4回目の報告と5回目(最終回)のお知らせ

4回目の参加者は3人。夏休みが終了したため参加者はぐっと減りました。

第7章は「教室の中の同性愛者」。掛札さんは理想的な思春期を「自己肯定と自尊(selfesteem)の感情を獲得すること」と定義していますが、これらの獲得はむしろ思春期では遅いのではないかと思います。というか、そもそも思春期っていつからいつまでなのか、という定義がすっ飛ばされています。「同性愛者は、同性愛者であることによって思春期の遅れを経験するので、二十歳をすぎてから思春期をやり直す」というような記述から、おそらくローティーンからハイティーンまでだろうと推測されます。

そのうえで、「自己肯定と自尊感情の獲得」はむしろ幼年期になされるのが「理想」であり、思春期には、セクシュアリティの違いに関係なく、一種の自意識過剰から自己否定、自己嫌悪に陥る時期なのではないかと。本章の後半では、思春期を「他者との関係をつくる方法を学ぶ期間」と仮に定義されていますが、それも思春期に学ぶにはちょっと遅すぎるのではないかとなんだか心配になります。

ミヤマは「思春期をやり直す/取り戻す」という表現や発想がどうも好きではありません。「我が人生まだまだ青春まっただなか!」とか言っちゃうシルバー世代と重なって見えるし、みずからの幼稚さを正当化すると同時に「若さ」への憧れを吐露しているようで、スタンスがねじれてグダグダな感じがします。

幼少期や思春期の自分を悲劇の主人公のように語る紋切り型がセクマイのなかにはしばしば見られますが、底意地の悪いミヤマは「ほんとかよ?」と疑ってしまいます。確かに、「後から思い起こせばあのときの自分は可哀想だった!」と気づくこともあるでしょうが、そういう気づきによって遡及的に「失われた思春期の辛く悲しい思い出」が形成されるのって、どうなのかしら。こういう疑念が先行して、素直に「それはたいへんだったね!」と共感できないのは、わたしが性根のひねくれた中年だからでしょうか。

締めの項目でようやく、教育現場で同性愛をいかに扱うかという話になり、「同性愛を否定しない」「異性愛規範を強要したり美化したりしない」「教師や親が抱く家族観を変えていくこと」などの提言がなされます。特に、性教育を「人間教育」「道徳教育」にせず、一切の価値観をはぶいた「からだに関する教育」「避妊教育」、正確な情報を提供するだけの場にすべき、という部分は大いに同意します。個人的には、この部分をもっと展開させてほしかったと思います。

第8章は「ひとつではない『快』を探す」。この章タイトルは、リュス・イリガライ『ひとつではない女の性』のもじりであり、文中にイリガライの著書からいくつか引用されています。女性自身の「快」は異性愛をゴールとする「成長神話」や男性の生理と欲望にコントロールされて貧しいものとされており、「快」の認識にはさまざまなバイアスがかかっていることをまず知っておこう、と提言します。そこから一歩進んで、たとえば異性愛バイアスにかからずにいる、あるいはそれへの抵抗と見られる具体的な性愛実践の事例などが述べられていれば、閉塞状況からの突破口として希望の光を見いだすところまでいかずとも、読後の重苦しさが少しは軽減されるだろうと思うのです。

1992年の段階でそこまで言及するのは難しかったのかもしれませんが、掛札さん自身、フェミニズムは「性」をいまだタブー視しており、レズビアンの「性」についてはなおさらそうで、レズビアン自身がレズビアンを肯定する場合にも「欲望」は表舞台にあらわれない、と批判しています。では、そのような批判をする掛札さん本人が、本書のなかでレズビアンの「性」と「欲望」をつまびらかにしているかというと、その限りではありません。

ヘテロであれレズビアンであれ、フェミニストによるレズビアンの賛美を、掛札さんは批判的にとらえています。確かに、レズビアンの存在がフェミニズムの文脈に沿ってのみ解釈され、「フェミニズムは理論であり、レズビアニズムは実践である」的な接続をされるのはレズビアン当人にとって迷惑な話だったりします。すべてのレズビアンフェミニズムの理論の裏付けのために存在しているのではありませんから。

けれども、掛札さん自身も第6章で「女と女」の関係を大絶賛しています。しかも第2章では選択的レズビアンによる女性同士の関係への賛美を痛烈に批判しておきながら、です。賛美のなかに潜む無理解や誤解を注意深く取り上げることは重要ですが、おおまかな主張は同じなのだからそこは認めあうわけにいかないのでしょうか。それとも「他者」による賛美は徹底的に許容しないという厳しいスタンスなのでしょうか。

参加者のおひとりが、「同性愛者はこんなに辛く悲しい思いをしてすごく傷ついているんだということをわかってほしいとアピールしながら、その実『あなたたちに理解できるはずなどない』という排他性をはらんでいる」というコメントをくださいました。言い得て妙だと思います。当事者性の強度が自家中毒を起こしかねない危険性については、アクティヴィズムに限らず個人対個人の関係においても注意を払っていかねばならないと思います。

今回のレポートはちょっと長くなってしまいました。以下、次回告知です。

***

第5回 デルG読書会(最終回)
2010年10月5日(火)19:00〜 @コミュニティセンターakta 飲食持ち込みOK

使うテキスト:掛札悠子『レズビアンである、ということ』(1992年、河出書房新社

読む章:カムアウト、そして、共生へ(第9章)、いま、「レズビアン」であるということ(第10章)

4回目まではなんとかギリギリでレジュメをつくっていきましたが、今度こそ挫折するんじゃないかと本気で心配です。もしもギブアップしたら当該の章をみんなで順に音読しましょう(たぶん嘘)。