「さらばリハビリ」~(32)単身リハビリ生活は、バリアフリーでないから大変!

 ポンコツな医療ソーシャルワーカーにはもう頼らない。自分の部屋は自分で探す。病院の近所の不動産会社から生活保護用(都内であれば家賃平均約5万円)のアパートだけを選りすぐって吟味する。これじゃ収納スペースが足りない。私は不動産会社の担当に「候補に挙がった物件では選べない。これじゃ納得できない」と主張し、担当は涼しい顔をして隠し物件を提出した。なんだ、こんなにあるじゃんかよ! 

 そのなかからもっとも広い物件を探し、マップを見て、どの物件が駅に一番近いか、商店街はどこかをくまなくチェックし、実際に内見もした。どの物件も室内に階段や段差があってアンチバリアフルで、いつか転倒するに違いない。最初のうちは歩きが下手なので部屋は狭くていい、その代わり広い収納スペースがほしい、ついでに電動車椅子も雨を避けるため屋根付きがいい。私の我が儘は際限がなかった。

 数件の候補のうち、最後に絞った一つが最終的な物件となった。広さ約16平方メートル。湯はワンタッチで出る。調理はIHだ。玄関の高い段差とユニットバスが難点だが、後は引越を手伝う友人が何とか収めてくれる。

 退院当日は、今後の将来を予感した土砂降りだった。部屋の鍵を開けると、家具やモノで溢れ返っていた。私は椅子に座って靴を脱がなければならないし、部屋の大半は段ボールで埋められた。これじゃあ学生時代のほうがましである。季節は夏真っ盛り、エアコンも何とか動く。私は毎日近所の偵察に散歩に行った。近くの神社も当然アンチバリアフリーで、参拝に行く途中、階段で転倒し怪我をした。こんなことで負けてなんかいられない!

 冬になった。日当りが悪くて底冷えがする寒い部屋だった。室温は8度。私は足元の暖房器具と防寒具、電気毛布を買い、冬に備えた。四六時中震えた。

 後から判明したが、最寄り駅は都営地下鉄線で、障害者は区役所に申請し、フリーパスになった。区役所が近いのは便利だった。

 夏はシャワーで済ましたが、冬はあったかい湯船に肩まで浸かりたい。エアコンで室温マックスでガンガンにして、ユニットバスにバスボードを乗せて座り、温度は50度設定にしてシャワーした。部屋は寒いし、脱ぎ着は疲れるしで、自分が惨めになり、「死にたい」と思わず呟いた。たぶん気力がなかったんだろうと思う。私の最悪な自宅療養である。

 毎日のように通っていた図書館の帰り道。曇り空で、遠くに団地や家々が並び、下り坂になっていた。その風景を私は思わず涙ぐんだ。なぜかはわからない。悲しいとか寂しいとか具体的に何かを感じたわけじゃない。たぶん、鬱状態だったと思う。

 近所の自立生活センターのサイトを閲覧すると、そこは何と機械浴と檜風呂があった。センターにアクセスして、「利用したい」と申し出、最初は訪問リハビリのOTが入浴介助をしてくれた。久しぶりに湯船に浸かった気分は超極楽だった!

 代表の人が懇切丁寧にシステムを説明してくれた。障害支援法を活用してセンターのスタッフに入浴介助をやってもらい、雪や雨の日には「同行介助」を追加した。週1回は極楽の入浴タイムが待っている。介護保険のプランも障害支援課が調査するのではなく、セルフプランを区役所に提出して終了。

 アパートは1階に2部屋、2階に1部屋がある。私が入居したとき、2階は兄妹が住んでいた。兄は一日中部屋にいてネット稼ぎをしており、派手で人なつこい妹は風俗の仕事をして夜遅く帰宅していた。隣の廃屋は老夫婦がひっそりと住んでおり、あるときお婆さんが亡くなって、お爺さんはボケ始めた。深夜突然、隣から宇宙語を叫ぶ声がした。あのボケたお爺さんだ。ボケた雄叫びに2階の住人は気持ち悪くなって急に引っ越した。

 春。引っ越した2階の空き部屋は母娘がやってきた。娘は小学低学年で、母は何の仕事をやっているのかわからず、昼間は高いびきをかいていた。デブな母は2階の天井をドスドスと響かせ、学校から帰宅した娘はこれまた暴れ走っていた。私は不動産会社に苦情のメールを出し、防音対策をできないかと提案した。同時に生活保護ケースワーカーに連絡して、区内で引っ越せるところはないかと要求した。不動産会社は「防音対策をできる構造じゃないので申し訳ありません」と回答し、ケースワーカーは「娘さんが大きくなるまで辛抱してください(つまり生活保護では引越できないこと)」と懇願した。これじゃ八方ふさがりだよ!

 2階の母娘の騒音はエスカレートした。母が叱り、娘が泣きわめく。ときには近所の住民が虐待じゃないかと通報し、警官がやってきて注意をする。あの母娘も相当荒んでいるのだろう。

 私は生活保護のままアパートの脱出計画を立てた。都営アパートの単身者向住宅・単身者用車いす使用者向住宅は2月と8月に募集要項が出る。私は何度も区役所に行って募集要項と住宅候補をチェックし、何度も応募し、何度も抽選に外れた。それでもめげなかった。

 あるときふと、これは23区内と23区外とで分けているのではないか、と気づいた。東京ならどこでも場所は選ばない。むしろ僻地でもいい。土地はどこでもかまわないが、住宅の築年数がなるべく浅いところを狙って選択した。単身用車椅子使用者向住宅が抽選を通った。やったあ! 

 とき同じくして、母親が深夜2時に帰宅した。私のベッドの側の鉄の階段はギシギシ鳴り、ドアが開いて、母親の一挙手一投足がまるで目に見えるようだ。私の怒りのストレスはマックスになり、ユニットバスのドアはバタンバタン開け、杖で天井をガンガン叩いた。母親は警察に通報し、警官が私の部屋のすぐ隣にスタンバイした。私は2階がドスドス鳴ると必ずバタバタガンガンして、警察がチャイムを押して私を牽制したが、私は無視した。こんな夜中に帰ってくる母親が悪いのだ。

 母親も生活保護らしく、昼間は鼾と寝っ屁をして私を修羅にした。娘が帰ってくるとPCの音楽を止めたが、今度という今度は容赦しない。音楽のボリュームをマックスにした。

 効果があってか、母娘はそそくさと引っ越していった。万歳! 私は勝ったのだ!

 八月に抽選した都営住宅は、手続きや書類提出があり、最終的に2月中旬に転居した。オンボロアパートよさようなら。もう二度と帰ってこないからな! あばよ!