第1回「クィアって何? どこから来たの?」(2)
●まっとうでなければだれでもクィア
クィアをとてもうまく説明したものに、“Anything that is not straight(ストレートでない者はすべてクィア)”という表現がある。ストレートは、「真っすぐ、まっとうな」の意。とすると、クィアは「まっとうではない」ので、そういう意味では「変態」という日本語がいちばん近い。
ただし、“Anything that is not straight”という定義は、「なにがまっとうなのか?」「ストレートとはなにか?」については一切説明していない。クィアの対極はあくまでもストレート(まっとう)であって、ヘテロセクシュアル(異性愛)ではない。したがって、「異性愛がまっとうである」ということではない。なにがまっとうかについては説明しないけれども、自分たちはまっとうではないよ、というのがクィア。
クィアの対極であるストレートは、一般社会において「普通」「まっとう」と思われている性のありかたを指す。それは、一般的には異性愛で、しかも結婚している関係か、結婚していなくても同時に複数の相手と付き合ったりしない1対1の恋愛をともなう性的な関係を想定させる。だが、そういうことはクィア側は一切言明していない。ただ、自分たちはまっとうではないとだけ言う。
●クィアとは「違い」を主張する態度
つまり、クィアとは、自分はまっとうなものとは違う、という差異を示す言葉であって、どう違うかを示す言葉ではない。違いの内容に言及すると、なにがまっとうかを認めてしまうことになるから。中身の違いを言わずにただ「違う」とだけ主張するのがクィアだから、究極的には態度の問題であるといえる。クィアとは、「自分たちはまっとうじゃないよ」という態度のこと。
そこからさらにクィアは、「そもそもまっとうな性のありかたって決まってるの?」という態度をとる。「自分たちはまっとうじゃないよ。それがなにか問題でも? そもそもまっとうってなんなんですか?」と聞き返す。
したがって、クィアとは特定のグループを指す言葉ではない。ましてや、同性愛者やバイセクシュアル、トランスジェンダーやトランスセクシュアルを指す用語でもない。原理上は、「自分はまっとうじゃない」と言えばだれでもクィア。なにがまっとうかまっとうじゃないかは決めない。そんな線引きはせずに、みんな変態でいいじゃないか、という感じ。だから、クィアとはある意味、非限定的な言葉。いろんなものを含む包括的な用語概念。
●つねにふたつのベクトルのあいだにあるのがクィア
クィアの定義はこれまでにふたつ述べた。ひとつは、クィアはもともと「奇妙な」という意味を持つ、(男性)同性愛者を指す蔑称であったこと(これがルーツ)。もうひとつは、「まっとうでなければだれでもクィア」という定義。
ここにもうすでにクィアという言葉のややこしさがあらわれている。ひとつめの定義はクィアのルーツであり、ふたつめの定義はルーツを離れている。クィアという言葉を使うときに、そもそもは(男性)同性愛者という特定のグループを指すというルーツを、使う側の意識として絶対に忘れてはいけない。にもかかわらず、この言葉はそのルーツにとどまるものではなく、ルーツとほとんど無関係であるかのように、包括的、被限定的に進んでいく。
つまり、クィアとは、異なる方向に進む二つの力のあいだに常にある用語概念である。どちらか一方の定義に傾いてしまうなら、クィアという用語を使う必要性はあまりない。(男性)同性愛者を性的に奇妙だと示してきたルーツを完全に忘れてしまったら、クィアではなくただの「差」「違い」と言えばいいのであって、クィアという言葉を使う意味がない。けれども、そのルーツから一歩も動かないのであれば、やはりクィアという言葉を使う必要はない。ゲイ、レズビアン、ヘテロセクシュアル、バイセクシュアル、トランスなど、セクシュアリティの違いをあらわす用語を使えばいいのであって、クィアと呼ぶ必要はない。
このように、クィアの定義は定義といえないくらい漠然としている。というよりも、あえて定義するなら、「定義できない二面性を持っている」というのがクィアの定義である。
<つづく>