いつか怒りをあらわにする日を

さいきん立て続けに、複数の若い(20代の)レズビアンから同じようなセリフを聞かされている。かのじょたち自身が横のつながりを持っているかどうかは知らないし、直接的な面識がなくても口コミやらネットやらを通じて一種の流行言説ができあがっているということなのかもわからないが、とにかく、ほぼ同時期に同じような内容の、しかもそれってちょっと問題なのでは? と思うような言説を耳にすると、なんだかかなり不穏な気持ちになってしまう。

その言説とは、次のようなものである。「『セクマイって悩んだり苦しんだりしてて可哀想』って言われるけど、そんなことない。こんなに明るくて元気で楽しくすごしているんだってことを訴えていきたい」。

えっ、だれに? って一瞬思ってしまった。『セクマイって悩んだり苦しんだりしてて可哀想』と思っているひとたちに向けてかと思ったらそうじゃなくて、セクマイのニューカマーたちに向けてだというからなおさらびっくり。応答する相手がズレてるけど、それでいいの?

そりゃ確かに「セクマイライフって楽しいよ!」という呼びかけが有効なニューカマーもいるでしょうよ。「女を好きな女なんて、世の中に自分しかいないんじゃないか」と思っている孤立したレズビアンにとっては、ほかに仲間がいることを知るのは少なからず心強いことだし。

でもね、「わたしたち、こんなに元気で明るいセクマイです!」というアピールがマイナスにはたらく可能性だって小さくはない。「ああ、暗〜く悩んでいるわたしはあの中には入っていけないわ/入ってはいけないんだわ」と気後れするひとだっているはずだ(たとえ意図的ではないとしても、こういうひとたちを排除してしまう「啓蒙」活動にどんな意味があるのだろう?)。また、当たり前のことだが、仲間ができて楽しくすごせるようになればレズビアンの生きにくさがきれいさっぱり消えてなくなるというわけではない。「エンジョイしようよ!」という呼びかけは一見前向きなようでいて、見たくないものを封印して先送りしつづけよう、辛いことを考えるのはやめようという、マジョリティ社会がこれまでおこなってきた思考停止の呼びかけそのものなのではないかと思えるのだ。

「『セクマイって悩んだり苦しんだりしてて可哀想』って言われる」のが嫌だっていうのは、わからないでもない。同情的かつ他人事扱い的な視線を向けられるのはムカつくものね。でも、「そんなことないよ! わたしたちこんなにエンジョイしてるもの!」という対抗言説には、「悩んだり苦しんだりするのはダサい」という価値判断が見て取れるから、そういう安易なイメージアップキャンペーンは空虚だと思う。せめて「誰のおかげで悩んでると思ってんだバカ!」くらい言い返してもいいと思うんだけど、角を立てずにうまく同化していきたいんだろうな、きっと。

若い世代の言うことやることにいちいち難癖をつけるのはけっして楽しくはないけれど、「角を立てずにマジョリティと同化していく」かのじょたちの戦略はどのみちうまくいかないのではないかと懸念する。というか、うまくいかないほうが身のためだとすら思う。すでに述べたように、マジョリティに同化しようとすれば、同化しきれないひとたちを取りこぼすことになるだろう、というのがひとつ。もうひとつは、そもそもマジョリティ側には「角を立てる」必要性などさらさらなく、自分たちが依拠する既存の価値観や規範を揺さぶられるリスクを負わずに、マイノリティがおとなしくつき従ってくればそれこそ好都合というもの。マイノリティが生き延びるためにはある程度マジョリティとの共存が必用だが、悩みや苦しみ、生きづらさをもたらす者に向かって異議申し立てすることなく、むしろセクマイのニューカマーたちにまで馴化を呼びかけることがエンパワメントになるはずもない。

口うるさいオバチャンみたいなことをいくら言っても、「同性を好きになること以外はいたってフツーです」というレズビアンもたくさんいる(というかそれが多数?)だろうから、そういうひとたちの大半は「エンジョイしようよ」キャンペーンで救われるのだろうし、それはそれでよいのだと思う(「仲間内」に文句を言うのもそれはそれで軽い落ち込みの原因となる)。「啓発」活動が対象とするのは要するに「軽症」のひとたちであり、ごく少数と思われる「重症」のひとたちはつねに取り残されるのだ。

空から燦々と降り注ぐ「啓発」の光が届かない「重症」のひとたちは、日陰の木の根っこを掘り返したり苔むした石をひっくり返してみたりして、自分の怒りや絶望、生きにくさがいったいなんなのかということをしつこくしつこく追究しつづける。そしてかのじょたちは光のない闇夜に、怒りと怨念の炎で我が身を焼くことによって自分の足下をわずかに照らしながら、自分以外の炎をお互いに見つけだす。それでもかのじょたちの孤独な状況は変わらないだろうけれども、ここにもあそこにも燃えている炎があるとわかれば、「孤独なのは自分ひとりだけではない、孤独に闘っている仲間がいる」と、心細さが少しばかり軽減されるのだ。

そういうわけで、8月3日(火)には、ちゃんと怒りを持つための読書会をやります。詳しくはこちらをどうぞ<結局宣伝かよ。