然に生活を再開するのは絶対反対。新しい文学・芸術作品は楽しく平和なときには生まれることはないが、激しい慢性的な苦痛や死の瀬戸際にならないと誕生しないと思う。これはオデの持論だ。

 

 

 

 

『キルラキル』と「幼体成熟」

初見で少し気になって、時間をおいて『キルラキル(2013~2014)』をもう一度見直した。

キルラキル」は「人と服」がテーマとなり、「着る/着られる(あるいは斬る/斬られる)」という言葉遊びの凝縮したタイトルとなっている。日本のTVアニメは「戦闘美少女」のハードルがある(「女子高生、セーラー服」がないと視聴率を稼げない)が、それを上回る内容になっていると思う。

面白い部分はアニメに置いといて、面白くないほうをオデがこれから書いていこう。

 

そもそもなぜ日本では「衣」ではなく「服」と呼ぶのだろうか。辞書を調べると「1:身につけるもの。きもの。特に、洋服。『服を着る』。2:身につける。おびる。『服佩(ふくはい)』」となっている。「服」という字は容易に「服従、屈服、克服、征服(制服)」と聯想できる。

REVOCSコーポレーションCEO鬼龍院羅暁の目論見は「地球を生命繊維(特殊な布)で覆う(世界征服する)」ことで、それに抵抗する纏流子と鬼龍院皐月は姉妹である。ここには目に見える戦闘や格闘だけでなく心理的葛藤があるが、それは後述する。

服を身に着けるのはヒトだけである。メキシコサンショウウオ(流通名ウーパールーパー)のように、大人になっても毛皮も爪も牙も生えない。幼体成熟(ネオテニー)とは、幼生の形態を残したまま性成熟することを指す。

 

 

大学時代、放送作家になろうとしていたサークルの先輩が「自分の書くもの(創作物)は皮膚に近いか? 服に近いか?」と自問した。服なら流行に合わせて取り換えがきくが、皮膚は張りついてどうにもならない。オデは答えられなかったし、今でも答えられないでいる。『キルラキル』のテーマが、どこかに引っかかっている。おそらく製作スタッフ陣も切実に自問自答しながらアニメを完成させたのだと思う。

受け手としては、限りなく皮膚に近い創作物が結構好きだ。噛めば噛むほど旨味が出てくるからだ。作り手としてはどうなのだろうか。それは自分で決められることではないような気がする。

これからも『キルラキル』を見ようと思う。何度見ても発見がある。作り手は苦し紛れかもしれないが、オデには大きなヒントがある。

 

小説家を生かすも殺すも編集者次第ーー桜木紫乃『砂上(2017)』

「主体性のなさって、文章に出ますよね」
「大嘘を吐くには真実と細かな描写が必要なんです。書き手が傷つきもしない物語が読まれたためしはありません」
「わたしは小説が読みたいんです。不思議な人じゃなく、人の不思議を書いてくださいませんか」
「文章で景色を動かしてみてください。景色と一緒に人の心も動きます

「現実としては誰も、柊さんの私生活には興味がありません。あなたは芸能人でも政治家でも、有名人でもない。だからこそ求められるのが、上質な嘘なんです」

「虚構なら虚構らしく、本気で吐いた嘘は、案外化けるんです」

「人に評価されたいうちは、人を超えない」


以上、小川乙三編集者語録。

これまでエッセイばかり書いて懸賞に送ってきた柊玲央に、わざわざ玲央在住の江別にやってきて「小説を書いてください」と提案する。

「全員嘘つきの物語を書く」。谷川俊太郎の、
 
うその中にうそを探すな
ほんとの中にうそを探せ
ほんとの中にほんとを探すな
うその中にほんとを探せ
 
という有名なフレーズをつい聯想してしまう。
「ひとりよがりの一人称」はやめて三人称一視点で書くこと、
心を痛めながら書いて下さい」という条件つきで。
 令央は、自分より五歳下の編集者に反発しながらも指摘を受け入れ、何度も書き直してゆく。編集者との闘いであり、自分の心の奥底にどこまで迫れるかの闘いである。小説を書くことの苦しさが痛いほど読者に伝わってくる。
 (将来の)作家が奇跡的な小説を生み出す産婆術としてかなり優秀すぎる乙三は、もしかしたらレズビアンBDSMっぽくもあるかもしれない、と読了して密かに興奮したオデは確かに変態だろう。自分の変態っぷりを最初に自覚したのは、松浦理英子『裏バージョン(2000)』を読んだときだった。言葉でお互いを傷つけあう科白のやり取りはスリリングそのもので、当事者二人は精神的に疲弊しているにもかかわらず、読者(観客?)のオデは「いいぞ、もっとやれ!」とけしかけたりした。
 しかし『砂上』は、脳裏がヒリヒリするくらいの台詞の格好良さに痺れたが、それ以上に相手が先読みをして、嘘という名の都合のいい科白を言う。お互いに相手の心は読めない。その予測以上に言動を発するところがまた痺れた。囲碁将棋は興味はないが、相手の先の先まで読み、こう来たらこう切り返すという引き出しの豊富さ、丁々発止は小気味よく、評価したい。…がしかし、勝負物は予定調和になるからなあ…と無責任でわがままなぼやきを言ってしまう。
 それにしても『ホテルローヤル(2013)』のエンディングの大どんでん返しは感心したものだった。作者は登場人物の女性たちの生きざまを格好良く描くのが大変上手である。
 著者は本作について 「書けても恥、書けなくても恥でした」 と書いている。小説内での玲央は、 次作は「男の書き手を騙す女性編集者の話なんて、どうでしょうか」と切りかえした。次の作品も読みたい、いや、必ず読んでやるぞ。
 

「アシュリー事件」と児童買春の共通点について

つい先日、旧優生保護法:強制不妊手術9歳にも 宮城、未成年半数超という記事があったが、フェミニストではない人は気がつかなかったかもしれない。これは法律の名前も内容も変わったからもう過去のことだ、と思ってはいけない。

 

旧優生保護法

強制不妊手術9歳にも 宮城、未成年半数超

旧優生保護法

強制不妊手術9歳にも 宮城、未成年半数超

以前から気になっていた「アシュリー事件」だが、児玉真美さんの運営するブログはところどころしか閲覧できておらず、ことの顛末を知らなかったので、なんとなく事件について言及するのは控えていた。がしかし、今日は『アシュリー事件 メディカル・コントロールと新・優生保護思想の時代を読んでみた。その感想である。

 

2004年、重度重複障害児のアシュリー・X(当時6歳)の身体に“アシュリー療法”という外科手術を施術した。この療法はアシュリーの両親が要望している。


“アシュリー療法”とは、子宮摘出、乳房芽摘出、成長抑制を目的としたエストロゲン(女性ホルモン)のパッチを2年くらい皮膚に貼り続けるという療法で、2つの目的が達成されるというのだ。


1つは、在宅介護のためである。アシュリーの介護は両親と雇われた介護者がアシュリーの身体を抱えたり移動したりするのはかなりの負担になるので、できるだけアシュリーの身長と体重が成長しないようにコンパクトにさせてあげたいという両親の要望(メリット)である。


もう1つは、アシュリー自身のためだ。アシュリーは「寝たきり」であり、自分で寝返りができない。成長を抑制させれば、自重負担の軽減ができる。これは、私自身が片麻痺なので、身体が動かない不快さはよく知っている。


重度障害児(者)の不妊手術は、優生思想の歴史を踏まえて、米国では禁止されている。障害児に不妊手術をする前に司法省に報告して手術の許可をとらねばならない。


この「事件」については、2006年の秋、シアトルこども病院の担当医ダニエル・ガンサーとダグラス・ディグマが米国小児科学会誌の論文で報告され、一部の専門家と障害者支援や権利擁護の関係者の間から批判の声があがった。ところが、その批判に応答する形で2007年元旦の深夜に両親がブログを立ち上げたことから、ロサンジェルス・タイムズを筆頭にメディアが次々と取り上げ、世界中で激しい論争が巻き起こった。まさに賛否両論だった。


要するに、「事件」は事後報告だった。アシュリーの身体はもう元に戻らないのだ。


同年5月、ワシントン州の障害者の人権擁護団体Washington Protection and Advocacy System(旧称WPAS)が、1月6日から開始した調査を報告書にまとめ、アシュリーに行われた子宮摘出は違法であると結論付け、8日にシアトルこども病院はWPASと合同で記者会見を開き、公式に子宮摘出の違法性を認めた。


その後、事態は沈静化したが、9月末にはアシュリーのケースを担当し2006年の論文の主著者であった内分泌医のガンサーが自宅で自殺するという衝撃的な事件があった。


アシュリーの父親は身元は明かしていないが、とあるIT関連の大企業の役員であり、名前を明かしたら大変な騒ぎになると本人が懸念している。 “アシュリー療法” の理由と目的を、主治医論文は「在宅介護のため」と主張し、父親は「本人のQOLのため」と主張し、互いに食い違っている。ついでに父親は「(アシュリーの子宮は)基本は『用がない』それに『グロテスク』」とまで言っている。


そもそも、アシュリーの父親と2人の主治医たちの関係は、なにか様子がおかしい。父親が自分の“斬新な”アイディアを話しても主治医がまともに受け入れており、主治医論文は偽装と隠ぺいで溢れている。もしこれが一般の父親なら、そのアイディアを話しただけで診察室から追い出されるのでは、もしくは門前払いではないだろうか。


それに通常の倫理委とは別に「特別な」倫理委をセッティングしてもらい、直接パワーポイントを使って自説を解説し、医師らを説得する場を設けてもらっている。異例の待遇と呼べる。この父親、本当に大物らしい。

ここから、著者の児玉さんは「無益な治療」に通底する「死の自己決定権」や「尊厳死」「臓器移植」の方へ向かうが、私は「下種の勘繰り」をする。アシュリーの両親の品格を汚すことになるかもしれないし、このブログが英訳されたら名誉棄損で訴えられるかもしれない。でも私は、かつての児玉さんが「この危険な流れを食い止めなければ」と真剣に切実に思ってアシュリー・ブログを更新してきたように、私は私で切実なのだ。児玉さんの感じた「キナ臭さ」と私の感じた「キナ臭さ」とは比べ物にならないくらい私のほうがはるかに猟奇的で狂気を感じる。

子宮摘出は、アシュリーが性的虐待のため妊娠しないようにするというが、子宮摘出だけなら子宮口までは外見上変わりはなく、難なくインサート、つまり「レイプ」できてしまうし、妊娠が発覚しないのであれば、性的虐待は水面下に潜ってしまう。アシュリーにとってはかえって危険かもしれず、「介護」する両親はある意味好都合だ。妊娠予防のためなら卵管結紮という、より侵襲度の低い手術法も可能だが、卵管結紮しても月経は続く。

この事件についても児玉さんも、「月経痛」というものにまったく言及していないのが気になった。

私が中学生のとき、月経痛が重いクラスメイトがいて、月経になると目眩がして倒れそうになるを見たことがある。私は月経痛はそんなにひどくはなかったが(腰痛と下痢くらい)、月経痛は本当に人それぞれである。

いまはPMS(Premenstrual Syndrome:月経前症候群)と呼ばれており、ひどいケースになると万引きをしたり、海外では放火したりする症状があらわれるという。

健常者の月経の症状がこれなので、知的障害児や重度重複障害児の月経はどれくらいになるのだろうか。

かつて私を担当していたヘルパーさんは、障害児の母親だった。子どもが娘さんだと聞き、「お嬢さん、月経痛はあるの?」と尋ねると、「もう喚くわ暴れるわで大変です」と笑って答える。毎月の経血処理だけでなく、身体が不自由でしかも暴れるから、清拭やオムツの交換はさぞかし手こずっただろうなあ、と想像した。

 

話は変わって、アシュリーのことである。まず、アシュリーの顔写真は、率直に言って可愛らしすぎると私は思った。人によっては「色気がある」「抜ける顔だ」などと思うのだろうか、顔の造作も整っているが、全体的に「愛嬌がある顔」と言ってもいいくらいだろう。セクシーでチャーミングである。


アシュリーの両親は「ピロウ・エンジェル(枕の天使ちゃん)」とあだ名をつけていたが、腹黒い私はそこで、「…ん?」となった。

 アシュリーはいつも寝たきりなので、枕とお友だちである。「ピロウ・エンジェル」という言葉はかなりの赤ちゃん扱いらしいのだが、そのニュアンスは私にはまったくわからない。むしろ「ピロウ・トーク」と同じくらいにエロスな感じがするぞ。


それに加えて、「プチ・エンジェル事件」という謎事件を連想してしまう(興味のあるかたはご自分で検索してください)。

「プチ・エンジェル」は児童買春の店であり、経営者は謎の自殺を遂げた(自殺に見せかけた他殺?)。経営者の家族たちも続々と不審死している。事件の謎を追っていたフリーライターも殺されてしまい、もう誰も事件の詳細を探ることは恐ろしくてできないのだ。その顧客名簿には、ロリコンでお金持ち、要するに政治家や弁護士、医者などの有力者の名前がずらっとあったとされる。まさに「変態紳士たち」である。

児童買春といえば、腹黒い私は児童ポルノをついつい連想してしまう。児童ポルノの加害者は親、というのをどこかで聞いた。貧困な親が金づるのために我が娘を金で売ってしまうのだろう。

アシュリーの父親は社会的に成功しているらしい。親が貧乏でも金持ちでも、趣味と道楽のために我が娘を不特定多数の者に凌辱されるのが、さらにまたマニアックで変態的で気持ちが悪い。

子どもが障害者でなくても、子は親の所有物であることは全世界共通らしい。アシュリーの父親は、「アシュリー療法」を一般化させようとしていた。

 

「成長抑制のために“アシュリー療法”を」というところまで本を読んで、ダーティマインドな私は邪推し、「あっ」と確信したのだった。

都市伝説でよくある、インド奥地の「だるま」 をご存じだろうか。観光客の女性を拉致し、手足を切り落とし逃げないようにして、男たちに公開セックスをするのだそうだ。私が聞いた「だるま」の話は、ふだんは不動産会社の営業マンであり、観光客がなかなか足を踏み入れないマニアックな国や地域を探して観光するのが趣味で、その営業マンはインド奥地の見世物小屋の「だるま」が日本人女性だとわかった。虚ろな目をしてセックスする彼女は、自分を日本人観光客だと悟り、彼の目をカッと見て「大使館(を呼んで私を助けて)!!!!」と大声で叫んだのだった…。

 

私の邪推だけだったらまだしも、現実のアシュリーが性の玩具として今もシアトルの片隅に生きていたとしたら…確かに、重度障害者を死に至らしめることも惨いが、性の玩具として生き続けているとしたら、しかも両親が娘を性的に支配しているとしたら、まさに生き地獄、実在の「だるま」である。…でもまあ、実在はしないけども。

 

こんなバカバカしい妄想&邪推をして、児玉さん本当に本当にごめんなさい。申し訳ありません。謝罪します。お詫びとして、児玉さんの文章から引用します。私がこの文章を読んでグッときたので。

 

 本人利益と親の利益の混同や、より侵襲度の低い選択肢の検討の不在など、これまで多くの人が指摘してきた倫理問題も指摘しているが、(エイミー・)タンらの論文の眼目は、「仮に、自己決定能力と人格(パーソン)とをエージェンシーと呼び、その両者を持ち合わせている存在をエージェンシーであるとしたら、“アシュリー療法”は果たして正当化されるのか」との問いを立て、哲学的な検証を試みたことだろう。“アシュリー療法”正当化の基盤にある、知的機能の低いアシュリーにはその他の人と同じ扱いをする必要はない、との論理を問うたのだ。
 カントを読んだこともなければ基本的な知識すらない丸腰の素人が、読んだままの理解で内容をまとめてみるという、大胆な行ないを許してもらえるならば、タンらの主張するところは主として二点。まず、アシュリーがエージェントでなく、したがって個人として扱われないとしても、一方で家族という単位もエージェントの集合に過ぎずエージェントでないアシュリーにも同じ姿勢で臨んで然りということになる、というもの。しかし、医師らの正当化は家族全体の利益が本人の利益と分かちがたいと言っているだけなので、この批判はポイントがずれているかもしれない。
 しかし次の論点は、アシュリーではなく、医師のモラル・エージェントとしての義務という観点からの考察であり、私には非常に興味深かった。タンらはカントの「道徳上の義務」を参照しながら、おおむね以下のように論じている。
 我々がモラル・エージェントとして善行を求められる「道徳上の義務」とは、その善行の対象がエージェントであろうとノン・エージェントであろうと、それに関わりなく果たすべき義務である。それは、その義務が、われわれが他者に対してではなく自分自身に対して負っている義務であり、われわれが自分自身に負っている義務とは、ヒューマニティすなわち道徳的なエージェントとして行動できる能力を保つことだからである。その義務を負うがゆえに、われわれは例え自分とノン・エージェントしかいない状況下に置かれたとしても、道徳的にふるまい、自分のヒューマニティを損なわないよう行動しなければならない。したがって患者がノン・エージェントであろうと、エージェントである患者にしてはならないことはノン・エージェントの患者にもしないという義務を、医師はその患者に対してではなく自分自身に対して負っているのである。

(児玉真美『アシュリー事件 メディカル・コントロールと新・優生思想の時代』生活書院、2011年)

 
最後に。児玉真美さんは、アシュリーの父親のブログやCNNのニュースなどをオンタイムで視聴し、その父親の言葉が「どうせ」という文脈のニュアンスに聞こえるらしい。「どうせ障害者だし」「どうせ意識はないんだから」こんな程度でいいだろう、とアシュリーを下に見ているという感じだ。
「どうせ」は重度重複障害者にとってセーフガードにならず、人々に共有されると、逆に生命倫理の「すべり坂」にたちまちなってしまう。「道徳上の義務」がある社会的地位の高い男性たちは、その義務を忘れて自分自身の欲望と保身、権力を行使してしまうのだ。

ツイッターハッシュタグ「#metoo」で、女優さんたちが性的虐待やセクハラ・パワハラを暴き、性的被害者である自分を告白しているが、自分より弱い者、抵抗できない者に、性的な欲望を押しつけて沈黙しておくように仕向けているのも、まったく同じ構造である。

 

最後の最後は、重度重複障害児の施設「びわこ学園」に長年勤めていた医師が書いた文章を引用する。

 

1981年、国際障害者年にあたって、「全国重症心身障碍児(者)を守る会」は、「親の憲章」を作成し、守る会の三原則を決めた。
それは、「決して争ってはいけない、争いの中に弱いものの生きる場はない」「親個人がいかなる主義主張があっても重症児運動に参加する者は党派を超えること」「最も弱いものを一人ももれなく守る」であり、今日まで大切にして運動し事業を行っている。
(高谷清『重い障害を生きるということ』2011年、岩波新書

 

【2018/02/02 19:31追記】

以前私が付き合っていた25歳年上の彼女のお母さんがいるのだが、旦那に死に別れて妹の家に同居していた。彼女は長女で、妹と14歳離れており、妹が結婚するときにお母さんも一緒について行ったという。

お母さんは当時70歳を過ぎており、大腿骨骨折をきっかけに入院し、そのうち徐々に衰弱していった。聞けば、「栄養チューブを自分で断った」という。素朴な尊厳死、平穏死である。お母さんが死んだとき、妹は思わずお母さんに抱きつき、「まだ温かかった」。死んだお母さんの顔はまるで眠っているように見えた。

お母さんの死は、「女三界に家なし」のことわざ通りだと思った。伴侶がいなくなり、孤独になってもまだ死なない。女性の長生きは幸福か不幸か、微妙である。

 

「ファルスの世界」と「少女の世界」 ~クイア文学私論~

新年あけましておめでとうございます。

長年ネットの片隅でブログをシコシコ書いてるが、新年の挨拶は初めてだ。今日は「ご近所神社参拝ラリー」と称して自宅を三角形で結ぶ三つの神社に車椅子で移動した。移動は簡単だが、神社の賽銭箱には手すりなしの階段があり、こわごわ登ってこわごわ降りた。今年初のスリラーである。転倒して頭を打ったら大変だからな。

 

1:さて、本題に入る。

ニコ生で『少女終末旅行』の一挙放送を鑑賞した。冬の軍服のようなものを着た少女が二人、荷物が入るバイクに乗って、人がほとんどいない街というか廃墟をゆく物語である。一人は、背が高くて頭のネジが外れたユーリ、もう一人は賢くてしっかり者のチト。この旅行がいつ始まったのか、どこに目標があるのか、行先はあるかないかわからない。ただストーリーでは、二人が共通のおじいさんと住んでおり、おじいさんが死んでからこの旅が始まったと推測できる。この物語の設定は、戦争が起こった後だ。したがって、どこにも生きてる人がいない(後述するが、「戦争のない世界」とは「ファルス(ペニス)がない世界」である)。

チトとユーリは、食糧と燃料を求めて移動する。見つかるのは軍事用食糧ばかり。今ある燃料や食糧がなくなったら死活問題だが、二人は楽天的に旅行する。その会話でユーリが「絶望ともっと仲良くなれるよ」との科白がある。印象的な科白の一つだ。

二人の会話はボケとツッコミのように観客をクスリとさせ、全体的に明るい。絵のタッチもまんまるなまんじゅう顔をしたコミカルなものだ。延々と外を移動するから雨や雪が降り、吹きさらしの風の下で眠る。彼女たちの寝床はいつも空の下だ。これほど悲惨な設定はないと思うが、それで絶望で悩んだり自殺したりする気配はない。少女たちは先へ進む。ある意味平和で平穏である。

二人の少女の物語であり、ストーリーのなかには温水プールや川に入って水浴びをするという、「ありきたりな百合」要素が入ったものだが、それでもオデは二人の関係性にちょっと萌えた。その理由を述べようと思う。

まず、幸か不幸か人がいない。登場するのはミヤザキかイシグロ(名前失念。確か4つの音だったと思う)という男性(地図を作製するのが生き甲斐)、イシイという女性(飛行機を一人で設計して向こうの都市へと向かう)、ヌコという変な生き物(弾薬を喰う)のみである。それらと出会って一度合流するが、間もなく別れる。二人は出会った人びとに対して「一緒に旅をしよう」と執着の台詞を言わない。淡々と出会い淡々と別れる。「君子の交わりは淡きこと水の如し」である。

では、ユーリとチトに執着はないのか? 『銀河鉄道の夜』のカンパネルラとジョバンニのように(読んだことないが)、もしかして二人は一人ではないのか、と思った。意見が対立して深刻な別れもないし、葛藤もない。二人はまだ見ぬ世界をあらかじめ受け入れて驚かない。なるほどこれならシリーズ化できる。延々と旅が続けられる。「起承転結」の「転」と「結」がない。「少女の世界」である。

 

2:「山に登る」物語は「ファルスの世界」

前回は『メイドインアビス』を紹介した。シーズン2があるらしいが、果たしてどんな結末を迎えるかについてオデは興味がまったくない。それより何より設定が「山に登る」ではなく「穴に降りていく」ことにいたく興味を持った。「山」とはペニス、ファルスのメタファーであるからだ。「穴」のメタファーはヷジャイナくらいのものだろうか。

ファルスのメタファーは「山」に限らない。現実社会の「昇進」もそうだし、昇進と連動した「肩書」もそうだ。「昇進」すれば「肩書」も高くなるし、男性社会のマウンティングもやりやすくなる。マウンティングとは、どちらが勝つか負けるかの世界、「戦争がある世界」である(先述した「ファルスがない世界」は「少女の世界」である)。「男」はどんどん強くなって廻り(女)を支配する、ファルスを象徴する物語なのだ。

ここで『ナイツ&マジック』の話を入れよう。主人公はプラモオタクで優秀なSEであり、交通事故で突然の死を迎える。が、生まれ変わった主人公は魔法が使える別世界におり、魔法を鍛錬する学校に入る。ファンタジーの世界でも「先輩/後輩」の序列があると気づいて、オデは初回で見るのを止めた。「学校」もまた「ファルスの世界」である。

 

3:あらゆる世界は「ファルスの世界」

勘のいい読者ならもう気づくはずだ。「ファルスの世界」に対して「少女の世界」がある。「ファルスの世界」の物語は「起承転結(=勝敗、戦争、競争の世界)」があるが、「少女の世界」は、ない。そこが面白い。

 

オデはクイア理論を正式には学んでいないし、フェミニズム映画論や文学も齧った程度だが、「起承転結はペニスが勃起して射精するまでの物語」とどこかで読んだか聞いたか印象に残っている。言語の発達は比較的男子より女子が早いが、高校の現国くらいになると女子はもう理解できずに成績が低下する。その理由は「ファルスの世界」を生理的に学んでいないからである。宮台真司曰く「男には作法がある」とのことで、言いかえれば「手続き」くらいかな? 会社ごっこやお役所ごっこで「書類」「署名」「印鑑」「証明書」(「肩書」に入るが「名刺」交換も同列)などの回りくどいことばかり。これって「前戯」みたいなもんよ? あーつまんね。

 

探偵ものか推理ものと比べよう。

ある事件が起こり、手掛かりの伏線などが入るが、結末は「誰が犯人なのか?」のワンパターンである。火サスや土ワイをギャグした「主人公たちが崖の上で延々と科白を言い続ける」シーンもかなり間抜けであり、それは「射精したら後はグダグダになる」ことが分かっているからだ。男の生理はつまらないつまらないからわからない気持ちよくない。オデが推理小説を読まない理由はこれである。ダサくてワンパターンでつまらない。でも不思議と現国はできたのよヲホホ。

 

4:「ファルスの世界」の限界とは?

ところが、最近(オデにとっての)新しいサスペンス小説を発見した。桜木紫乃硝子の葦』である。

ストーリーが超どんでん返しな上、語り手の男性はまるで太鼓持ちだ。ハードボイルドな小説と言えるが、男性が主人公の場合、探偵や刑事などの職業上のハードボイルドにすぎず、私生活は情けなくだらしないかもしれないが、とりあえず職業上はかっこいいらしい。だが、この小説の主人公はホテル経営者の愛人である。それなのにかっこいい!! 濡れる!!

あ。それと、ぼちぼち「この小説が濡れる!」というカテゴリも作ろうかしらね。

 

 

 

 

 

 

 

 

『メイドインアビス』を観てわたし(たち)が思うこと

メイドインアビス』を観た所感(初見感想)などをメモ。なおこれはアビスを読んだことも観たこともない人たちに向けたものである。このエントリを読んで興味を持った人は、AmazonプライムやAbemaTVでご視聴されたし。

 

1:深淵は「山」の負のメタファー

アビスは「人類最後の秘境と呼ばれる、未だ底知れぬ巨大な縦穴」という設定であり、これは「山/頂上」の反対の(負の)メタファーかもしれない。人々は山に憧れ、過去に遭難したにもかかわらず、その山に登ることが多い。「なぜ山に登るのか?」と問われれば「そこに山があるから」と哲学的な理由があり、まるで禅問答みたいだ。高いところや光などを神と重ね、決して山に「毒」や「呪い」があるとは思っていない。山にあるのは「畏怖」であり、人々の「征服欲」であり、より高い山には「死の危険」がある。生還すれば探検家としての栄光はあるが、失敗すれば生きて帰ることはできない。


反対にアビスは「穴」であり「深淵」である。山と同じように人々はアビスに惹かれるが、下層へ行くと同時に段階的に(深界一層~七層、深界極点)探窟家への注意喚起をする。具体的に、上昇負荷は重い吐き気と頭痛、末端の痺れ(深界二層 : 誘いの森)、二層に加え、平衡感覚に異常をきたし、幻覚や幻聴(深界三層 : 大断層)、全身に走る激痛と、穴という穴からの流血(深界四層 : 巨人の盃)、全感覚の喪失と、それに伴う意識混濁、自傷行為(深界五層 : なきがらの海)、人間性の喪失もしくは死(深界六層 : 還らずの都)、そして確実な死(深界七層 : 最果ての渦)。(ウィキペディア参照)

 

2:主人公たちの紹介

主人公は孤児院にいるリコと、深界一層で出会ったロボットのレグ。リコの母親ライザは白笛と呼ばれる探掘家で、遺物に紛れてライザが書いたと思われる手紙をリコは見つける。二人はアビスに入って母親を探すが、それまでの経過をアニメで展開する。探掘家は、青笛<赤笛<黒笛<白笛というふうに色でヒエラルキーを示し、白笛と呼ばれる者は数人しかいない。

 

ロボットのレグは人間と違って深界に深く潜っても変化は見られないし、リコを助ける便利な道具もある(両腕が伸縮可能、手のひらには火葬砲という強力な武器)。だが深界四層でタマウガチの襲撃によってリコの左手が猛毒の針に刺されてしまい、意識を失ったリコは死線を彷徨う。そこへ「なれ果て」と名乗るナナチが声をかけ、猛毒の処理の指示を出す。彼女が回復するまでの話はナナチとミーティの出会いから今に至るまでのエピソードで、オデは年甲斐もなくなぜか号泣した。元浮浪児のナナチとミーティは、白笛ボンドルドの上昇負荷実験のモルモットにされたのである。

 

3:ナナチとミーティ

さて、アニメの設定やあらすじを書いた。ここで本題に入る。ナナチとミーティは深界六層からの上昇負荷実験で人間性の喪失に遭う。ナナチは半分ウサギ半分人間のふさふさした可愛らしいフォルムになるが、ミーティは化け物のようになり、コミュニケ―ションがとれなくなった。いわばミーティは身体障害と知的障害を伴った<異形の者>となったのだ。

ミーティが<異形の者>となったのは、それだけではない。いくら傷つけても「死なない/殺せない」者になってしまったのである。ボンドルドの実験報告を聞いたナナチは悩み続けるが、レグの火葬砲を見て、「ミーティを殺してほしい」と頼む。「オレが死んだ後でも、ミーティは永遠のひとりぼっちだからさ。ミーティの魂は地上に返してもらいたい」。かくしてレグはミーティに向けて火葬砲を撃つ。オデはもう涙滂沱である。

 

4:これは「やまゆり学園連続殺傷事件」を基にしたエピソードではないか?

リコは無事に回復した。「あれ? ここにもう一人いたよね?」と彼女は言うが、レグもナナチも口を噤む。ナナチの住処には、過去にナナチがミーティした数々の毒の実験の後(棚の瓶たち)があったが、リコは実験のおかげで生還した。意識不明になったリコが、ミーティに会った夢の話をした。ミーティはもうここにはいないが、生きた証があるのではないのか。

 

このエピソードは、「やまゆり学園連続殺傷事件」を基にしているのではないか。我田引水な解釈だと我ながら思うが、ナナチハウスがある深界四層は、ひいて言えばアビスの奈落の底は、精神障害者知的障害者、重度身体障害者たちの隔離施設なのではないか。ミーティは障害当事者であり、ナナチは彼女の友人であり、思い出を持った福祉職員である。

 

やまゆり学園の被害者たちは、神奈川県警が氏名の公表を控えており、被害者遺族もマスコミも異議を唱えなかった。「障害者の生は意味がない。不幸しか生まない」という犯人の主張も、「障害者は隔離すべし」との政策も、「障害者が生きた証は残さない」という遺族やマスコミも、全ては「人権侵害」の延長線である。医療・福祉的パターナリズム人道主義は決して交わらない。「障害者はかわいそうな人たち」だとの発想こそが不幸な発想である。同情は見下しの感情だ。

 

現在、漫画は全5巻、アニメは13話だ。リコとライザの遭遇もまだだし、レグの「なぜ自分はロボットなのか?」という謎は解明されていない。ストーリー展開は期待するが、破綻しないよう祈っている。アニメが再開したら、またオデは書くかもしれない。

 

 

ホピ族の予言と衆議院選挙の話

 私はもうすぐ五十路の女で、独身、恋人なし。ついでに無職で身体障害者である。あと一つ増えたら萬貫で、老化の深刻な病を発症したら役萬ハネ萬だ。がしかし、「将来に不安を感じる」どころではなく「お先真っ暗」だが、私は「そのうちなんとかなる」と楽観視しているし、実際「なんとかなった」のだ。たとえば、一人暮らしの障害者は一人では暮らせないが、訪問介護制度を活用すれば何でもできる。


 これは今まで誰にも云ったことはないが、脳梗塞を発症してすぐに、「あ。セックスできないかも」と思った。暇なときオナニーして麻痺した手脚が勝手に収縮し、「面白い! 今の身体でセックスしたらどうなるんだろう?」と少しワクワクした。ちなみにセックスは一度もやってない。パートナーもほしいとは思わない。デリヘル嬢を依頼して性欲を満足すると個人的には解決だが、私は「身体障害者の性」と「性的少数者の橋渡しをしたいと思っている(ということは、「身体障害者の性」と「性的少数者の間には見えない大きな溝がある)。身体障害者ヘテロしか見つからないし、特に女性の身体障害者は性をタブー視しており、窮屈な思いをしているのではないかと懸念している。私がそうだったからだ。


 かつて健体者だった私はオープンリーなクイアだった。ところが、医療と福祉は私のアイデンティティを脅かすものだと感じた。特に、退院して自宅療養にシフトした私は、ケアワーカー、ケアマネージャー、ヘルパー、訪問看護や訪問リハビリなど、私の生活をより快適に過ごすようにする要員が揃っていた。週に2回通ってくるヘルパーには、私はなぜか窮屈な感じがしていた。ここは私のパーソナルスペースなのに。


 中途障害者の私でさえ不自由で窮屈だと感じたというのに、生まれたときからの身体障害者なら、ここに家族が入ってなおさらがんじがらめにされているだろう。そんなあなたたちに云いたい。現状で満足してはいけない、環境は変えられる、と。


 高校時代の友人で同人誌を書いていた中心人物が、「小説のテーマでタブーなのは、誰かが死ぬのとセックスすることだ」と云った。理由は知らない。誰かの引用かもしれないが、当初は軽く聞き流していた。しかし、今になって思えば、死ぬことと恋愛することは安直で身近なドラマであり(世の中で死と恋愛は同時多発的に起こっており、凡庸でありふれている)、読者は容易に感情移入し感動するからではないのか。


 誰だって肉親や友人同僚の死は傷ましくて悲しいし、誰だって自分が恋愛したらロマンティックにときめくのに決まっている。だが感傷と恋愛感情ほど凡庸なものはないと繰り返して私は書く。それが脚本家や小説家は自覚しており(あるいは視聴者または読者に受けると目論んでいる)知人の死と誰かと恋愛することをストーリー設定に持ち込むことは逃げでしかない。親兄弟は血のつながった他人だし、愛は執着にすぎないと私は思っており、言語障害があるので喋るのが面倒臭いし、脳に負担がかかって疲労するから、私はパートナーというものを求めていない。だから私は葬儀のシーンとラブシーンではなんだか白々しい気分になる。読者と視聴者を馬鹿にするなと思う。


 その同人誌で私も二、三度投稿したが、同じ冊子で「同性愛は不毛である」という雑文を書いた人がいた。それを読んだ私は「異性愛だって不毛じゃないか。同性愛をいちいちクローズアップするな」と思ったが、面倒臭くて直談判は避けた。そのころの私は同性とつきあっていたので、どうやら噂が流れたらしい。妄想創作系腐女子ホモフォビアであることは今も昔も変わらない


 さきほど読んだ倉橋由美子全作品集8巻の「作品ノート」で、「『自主規制』第二項」として、「自分だけで経験したことを逐一報告しても始まらない。例えば山中で大蛇に呑まれてその腹を切り裂いて出てきた話とか空飛ぶ円盤を見た話とか難病にかかって苦しんだ話とかは、本人にとっては大変な経験であろうが、他人から見れば痛くも痒くもない」とある(ちなみに「自主規制」第一項は「自分と他人とが関係して起こったことをそのまま小説に書いてはならない」。これは相手の了承なしにプライベートを公表するなということで、私も同意である)。私がここで書こうとしているのは「難病で苦しんだ話」だろうか? それはともかくとして、かの倉橋御大の逆鱗に触れるかもしれないし、見向きもされないし、そもそも絶対に読まれることはないだろう(もうお亡くなりなっているから)。


 私がここで書こうとしているのは、脳梗塞の後遺症の経過報告である。病人といえばそうかもしれないが、自分としては怪我人くらいの感覚である。片麻痺と云えば多くの人たちが「手脚が動かない」と思うだろうが、動かないのに加えて左側の腹筋と背筋であり、首であり顔である。振り向こうとしてもうまく振り向けないし、もともと口笛は得意だが現在では口蓋の構造が変わってしまい、ほとんど吹けないし、音階も狭い。口のなかで響かせるには唇の位置を変えて工夫するしかない。でもこれは苦しい話だろうか?


 動かないのは不自由で不便だが、身体の変わりようを私は興味深いと思っている。脳神経が壊れるときは一瞬だが、回復しつつあるときには身体のどこからどのように回復するのか自分なりに検証したい。脚と腕では脚のほうが早く回復するらしいが(例外も稀にあるし、リハビリなしで唐突に回復した事例も知っている)、発症から7年経った私の身体は、杖を使ってやっと歩行ができる程度である。右脳の運動神経はいったん失ったが、怠けつつもリハビリを行うなかで、右脳のニューロン細胞はニョキニョキと生え出し、今は左脚の運動神経の成り損ないであろうとイメージしている。なぜなら、脚は動かないこともないが、力が出ないし、思い通りには動かない。腕も脚も体幹に近い付け根から動き出す。末端はまだ先である。自分の手足の動きの変化を見ていると、そのまま脳神経の動きのようである。今は「共同運動」が先だが、そのうち「分離運動」が起こってくる。これは運動神経の発達だと思っている。右側を動かすと同時に左側にも強張りが起こるが、これは筋肉が連動しているせいだろう。


 私は半身の神経を失ったが、まだ健全な部分が残っている。私の場合、左側は廃用症候群であり、右側が過用症候群である。つまり、左側が動かないため使われなさすぎて浮腫み、皮膚が湿潤液で満たされていて触ると痛いし、夏も冬も皮膚が冷たいし、右側は使われすぎで節々が痛いのである。


 片方が使い物にならなくなれば、もう片方だけで使うほかない。そもそも人間の身体、生き物の身体は、なぜ右と左と二つあるのだろうか?


生き物の身体は、ちょうどまっぷたつになる。プラトンの『饗宴』によると、エロス賛美の前にアリストファネスがこう云った。人間の身体はもともと手脚が四本ずつあり、頭が二つあった(「人間球体説」)が、神ゼウスの怒りに触れ、その罰としてまっぷたつに別れてしまった。人が人を愛するのは元来の形状を求めるせいである、とあるが、これはお伽噺だと思ったほうがいい。ちなみにこの球体には、男女、男男、女女があり、異性愛だけでなく同性愛や両性愛の根拠にもなると解釈する人もいる。


 世の中には二元論というものがある。天と地、善と悪、光と闇、火と水、女と男、精神と肉体、感情と理性、内と外、人工と自然、文系と理系、右派と左派、タカ派ハト派、保守と革新、衆議院参議院などなど。中国の古代思想には五行思想(水・金・土・木・火)があるが、現代日本はすでに曜日くらいしか名残がない。それに対して西洋では四大元素説があり、比較される思想である。エンペドクレスが最初に説き、続いてアリストテレスの説がもっとも広く支持された。四元素を構成する「温・冷・湿・乾」は四性質とも呼ばれており、物質そのものではなく物質の性質を表していたが、洋の東西を問わず、この思想はもはや廃れており、その代わりに二元論に基づく二項対立が思想のうえでも政治のうえでも日々の日常会話でも、現代人の薄っぺらい思想では、白黒つけずにはいられないものである。


 もしかしたら、この世はバランスを失った世界かもしれない。手は両方あるのに、右利きの人がメジャーであり、男女平等はお題目にすぎず、どうしても男のほうが優勢であり、自然はどんどん失われ人工物ばかりが出現していて、地球環境が深刻な影響を与えている。人類は原子力開発に成功したが、その成功と栄誉が滅亡となるかもしれない。前述した「同性愛は不毛」の理由は「異性愛者は子どもを生めるから」というありふれたものだが、人口爆発しかねない現代では、「子どもを生む」ことが元凶になるのかもしれない。


コヤニスカッツィ/平衡を失った世界(1982)』は、ナレーションを一切使わず、ただ流れてくる映像を早回ししている。現代音楽(ミニマルミュージック)のフィリップ・グラスは素晴らしいメロディーを繰り返している。内容としては、アメリカの原風景から始まって開拓され、都市になっていき、ひたすらスクラップ&ビルドの繰り返しで自然を壊し続けるという、文明社会への警鐘であり、現代を批判・風刺したドキュメンタリー映画であり、「21世紀の映像黙示録」である。タイトルの「コヤニスカッツィ」とは、ホピ族(アメリカ・インディアンの部族のひとつ)の言葉で「常軌を逸し、混乱した生活。平衡を失った世界。他の生きかたを脅かす生きかた」の意。


 ホピ族の預言は当たっていると私は思う。この預言を公開するため、第二次世界大戦終了後、ホピ族の長老トーマス・パニャック氏は、人類に対する警告書として、ある預言を国連本部に送った。次の文章である。

「現在の世界は、まず白い肌の人間の文明が栄える。次第に彼らはおごり高ぶり、まるで地上の支配者になったように振舞う。白い兄弟は馬に曳かれる車に乗ってやってきて、ホピ族が幸せに暮らしている土地を侵略する。その後、大地は、馬に曳かれない車の車輪の声で満たされるだろう。そして、牛のような姿で大きな角を生やした獣が多数現れるだろう。次に、白い肌の人間は『空の道』を作り、空中に『くもの巣』をはり、陸上にも『鉄の蛇』が走る無数の線を張りめぐらす。やがて、『第一の炎の輪』の中での戦いが始まり、しばらくすると、『第二の炎の輪』の中でも戦う。そのとき白い兄弟たちは恐ろしい『ひょうたんの灰』を発明する。この灰は川を煮えたぎらせ、黒い雨を降らせ、不治の奇病をはやらせ、大地を焼き尽くして、その後何年も草一本生えないようにする。そして白い肌の人間たちは、空のかなたで見つめるタイオワ(グレート・スピリット)の怒りと、警告に気づかず、ますますおごり高ぶって、とうとう『月にはしごをかける』までになる。この段階でタイオワは『第四の世界(ホピ族では、この世界を第四の世界と呼び、今まで第一、第二、第三の世界は滅んでいるという)』を滅ぼすことを決意する。その時期は、『空に大きな家を作るとき』である。そして、地上の天国で、大きな墜落で落ちる住居のことを聞くだろう。そしてそれは青い星として現れるだろう。この後すぐに、私の民の儀式は中止される」

 
 これを読んで、思い当たることはないだろうか。現代人は目の前の現実、つまり金や収入だけを見て、予感や直観は鈍ってしまい、やがて起こる危機に気づかずに滅んでしまう。日本は原子爆弾を落とされた唯一の国で、東北大地震によって原発の痛手を負ったのだから、政治家は「原発反対」と主張することは容易い。しかし、アメリカは原発産業を推進している国なので、いざ日米交渉の際に誰一人主張できないだろうと私は思う。なぜなら日本は、原爆を二度落とされた敗戦国だから。ならば、なぜ今、政治家はこぞって「原発反対」という耳障りのよい言葉を主張するのか? それは日本国民にとってもっとも賛同・迎合しやすい合い言葉だからである。政治家は二枚舌であることを忘れてはいけない。アメリカが悪いとは思わないが、アメリカは狂っていると思う。その狂気にひきずられないようにするには、どうするべきか?

 さあみなさん。みなさんにできることは、各政党サイトをじっくり読んで、選挙に行くしかないのですよ!