「アシュリー事件」と児童買春の共通点について
つい先日、旧優生保護法:強制不妊手術9歳にも 宮城、未成年半数超という記事があったが、フェミニストではない人は気がつかなかったかもしれない。これは法律の名前も内容も変わったからもう過去のことだ、と思ってはいけない。
以前から気になっていた「アシュリー事件」だが、
2004年、重度重複障害児のアシュリー・X(当時6歳)
“アシュリー療法”とは、子宮摘出、乳房芽摘出、
1つは、在宅介護のためである。
もう1つは、アシュリー自身のためだ。アシュリーは「寝たきり」
重度障害児(者)の不妊手術は、優生思想の歴史を踏まえて、米国では禁止されている。障害児に不妊手術をする前に司法省に報告して手術の許可をとらねばならない。
この「事件」については、2006年の秋、シアトルこども病院の担当医ダニエル・ガンサーとダグラス・ディグマが米国小児科学会誌の論文で報告され、一部の専門家と障害者支援や権利擁護の関係者の間から批判の声があがった。ところが、その批判に応答する形で2007年元旦の深夜に両親がブログを立ち上げたことから、ロサンジェルス・タイムズを筆頭にメディアが次々と取り上げ、世界中で激しい論争が巻き起こった。まさに賛否両論だった。
要するに、「事件」は事後報告だった。アシュリーの身体はもう元に戻らないのだ。
同年5月、ワシントン州の障害者の人権擁護団体Washington Protection and Advocacy System(旧称WPAS)が、1月6日から開始した調査を報告書にまとめ、アシュリーに行われた子宮摘出は違法であると結論付け、8日にシアトルこども病院はWPASと合同で記者会見を開き、公式に子宮摘出の違法性を認めた。
その後、事態は沈静化したが、9月末にはアシュリーのケースを担当し2006年の論文の主著者であった内分泌医のガンサーが自宅で自殺するという衝撃的な事件があった。
アシュリーの父親は身元は明かしていないが、とあるIT関連の大企業の役員であり、名前を明かしたら大変な騒ぎになると本人が懸念している。 “アシュリー療法” の理由と目的を、主治医論文は「在宅介護のため」と主張し、父親は「本人のQOLのため」と主張し、互いに食い違っている。ついでに父親は「(アシュリーの子宮は)基本は『用がない』それに『グロテスク』」とまで言っている。
そもそも、アシュリーの父親と2人の主治医たちの関係は、なにか様子がおかしい。父親が自分の“斬新な”アイディアを話しても主治医がまともに受け入れており、主治医論文は偽装と隠ぺいで溢れている。もしこれが一般の父親なら、そのアイディアを話しただけで診察室から追い出されるのでは、もしくは門前払いではないだろうか。
それに通常の倫理委とは別に「特別な」倫理委をセッティングしてもらい、直接パワーポイントを使って自説を解説し、医師らを説得する場を設けてもらっている。異例の待遇と呼べる。この父親、本当に大物らしい。
ここから、著者の児玉さんは「無益な治療」に通底する「死の自己決定権」や「尊厳死」「臓器移植」の方へ向かうが、私は「下種の勘繰り」をする。
子宮摘出は、
この事件についても児玉さんも、「月経痛」というものにまったく言及していないのが気になった。
私が中学生のとき、月経痛が重いクラスメイトがいて、月経になると目眩がして倒れそうになるを見たことがある。私は月経痛はそんなにひどくはなかったが(腰痛と下痢くらい)、月経痛は本当に人それぞれである。
いまはPMS(Premenstrual Syndrome:月経前症候群)と呼ばれており、ひどいケースになると万引きをしたり、海外では放火したりする症状があらわれるという。
健常者の月経の症状がこれなので、知的障害児や重度重複障害児の月経はどれくらいになるのだろうか。
かつて私を担当していたヘルパーさんは、障害児の母親だった。子どもが娘さんだと聞き、「お嬢さん、月経痛はあるの?」と尋ねると、「もう喚くわ暴れるわで大変です」と笑って答える。毎月の経血処理だけでなく、身体が不自由でしかも暴れるから、清拭やオムツの交換はさぞかし手こずっただろうなあ、と想像した。
話は変わって、アシュリーのことである。まず、アシュリーの顔写真は、
アシュリーの両親は「ピロウ・エンジェル(枕の天使ちゃん)」とあだ名をつけていたが、腹黒い私はそこで、「…ん?」となった。
アシュリーはいつも寝たきりなので、枕とお友だちである。「ピロウ・エンジェル」という言葉はかなりの赤ちゃん扱いらしいのだが、そのニュアンスは私にはまったくわからない。むしろ「ピロウ・トーク」と同じくらいにエロスな感じがするぞ。
それに加えて、「プチ・エンジェル事件」という謎事件を連想してしまう(興味のあるかたはご自分で検索してください)。
「プチ・エンジェル」は児童買春の店であり、経営者は謎の自殺を遂げた(自殺に見せかけた他殺?)。経営者の家族たちも続々と不審死している。事件の謎を追っていたフリーライターも殺されてしまい、もう誰も事件の詳細を探ることは恐ろしくてできないのだ。その顧客名簿には、ロリコンでお金持ち、要するに政治家や弁護士、
児童買春といえば、腹黒い私は児童ポルノをついつい連想してしまう。児童ポルノの加害者は親、というのをどこかで聞いた。貧困な親が金づるのために我が娘を金で売ってしまうのだろう。
アシュリーの父親は社会的に成功しているらしい。親が貧乏でも金持ちでも、趣味と道楽のために我が娘を不特定多数の者に凌辱されるのが、さらにまたマニアックで変態的で気持ちが悪い。
子どもが障害者でなくても、子は親の所有物であることは全世界共通らしい。アシュリーの父親は、「アシュリー療法」
「成長抑制のために“アシュリー療法”を」というところまで本を読んで、ダーティマインドな私は邪推し、「あっ」と確信したのだった。
都市伝説でよくある、インド奥地の「だるま」 をご存じだろうか。観光客の女性を拉致し、手足を切り落とし逃げないようにして、男たちに公開セックスをするのだそうだ。私が聞いた「だるま」の話は、ふだんは不動産会社の営業マンであり、観光客がなかなか足を踏み入れないマニアックな国や地域を探して観光するのが趣味で、その営業マンはインド奥地の見世物小屋の「だるま」が日本人女性だとわかった。虚ろな目をしてセックスする彼女は、自分を日本人観光客だと悟り、彼の目をカッと見て「大使館(を呼んで私を助けて)!!!!」と大声で叫んだのだった…。
私の邪推だけだったらまだしも、現実のアシュリーが性の玩具として今もシアトルの片隅に生きていたとしたら…確かに、重度障害者を死に至らしめることも惨いが、性の玩具として生き続けているとしたら、しかも両親が娘を性的に支配しているとしたら、まさに生き地獄、実在の「だるま」である。…でもまあ、実在はしないけども。
こんなバカバカしい妄想&邪推をして、児玉さん本当に本当にごめんなさい。申し訳ありません。謝罪します。お詫びとして、児玉さんの文章から引用します。私がこの文章を読んでグッときたので。
本人利益と親の利益の混同や、
より侵襲度の低い選択肢の検討の不在など、 これまで多くの人が指摘してきた倫理問題も指摘しているが、 (エイミー・)タンらの論文の眼目は、「仮に、自己決定能力と人格(パーソン) とをエージェンシーと呼び、 その両者を持ち合わせている存在をエージェンシーであるとしたら 、“アシュリー療法”は果たして正当化されるのか」との問いを立て、哲学的な検証を試みたことだろう。“ アシュリー療法”正当化の基盤にある、 知的機能の低いアシュリーにはその他の人と同じ扱いをする必要は ない、との論理を問うたのだ。
カントを読んだこともなければ基本的な知識すらない丸腰の素人が、読んだままの理解で内容をまとめてみるという、 大胆な行ないを許してもらえるならば、 タンらの主張するところは主として二点。まず、 アシュリーがエージェントでなく、 したがって個人として扱われないとしても、 一方で家族という単位もエージェントの集合に過ぎずエージェント でないアシュリーにも同じ姿勢で臨んで然りということになる、 というもの。しかし、 医師らの正当化は家族全体の利益が本人の利益と分かちがたいと言 っているだけなので、 この批判はポイントがずれているかもしれない。
しかし次の論点は、アシュリーではなく、医師のモラル・エージェントとしての義務という観点からの考察であり、 私には非常に興味深かった。タンらはカントの「道徳上の義務」を参照しながら、おおむね以下のように論じている。
我々がモラル・エージェントとして善行を求められる「道徳上の義務」とは、 その善行の対象がエージェントであろうとノン・ エージェントであろうと、 それに関わりなく果たすべき義務である。それは、その義務が、 われわれが他者に対してではなく自分自身に対して負っている義務 であり、われわれが自分自身に負っている義務とは、 ヒューマニティすなわち道徳的なエージェントとして行動できる能 力を保つことだからである。その義務を負うがゆえに、 われわれは例え自分とノン・ エージェントしかいない状況下に置かれたとしても、 道徳的にふるまい、 自分のヒューマニティを損なわないよう行動しなければならない。 したがって患者がノン・エージェントであろうと、 エージェントである患者にしてはならないことはノン・ エージェントの患者にもしないという義務を、 医師はその患者に対してではなく自分自身に対して負っているので ある。 (児玉真美『アシュリー事件 メディカル・コントロールと新・優生思想の時代』生活書院、
2011年)
最後に。児玉真美さんは、
「どうせ」は重度重複障害者にとってセーフガードにならず、
ツイッターのハッシュタグ「#metoo」で、女優さんたちが性的虐待やセクハラ・パワハラを暴き、性的被害者である自分を告白しているが、自分より弱い者、抵抗できない者に、性的な欲望を押しつけて沈黙しておくように仕向けているのも、まったく同じ構造である。
最後の最後は、重度重複障害児の施設「びわこ学園」に長年勤めていた医師が書いた文章を引用する。
1981年、国際障害者年にあたって、「全国重症心身障碍児(者)を守る会」は、「親の憲章」を作成し、守る会の三原則を決めた。
それは、「決して争ってはいけない、争いの中に弱いものの生きる場はない」「親個人がいかなる主義主張があっても重症児運動に参加する者は党派を超えること」「最も弱いものを一人ももれなく守る」であり、今日まで大切にして運動し事業を行っている。
(高谷清『重い障害を生きるということ』2011年、岩波新書)
【2018/02/02 19:31追記】
以前私が付き合っていた25歳年上の彼女のお母さんがいるのだが、旦那に死に別れて妹の家に同居していた。彼女は長女で、妹と14歳離れており、妹が結婚するときにお母さんも一緒について行ったという。
お母さんは当時70歳を過ぎており、大腿骨骨折をきっかけに入院し、そのうち徐々に衰弱していった。聞けば、「栄養チューブを自分で断った」という。素朴な尊厳死、平穏死である。お母さんが死んだとき、妹は思わずお母さんに抱きつき、「まだ温かかった」。死んだお母さんの顔はまるで眠っているように見えた。
お母さんの死は、「女三界に家なし」のことわざ通りだと思った。伴侶がいなくなり、孤独になってもまだ死なない。女性の長生きは幸福か不幸か、微妙である。
「ファルスの世界」と「少女の世界」 ~クイア文学私論~
新年あけましておめでとうございます。
長年ネットの片隅でブログをシコシコ書いてるが、新年の挨拶は初めてだ。今日は「ご近所神社参拝ラリー」と称して自宅を三角形で結ぶ三つの神社に車椅子で移動した。移動は簡単だが、神社の賽銭箱には手すりなしの階段があり、こわごわ登ってこわごわ降りた。今年初のスリラーである。転倒して頭を打ったら大変だからな。
1:さて、本題に入る。
ニコ生で『少女終末旅行』の一挙放送を鑑賞した。冬の軍服のようなものを着た少女が二人、荷物が入るバイクに乗って、人がほとんどいない街というか廃墟をゆく物語である。一人は、背が高くて頭のネジが外れたユーリ、もう一人は賢くてしっかり者のチト。この旅行がいつ始まったのか、どこに目標があるのか、行先はあるかないかわからない。ただストーリーでは、二人が共通のおじいさんと住んでおり、おじいさんが死んでからこの旅が始まったと推測できる。この物語の設定は、戦争が起こった後だ。したがって、どこにも生きてる人がいない(後述するが、「戦争のない世界」とは「ファルス(ペニス)がない世界」である)。
チトとユーリは、食糧と燃料を求めて移動する。見つかるのは軍事用食糧ばかり。今ある燃料や食糧がなくなったら死活問題だが、二人は楽天的に旅行する。その会話でユーリが「絶望ともっと仲良くなれるよ」との科白がある。印象的な科白の一つだ。
二人の会話はボケとツッコミのように観客をクスリとさせ、全体的に明るい。絵のタッチもまんまるなまんじゅう顔をしたコミカルなものだ。延々と外を移動するから雨や雪が降り、吹きさらしの風の下で眠る。彼女たちの寝床はいつも空の下だ。これほど悲惨な設定はないと思うが、それで絶望で悩んだり自殺したりする気配はない。少女たちは先へ進む。ある意味平和で平穏である。
二人の少女の物語であり、ストーリーのなかには温水プールや川に入って水浴びをするという、「ありきたりな百合」要素が入ったものだが、それでもオデは二人の関係性にちょっと萌えた。その理由を述べようと思う。
まず、幸か不幸か人がいない。登場するのはミヤザキかイシグロ(名前失念。確か4つの音だったと思う)という男性(地図を作製するのが生き甲斐)、イシイという女性(飛行機を一人で設計して向こうの都市へと向かう)、ヌコという変な生き物(弾薬を喰う)のみである。それらと出会って一度合流するが、間もなく別れる。二人は出会った人びとに対して「一緒に旅をしよう」と執着の台詞を言わない。淡々と出会い淡々と別れる。「君子の交わりは淡きこと水の如し」である。
では、ユーリとチトに執着はないのか? 『銀河鉄道の夜』のカンパネルラとジョバンニのように(読んだことないが)、もしかして二人は一人ではないのか、と思った。意見が対立して深刻な別れもないし、葛藤もない。二人はまだ見ぬ世界をあらかじめ受け入れて驚かない。なるほどこれならシリーズ化できる。延々と旅が続けられる。「起承転結」の「転」と「結」がない。「少女の世界」である。
2:「山に登る」物語は「ファルスの世界」
前回は『メイドインアビス』を紹介した。シーズン2があるらしいが、果たしてどんな結末を迎えるかについてオデは興味がまったくない。それより何より設定が「山に登る」ではなく「穴に降りていく」ことにいたく興味を持った。「山」とはペニス、ファルスのメタファーであるからだ。「穴」のメタファーはヷジャイナくらいのものだろうか。
ファルスのメタファーは「山」に限らない。現実社会の「昇進」もそうだし、昇進と連動した「肩書」もそうだ。「昇進」すれば「肩書」も高くなるし、男性社会のマウンティングもやりやすくなる。マウンティングとは、どちらが勝つか負けるかの世界、「戦争がある世界」である(先述した「ファルスがない世界」は「少女の世界」である)。「男」はどんどん強くなって廻り(女)を支配する、ファルスを象徴する物語なのだ。
ここで『ナイツ&マジック』の話を入れよう。主人公はプラモオタクで優秀なSEであり、交通事故で突然の死を迎える。が、生まれ変わった主人公は魔法が使える別世界におり、魔法を鍛錬する学校に入る。ファンタジーの世界でも「先輩/後輩」の序列があると気づいて、オデは初回で見るのを止めた。「学校」もまた「ファルスの世界」である。
3:あらゆる世界は「ファルスの世界」
勘のいい読者ならもう気づくはずだ。「ファルスの世界」に対して「少女の世界」がある。「ファルスの世界」の物語は「起承転結(=勝敗、戦争、競争の世界)」があるが、「少女の世界」は、ない。そこが面白い。
オデはクイア理論を正式には学んでいないし、フェミニズム映画論や文学も齧った程度だが、「起承転結はペニスが勃起して射精するまでの物語」とどこかで読んだか聞いたか印象に残っている。言語の発達は比較的男子より女子が早いが、高校の現国くらいになると女子はもう理解できずに成績が低下する。その理由は「ファルスの世界」を生理的に学んでいないからである。宮台真司曰く「男には作法がある」とのことで、言いかえれば「手続き」くらいかな? 会社ごっこやお役所ごっこで「書類」「署名」「印鑑」「証明書」(「肩書」に入るが「名刺」交換も同列)などの回りくどいことばかり。これって「前戯」みたいなもんよ? あーつまんね。
探偵ものか推理ものと比べよう。
ある事件が起こり、手掛かりの伏線などが入るが、結末は「誰が犯人なのか?」のワンパターンである。火サスや土ワイをギャグした「主人公たちが崖の上で延々と科白を言い続ける」シーンもかなり間抜けであり、それは「射精したら後はグダグダになる」ことが分かっているからだ。男の生理はつまらない。つまらないからわからない。気持ちよくない。オデが推理小説を読まない理由はこれである。ダサくてワンパターンでつまらない。でも不思議と現国はできたのよヲホホ。
4:「ファルスの世界」の限界とは?
ところが、最近(オデにとっての)新しいサスペンス小説を発見した。桜木紫乃『硝子の葦』である。
ストーリーが超どんでん返しな上、語り手の男性はまるで太鼓持ちだ。ハードボイルドな小説と言えるが、男性が主人公の場合、探偵や刑事などの職業上のハードボイルドにすぎず、私生活は情けなくだらしないかもしれないが、とりあえず職業上はかっこいいらしい。だが、この小説の主人公はホテル経営者の愛人である。それなのにかっこいい!! 濡れる!!
あ。それと、ぼちぼち「この小説が濡れる!」というカテゴリも作ろうかしらね。
『メイドインアビス』を観てわたし(たち)が思うこと
『メイドインアビス』を観た所感(初見感想)などをメモ。なおこれはアビスを読んだことも観たこともない人たちに向けたものである。このエントリを読んで興味を持った人は、AmazonプライムやAbemaTVでご視聴されたし。
1:深淵は「山」の負のメタファー
アビスは「人類最後の秘境と呼ばれる、未だ底知れぬ巨大な縦穴」という設定であり、これは「山/頂上」の反対の(負の)メタファーかもしれない。人々は山に憧れ、過去に遭難したにもかかわらず、その山に登ることが多い。「なぜ山に登るのか?」と問われれば「そこに山があるから」と哲学的な理由があり、まるで禅問答みたいだ。高いところや光などを神と重ね、決して山に「毒」や「呪い」があるとは思っていない。山にあるのは「畏怖」であり、人々の「征服欲」であり、より高い山には「死の危険」がある。生還すれば探検家としての栄光はあるが、失敗すれば生きて帰ることはできない。
反対にアビスは「穴」であり「深淵」である。山と同じように人々はアビスに惹かれるが、下層へ行くと同時に段階的に(深界一層~七層、深界極点)探窟家への注意喚起をする。具体的に、上昇負荷は重い吐き気と頭痛、末端の痺れ(深界二層 : 誘いの森)、二層に加え、平衡感覚に異常をきたし、幻覚や幻聴(深界三層 : 大断層)、全身に走る激痛と、穴という穴からの流血(深界四層 : 巨人の盃)、全感覚の喪失と、それに伴う意識混濁、自傷行為(深界五層 : なきがらの海)、人間性の喪失もしくは死(深界六層 : 還らずの都)、そして確実な死(深界七層 : 最果ての渦)。(ウィキペディア参照)
2:主人公たちの紹介
主人公は孤児院にいるリコと、深界一層で出会ったロボットのレグ。リコの母親ライザは白笛と呼ばれる探掘家で、遺物に紛れてライザが書いたと思われる手紙をリコは見つける。二人はアビスに入って母親を探すが、それまでの経過をアニメで展開する。探掘家は、青笛<赤笛<黒笛<白笛というふうに色でヒエラルキーを示し、白笛と呼ばれる者は数人しかいない。
ロボットのレグは人間と違って深界に深く潜っても変化は見られないし、リコを助ける便利な道具もある(両腕が伸縮可能、手のひらには火葬砲という強力な武器)。だが深界四層でタマウガチの襲撃によってリコの左手が猛毒の針に刺されてしまい、意識を失ったリコは死線を彷徨う。そこへ「なれ果て」と名乗るナナチが声をかけ、猛毒の処理の指示を出す。彼女が回復するまでの話はナナチとミーティの出会いから今に至るまでのエピソードで、オデは年甲斐もなくなぜか号泣した。元浮浪児のナナチとミーティは、白笛ボンドルドの上昇負荷実験のモルモットにされたのである。
3:ナナチとミーティ
さて、アニメの設定やあらすじを書いた。ここで本題に入る。ナナチとミーティは深界六層からの上昇負荷実験で人間性の喪失に遭う。ナナチは半分ウサギ半分人間のふさふさした可愛らしいフォルムになるが、ミーティは化け物のようになり、コミュニケ―ションがとれなくなった。いわばミーティは身体障害と知的障害を伴った<異形の者>となったのだ。
ミーティが<異形の者>となったのは、それだけではない。いくら傷つけても「死なない/殺せない」者になってしまったのである。ボンドルドの実験報告を聞いたナナチは悩み続けるが、レグの火葬砲を見て、「ミーティを殺してほしい」と頼む。「オレが死んだ後でも、ミーティは永遠のひとりぼっちだからさ。ミーティの魂は地上に返してもらいたい」。かくしてレグはミーティに向けて火葬砲を撃つ。オデはもう涙滂沱である。
4:これは「やまゆり学園連続殺傷事件」を基にしたエピソードではないか?
リコは無事に回復した。「あれ? ここにもう一人いたよね?」と彼女は言うが、レグもナナチも口を噤む。ナナチの住処には、過去にナナチがミーティした数々の毒の実験の後(棚の瓶たち)があったが、リコは実験のおかげで生還した。意識不明になったリコが、ミーティに会った夢の話をした。ミーティはもうここにはいないが、生きた証があるのではないのか。
このエピソードは、「やまゆり学園連続殺傷事件」を基にしているのではないか。我田引水な解釈だと我ながら思うが、ナナチハウスがある深界四層は、ひいて言えばアビスの奈落の底は、精神障害者や知的障害者、重度身体障害者たちの隔離施設なのではないか。ミーティは障害当事者であり、ナナチは彼女の友人であり、思い出を持った福祉職員である。
やまゆり学園の被害者たちは、神奈川県警が氏名の公表を控えており、被害者遺族もマスコミも異議を唱えなかった。「障害者の生は意味がない。不幸しか生まない」という犯人の主張も、「障害者は隔離すべし」との政策も、「障害者が生きた証は残さない」という遺族やマスコミも、全ては「人権侵害」の延長線である。医療・福祉的パターナリズムと人道主義は決して交わらない。「障害者はかわいそうな人たち」だとの発想こそが不幸な発想である。同情は見下しの感情だ。
現在、漫画は全5巻、アニメは13話だ。リコとライザの遭遇もまだだし、レグの「なぜ自分はロボットなのか?」という謎は解明されていない。ストーリー展開は期待するが、破綻しないよう祈っている。アニメが再開したら、またオデは書くかもしれない。
ホピ族の予言と衆議院選挙の話
私はもうすぐ五十路の女で、独身、恋人なし。
これは今まで誰にも云ったことはないが、
かつて健体者だった私はオープンリーなクイアだった。ところが、
中途障害者の私でさえ不自由で窮屈だと感じたというのに、
高校時代の友人で同人誌を書いていた中心人物が、「
誰だって肉親や友人同僚の死は傷ましくて悲しいし、
その同人誌で私も二、三度投稿したが、同じ冊子で「
さきほど読んだ倉橋由美子全作品集8巻の「作品ノート」で、「『
私がここで書こうとしているのは、
動かないのは不自由で不便だが、
私は半身の神経を失ったが、まだ健全な部分が残っている。
片方が使い物にならなくなれば、もう片方だけで使うほかない。
生き物の身体は、ちょうどまっぷたつになる。プラトンの『饗宴』
世の中には二元論というものがある。天と地、善と悪、光と闇、
もしかしたら、この世はバランスを失った世界かもしれない。
『コヤニスカッツィ/平衡を失った世界(1982)』は、
ホピ族の預言は当たっていると私は思う。
「現在の世界は、まず白い肌の人間の文明が栄える。
次第に彼らはおごり高ぶり、 まるで地上の支配者になったように振舞う。 白い兄弟は馬に曳かれる車に乗ってやってきて、 ホピ族が幸せに暮らしている土地を侵略する。その後、大地は、 馬に曳かれない車の車輪の声で満たされるだろう。そして、 牛のような姿で大きな角を生やした獣が多数現れるだろう。次に、 白い肌の人間は『空の道』を作り、空中に『くもの巣』をはり、 陸上にも『鉄の蛇』が走る無数の線を張りめぐらす。やがて、『 第一の炎の輪』の中での戦いが始まり、しばらくすると、『 第二の炎の輪』の中でも戦う。そのとき白い兄弟たちは恐ろしい『 ひょうたんの灰』を発明する。この灰は川を煮えたぎらせ、 黒い雨を降らせ、不治の奇病をはやらせ、大地を焼き尽くして、 その後何年も草一本生えないようにする。そして白い肌の人間たちは、空のかなたで見つめるタイオワ( グレート・スピリット)の怒りと、警告に気づかず、 ますますおごり高ぶって、とうとう『月にはしごをかける』 までになる。この段階でタイオワは『第四の世界(ホピ族では、 この世界を第四の世界と呼び、今まで第一、第二、 第三の世界は滅んでいるという)』を滅ぼすことを決意する。 その時期は、『空に大きな家を作るとき』である。そして、 地上の天国で、大きな墜落で落ちる住居のことを聞くだろう。 そしてそれは青い星として現れるだろう。この後すぐに、 私の民の儀式は中止される」
これを読んで、思い当たることはないだろうか。
さあみなさん。みなさんにできることは、各政党サイトをじっくり読んで、選挙に行くしかないのですよ!
「かわいそうな弱者」か? 「権利を主張するプロクレーマー」か?
昨日の午前中、銀行ATMに行くと、もう人が並んでいた。オデは車椅子で並んでいた。あと二人くらい並んでいたし、月頭の月曜日じゃ一人につきけっこうな時間がかかると思っていたオデは、そのまま車椅子に座っていた。オデの前の人がATMに向かっていき、オデは立って杖の用意をして、階段を上がりかけた。
そのとき、図々しいおっさんが横入りしてきた。
「おい、並んでいるんだぞ!」
とオデの後ろで怒鳴る声がする。
「ああ、すみません」
と横入りのおっさんが列を譲る。図々しいが気の弱いおっさんだ。階段を上がっていたオデは余裕がなくて誰の顔も見えず、状況も見えなかった。もしかするとオデの後ろにはもはや列が続いていて、横入りのおっさんはオデの前ではなく、列のド真ん前に横入りしたのだと思った。
客観的な状況は無視して、オデの勝手な想像をしよう。横入りしたおっさんは、車椅子の存在を「モノ」としか見なかったのだと思う。もし並んでいたのが「健常者」なら、横入りなんて言語道断である。それが、障害者のオデが列に間を開けて、その隙間に図々しいおっさんが横入りしてきたのだ。おっさんは完全にオデを舐め腐っている。
で、バニラ・エア炎上である。
鹿児島県奄美市の奄美空港で今月5日、格安航空会社(LCC)バニラ・エア(本社・成田空港)の関西空港行きの便を利用した半身不随で車いすの男性が、階段式のタラップを腕の力で自力で上らされる事態になっていたことがわかった。バニラ・エアは「不快にさせた」と謝罪。車いすでも搭乗できるように設備を整える。
男性は大阪府豊中市のバリアフリー研究所代表、木島英登(ひでとう)さん(44)。高校時代にラグビーの練習中に脊椎(せきつい)を損傷し、車いすで生活している。木島さんは6月3日に知人5人との旅行のため、車いすで関空に向かった。木島さんとバニラ・エアによると、搭乗便はジェット機で、関空には搭乗ブリッジがあるが、奄美空港では降機がタラップになるとして、木島さんは関空の搭乗カウンターでタラップの写真を見せられ、「歩けない人は乗れない」と言われた。木島さんは「同行者の手助けで上り下りする」と伝え、奄美では同行者が車いすの木島さんを担いで、タラップを下りた。
同5日、今度は関空行きの便に搭乗する際、バニラ・エアから業務委託されている空港職員に「往路で車いすを担いで(タラップを)下りたのは(同社の規則)違反だった」と言われた。その後、「同行者の手伝いのもと、自力で階段昇降をできるなら搭乗できる」と説明された。
同行者が往路と同様に車いすごと担ごうとしたが、空港職員が制止。木島さんは車いすを降り、階段を背にして17段のタラップの一番下の段に座り、腕の力を使って一段ずつずり上がった。空港職員が「それもだめです」と言ったが、3~4分かけて上り切ったという。
木島さんは旅行好きで158カ国を訪れ、多くの空港を利用してきたが、連絡なく車いすで行ったり、施設の整っていない空港だったりしても「歩けないことを理由に搭乗を拒否されることはなかった」と話す。
バニラ・エアはANAホールディングスの傘下で、国内線と国際線各7路線で運航する。奄美空港だけ車いすを持ち上げる施設や階段昇降機がなく、車いすを担いだり、おんぶしたりして上り下りするのは危険なので同社の規則で認めていなかったという。バニラ・エアは奄美空港でアシストストレッチャー(座った状態で運ぶ担架)を14日から使用、階段昇降機も29日から導入する。
同社の松原玲人(あきひと)人事・総務部長は「やり取りする中でお客様が自力で上ることになり、職員は見守るしかなかった。こんな形での搭乗はやるべきでなく、本意ではなかった」とし、同社は木島さんに謝罪。木島さんは「車いすでも心配なく利用できるようにしてほしい」と話している。(永井啓吾)
この記事が配信されたのは6月28日。オデはこの記事を読んで単純に「ひでえ」と思ったが、ほかの人々は、最初は「障害者かわいそう」「バニラ・エアひどい」と思い、その訴えた障害者が「荒っぽい」方法で今回の騒動を起こし、「バリアフリー研究所」代表としてコンサルタントや講演活動を行っていると知ると、今度は「プロクレーマーかよ」「障害者ビジネスやってるとはけしからん!」と木島さんをバッシングし始めたのである。
たとえば、こんな感じ。
バリアフリー研究所代表 木島英登(44)
— ボレアス (@B0reus) 2017年6月28日
·下半身動かないで車椅子なのに連絡せずに飛行機に乗ろうとする
·車椅子であると事前に伝えずに搭乗しようとし、歩いて登れないなら搭乗できないと言われたにも関わらず、タラップを這い上がる
·バニラエアに謝罪させる
カスか? pic.twitter.com/5RSY94V8kF
バニラ・エアの件、文句言ってる障害者側が
— どーも僕です。(どもぼく) (@domoboku) 2017年6月28日
①過去にJALでもトラブル
②当時は訴訟をチラつかせ謝罪させ
③その時も「事前連絡」について確認され
④連絡の重要性は認識してたはずの
⑤元電通マンで
⑥参考価格20万円で講演会をしている
…って情報を踏まえると印象変わるなー(棒) pic.twitter.com/Ped9K7uFOB
車いす搭乗でバニラ・エアに謝罪させた木島英登さん、「差別の当たり屋」疑惑が浮上して批判殺到 https://t.co/nQI3VgcFqc #木島英登 #バリアフリー研究所 #車いす #まとめ pic.twitter.com/PxgBRWwYI9
— モナニュース (@mnnws) 2017年6月28日
車いす客にタラップはい上がらせる バニラ・エアが謝罪https://t.co/ZO6ueMS9MO
— DragonTyrant (@vulgar_222) 2017年6月27日
『男性は大阪府豊中市のバリアフリー研究所代表、木島英登(ひでとう)さん』
たぶんこの方、不満を見せつけるためにわざと腕で登ったな。
半分はバニラエア側にムカついた嫌がらせだ。
ね? 手のひらくるっくるでしょ? 情報に泳がされてる感じ。ていうか「障害者=健気で一生懸命生きている可哀想な弱者」には感動も同情もするが、「権利を主張して不備を抗議する者」になったら、なぜ叩くの? 確かに彼は航空会社のルールを破ったが、それは「(会社都合の)不当なルール」であって、ルールそのものを破らないとバニラ・エアの改善はなかったのである。
1977年、「川崎バス闘争」をご存じだろうか?
このバス闘争は、「全国青い芝の会」が起こした。路線バスは公共交通機関であり、車椅子の障害者に介助者がついて車椅子からバスの座席に移乗させないと危険だからと拒否したのである。動画を見るとわかるが、障害者が道路に寝そべってバスの乗務員たちが罵声を浴び、バスに乗り込もうとした障害者を引きずりおろすという、今になってみるととんでもない闘争である。障害者はここまでしないと外出できなかった。がしかし、バスはそれでも障害者を拒否したのである。今から40年前の出来事だ。
1994年「ハートビル法」が、2006年「バリアフリー新法」が制定し、2016年には「障害者差別禁止法」が制定された。
いくら法が制定されても、人々の意識はあまり変わらない。今回の「バニラ・エア炎上事件」がそうであり、オデの身近な「ATM横入り事件」もそうだ。健常者で異性愛者で日本人のマジョリティである「無徴」な人々は、それ以外の人々、障害者、非異性愛者、外国人などマイノリティの「有徴」な人々を「他者」とみなす。「他者とは何か?」を考えようともしない。「他者」に無知無関心で、興味を持たない。
前述した「青い芝の会」を撮影した原一男監督は、ドキュメンタリー映画を製作したきっかけをこう語る。
「ある日、電車のなかに車椅子の障害者を一人でいさせて、僕はそこから離れて見ていました。乗客は全員固まったまま。それで映画を作ろうと思いました」
『さようならCP』は、「障害者を見世物にしている」と批判されたが、彼は障害者を見る人々にしつこくインタビューをしている。曰く、「可哀想だと思って」「気の毒だ」である。
「無徴」な人々は「有徴」な人々を「見て見ないふり」である。これは今も変わらない。所沢の駅はコンパクトだけれども路線が複雑で、ある日オデは白状を持ってウロウロしている人を見て、「何かお手伝いをしましょうか?」と言った。その人は行きたい駅を言い、オデはその路線を伝えた。「無徴」な人々は困っている人を見ても無視である。そもそも視野に入ってこない。
で、オデの感想だが、木島さんの抗議は正当なものであり、バニラ・エアも謝罪してすぐにストレッチャーや階段昇降機を準備した。LCCといっても、障害者の搭乗のコストを見越した上で周到な準備をするのがもっとも理想的だと思う。
<喪>とクイア
昨日参加した「<喪>とクイア」では、オデと研究者たちが完全に違う方向を見ていたことがやっとわかった。ここは大学だし、「アメリカでエイズ危機(医療従事者たちがゲイを含むハイリスク・グループを勝手に決めて治療拒否し、エイズに罹患したゲイたちの多くが死んだこと)が起こったこと」の英語の参考文献もあるし、日本のLGBTにおけるメディアが「海の向こうで起こったエイズ危機」を完全に忘れて「同性婚」ばかり関心があって報道していることにも腹立たしい思いがある。そんなおめでたいことやってる場合じゃないだろう! もしも日本で新たにエイズに似たような性感染症が蔓延したら、「同性婚」を返上するだけではなく、さらに深刻なゲイ・バッシングが起こるかもしれないし、30年前のアメリカの起こした過ちから日本は何も学んでいない。そのバッシングはメディアを通して増幅する。現在の日本の「同性婚」が当事者に“お祭り感”を増幅するように。
性的マイノリティ、LGBTとメディアが表記して報道するようには、現実のLGBTは連帯してなどいない。民間企業は「LGBTサービス商品(主に生命保険など)」を展開させて、当事者の財布のヒモを緩めようとするが、レズビアンとゲイは経済的格差があり、性的マイノリティの重圧は(比較的社会的地位が高い)ゲイのほうが強い。トランスジェンダーは去勢/避妊手術をしないと本人の望む戸籍上の性別に変更されないという「人権侵害」が起こっているし、そもそも「性同一性障害」グループと「トランスジェンダー」グループとの決定的な分断がある。そのようななか、異性のパートナーがいるバイセクシュアルは「卑怯」と言われ、性的マイノリティのコミュニティのなかでさえカムアウトできないでいる。カムアウトしたところで、「あの人、本当にバイセクシュアルなの?」と陰口を言われる。
で、日本のクイアたちが「くたばれ家父長制!」「戸籍は廃止しろ!」とパレードでプラカード揚げてるが、当の性的マイノリティのパレード参加者たちはプラカード見てポカンとしているし、これは完全スルーだなきっと。
なんだよ、LGBTって言葉だけが存在する「非実在集団」じゃねーのかよ? 実際にはバラバラで、解決すべき喫緊な課題がそれぞれ別々にあり、すぐ隣の深刻で喫緊な課題は互いに無視してるんじゃねーか。「LGBT」は幻想だったんだね、きっと。
廃止すべき制度や法律が日本にはたくさんあることは充分にわかっている。でも、個人ではその訴えは効かないし、声も届かない。そこで互いの共通な課題を出し合って連帯しよう、そうしよう、となるが、実は昔も現在もバラバラだ。
さて、どうしようか? オデは日本政府を動かす伝もコツも情報もないし、金も人材もない。そもそも一人で掃除することもできないし、ゴミをまとめることもできない。だったら一人で黙っていようか? いや、それはダメだ。必ず解決する方法はある。
昨日のテキストDouglas Crimp“Mourning and Militancy (1989)”は、オデはまったく読んでない。彼がエイズ・グループ「ACT UP」のメンバーの時に書いたもので、「喪失(死)としての贈与」がなんであるかさっぱりわからなかった。でもそれがわからなくても、「贈与」されることもあるかもしれない。死者の「贈与」はサプライズと相場が決まっている。たとえそれが「負の贈与」であるかもしれないし、「正の贈与」かもしれない。
とにかくオデは、「贈与」の時がくるまで生きていなくてはならないのだ。臥薪嘗胆の日々である。
地味に電子書籍で出版します(しかもエロ小説)
唐突ですが、ミヤマアキラ初短編小説集を電子書籍で出版しました。そういうことです。金額は9.99USD。2月10日現在、日本円で1200円くらい。でも無料キャンペーンやる予定です。
まあ一応読めることは読めるのですが、オデ的にはDTPに完全に失敗してるので、ご笑覧くだされ。
またしても唐突ですが、<あとがき>を抜粋します。短編小説の解説には手っ取り早いし。
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2010年、脳梗塞で左片麻痺と言語障害、高次脳機能障害という後遺症になり、私は当然、身体も言葉もままならないので、生活保護を受けて働かないで暮らしていた。少しは生活保護から脱出するため就職活動もしたが、もともと会社に勤めるのが性分に合わなくて、半年で辞めた。
発症後、脳梗塞や高次脳機能障害、リハビリについての本や、それ以外の本を読み漁った。仕事をする体力はないが時間はたっぷりあるので、若いころ好きだった作家の本、新進作家の本、芥川賞の本も読み、これだったら私に書けるかもしれないと思ったが、劣悪な住宅事情が執筆活動に向かないので、去年の二月にバリアフリーの住宅に転居し、生活環境を一新して小説に取り組んだ。金にならないのは当然だが、いまではこれは私の仕事だと思っている。しかし読み返してみると、まだまだ精進が足りないと思った。
以下は各作品についての感想やエピソードである。
<壁の紙魚>は、好きなラジオ番組の相談があり、パーソナリティーが語っていた言葉をヒントにして書いた。往々にして男性が一方的に女性に一目惚れし、告白しようと悩んでいるのだが、そのパーソナリティーの回答は「相手の女性は状況や事情をまったく知らないから怖いと思うでしょう、だからおよしなさい」という優しいたしなめの言葉を伝えた。男性はどうして女性を見た目で判断するのか、どうして一人で勝手に盛り上がり、いきなり相手を巻き込もうとするのか。相手の女性は単なる迷惑を通り越し、告白する男性に対する不快や恐怖で生活もままならないだろう。私が怒りと疑問によってこの作品を書いたら、主人公は人間の見た目を通り越し、何か空気のような雰囲気のようなものを見ているのが昔からの習慣だった、という落ちになった。
<奇妙な夫婦>は、実際の私が経験した話である。フリーライターをやると必ず、こういうオカルトめいたエピソードが出てくるは私だけではないはずである(特にビジネス関連の実用書はポエム染みていて空恐ろしい)。この作品は、私の人の引きの強さ的に強烈で、信仰もなしに身体(存在)には効果があるものだと思ったものだった。その(相談の)効果は、私の過去世(前世よりもずっと前の経験の記憶)がより明確になってきて、時間的に暗示が強くなってきているが、私はいまだに信じていない。たとえ彼女は本物のヒーラーだとわかっていても。これは現代の哲学事情もそうなっている。「新実在論」を提唱したマルクス・ガブリエルというドイツの哲学者は、「物理的な対象だけでなく、それに関する『思想』『心』『感情』『信念』、さらには一角獣のような『空想』さえも、存在すると考える」のである。おそらく私は、自己都合な解釈をしているだろう。
<ペドフィリア>は、リチャード・ガードナー『少年の性的虐待(2005)』を読んで思ったことが作品のモチーフになった。この本は「被虐待者は少女」「養父か見知らぬ人が加害者」という、かつての性的虐待の神話を崩そうとして、ジェンダーの面から分析している。「実父が加害者であり、その妻は共犯者」というのが、性的虐待のクライアントにカウンセリングして判明・分析したデータの集積であり、私の印象に深く残った。当然アメリカのケースばかりだが、私はこれを日本に置き換えて、旧家の「家制度」を加えた。制度で後継するのは伝統文化や財産だけではない。暗い影の因習や閉塞感、負の遺産も継承されるだろう、と憶測で空想した。この空想が事実でなければいいと願っている。
最後になったが、この作品の表紙写真を提供してくれた壱花花さんに感謝したい。壱花花さんのフェイスブックには、ときどきこのうさぎのぬいぐるみの写真がアップされているが、それを見た私はいつも不気味可愛い感じがして、思わず笑ってしまうのだった。
二〇一七年二月十日 ミヤマアキラ