中島みゆきはオデが育てた(3)

つづき。

ここでオデの経験談を話そう。物心ついてからのオデは、ずっと「このスタイル(外見的男性)」でやってきた。なかにはオデと惚れ合った女性も少なくないが、結局、その女性たちはオデの元から離れていった。まるで「正しい愛」に立ち戻り、「あなたを好きになったのは一瞬の気の迷いだわ」とでも言いながら。ときには、「わたしやっぱり男の人じゃないとダメ」とオデにはっきりと言いながら。


オデは「男性の代わり」だったのかと気づいて苦しみながらも、なぜか「このスタイル」を止められない。自ら「男性の代わり」になろうと、無自覚にしているのかもしれない。「そのほうが女性にモテる」という理由以前に、オデ自身が身体的精神的に心地よいからだ。オデはオデで主体的に生きてきたが、それが逆に「惚れられること」、つまり客体になりきることだとようやく気づいた。相手が「惚れる」ことは何の責任もない。だが、業の深いオデは、「惚れられると深みにハマる」のだ。


オデは最初のころから思っていた。オデと別れた女性が、次に付き合うのは女性ではなく、どうして必ず男性なのだろうか? これじゃレズビアンじゃないだろう、どうみてもバイセクシュアルだろう、と憤慨していた。あるいは、オデ自体が女性をバイセクシュアルに変わらせる何かのきっかけがあるのかもしれない。


またこれも個人的な経験なのだが、知人のレズビアンが、あるときは男性のように男装をし、あるときは女性のように女装することを、この眼で見た。オデはその光景の判断を止めた。止めてずいぶん経ったとき、中村亜希『リオとタケル』(2014年、集英社インターナショナル)で、はた、と膝を打った。


(引用は長くなるので割愛するが、おそらく、それは女性の性指向も性自認も、男性の性指向のため、社会の「強制異性愛」主義のために結果的に決まるのだが、一方で男性嫌悪や性的虐待のため、逆に女性に対して性指向が生まれる、と思う)


「戦後世代の自己主張が頂点に達した1970年代前後、それは、新興音楽となって現われた。
 新興音楽においては、自我は、近代的・市民的・個人的なものとして描かれる。愛は、自立した個人の対等な関係としてあるから、社会関係・家族関係に従属したものとしてはない。愛は、社会的・家族的シアワセへのチャンネルとして価値があるのではなく、それ自体が価値である。だから、愛に基づいた告発歌は成立しにくい。まれには、愛に基づいた告発歌がないでもないが、その場合でも、愛を裏切った男または女は社会的・家族的な抑圧者なのだという形はとらない。男女の愛は、自立した個人の対等の関係という、近代的価値観から見れば祝福されるべきものだから、自明のこととしてある。この自明のことである男女の愛をおびやかす抑圧に抵抗してなら、告発歌が成立するということもありうる。フォーク歌手中川五郎が「二人のラブジュース」で物議をかもし、「裁判長、愛って何ですか」と難詰したのがその好例である。二人にとって自明の愛が、警察や裁判所によって侵害されたというのだ。しかし、もはや、愛の当事者の片方を権力につながるものとして告発することは、新興音楽においてはなくなっていた。それだけではなく、権力を告発すること自体が、愛の成立を妨げることさえあるとされるに至った。井上陽水は、傘がないことによる愛の不成立を、権力を告発することより重大であると歌ったのである」(呉智英中島みゆき中山みきである」)

「自立した個人の対等な関係」が愛なら、それは(異性)愛に違いない。多くの者が気づかずに「社会関係・家族関係に従属」している。当時の近代的自我を確立した(と呉が思っている)愛は、現在、その(異性)愛の理想を失いつつある。


また、権力(マジョリティ=異性愛やってるひと)が権力を告発してどうすんだよ、とオデは思った。この本が書かれたのは1988年、中島みゆきのアルバム『寒水魚』が発売された時期である。あれからおよそ20年経った現在、「愛の不条理」を破壊すべく、失恋した(もしくは別れた)シスヘテ男性が女性にリベンジして暴行・殺人する時代だ。権力を告発するより、振った女性に復讐するほうがはるかに安易で安直だ。「愛の不条理」の前でしばらく佇み葛藤し続けるのは、いまやマイノリティの「(形而上的)特権」だろう。
確かに、異性愛の婚姻は「(実質的)特権」である。それを異性愛並みの特権として同性婚を主張するのは、将来において同性愛の堕落であるといえよう。

次のリンクは、
愛の逆説と世界への眼差し ――呉・勢古論争、あるいは中島みゆきを「語ること」をめぐって―― 
という論争である。オデは瀬古の評論を読んでないからフェアではないが、「あらかじめ喪われた」ものが「愛」であるならば、どうしてそれを「愛」と名づけられるのであろうか。中島みゆきが歌う「愛」が「(正しい)愛」ではないことが、曲のタイトル(『それは愛ではない』『たかが愛』)を見れば容易にわかるはずである。


とにかく、「鳥になって」の歌詞は、「<私>がすごく愛したあなたは、同じように<私>を愛することはありえない」という、中島みゆきという世界の神髄とも言えるだろう。この歌詞が実に効くんだな。「あたしが好きな以上にはならない! あたしがあんたに勝ってるの!」という元カノの言葉もわかる気がする(でも結局別れて男の元へと行った)。


オデが女性/男性にこだわっていると思うなかれ。オデがこだわる前に、この世は女性/男性に二分割する思想(幻想)があり、そのせいでオデはずっとイライラしている。


オデが性的欲望の対象を女性にするのと同じように、オデと別れた女性は、性的欲望の対象を男性にシフトしただけのこと、元のシスヘテ女性に戻ったことだ。「この強制異性愛社会が悪い」と責めても無駄である。一度、社会幻想が個人幻想に落とし込まれたら、その個人の幻想は責められない。それがオデの詰めの甘さだろう。あるいは、ヘーゲルが『法の哲学』で「愛は理性の解きえないとてつもない矛盾である」と注釈し、まるで絶対精神の提唱者として恥じるようである。


つづく。