寺山修司とオデ
ども、オデです。
幼少のころ、長い文章が苦手なオデは詩を読んだり書いたりするのが好きでした。ノートに20冊くらい書き込んでいます。
おそらく、すでに引っ越しの合間になくしたと思いますけど。
中学生のとき、図書館から「寺山修司全詩作集」を借りてきて読む途中でした。寺山修司を知らないひとは検索してね!
そんな日曜日の朝、テレビ朝日『題名のない音楽会』で彼の追悼番組をやっていました。
その番組内容は覚えていませんが、彼の遺影が白い花で縁取られ、大きな祭壇がありました。「詩」と「音楽」がマッチしてとても印象的でした。
それから、オデは寺山をひたすら読み続けました。
『書を捨てよ、街へ出よう』じゃないですが、東京の大学にも出ました。高校の若い女性の英語担任は、「東京へ行ったらきっとミヤマさんに似た人がいるよ。あれもミヤマさん、これもミヤマさん、って」
何しに行ったかというと、オデは演劇というものをやりたかったのです。
大学の演劇サークル(これが珍しくテント演劇するサークル)に入り、演出家を希望していたのに、「演出家をやる前に、まずは役者だろう」と先輩に騙されて舞台に上がりましたが、結果として、これはオデ自身の殻を破ることに成功しました。
最初は、忠実にシナリオに従って演じてようと何回も何回も努力しましたが、演出家は全然認めません。あるときシナリオにうんざりしたオデは、いきなり「シナリオ壊し」をはじめたのです。演出家は、「よし、それでいいんだ」とやっと認めてくれました。(演出家は二つに大別されます。シナリオ通りに役者がやらないと怒る人と、シナリオを役者の想像力や解釈によって壊す人です)
大学に出て卒業論文のテーマも寺山に決まりました。
ですが、「書きたいテーマはあるが、書く内容がない。なんにもない」。
そりゃそうです。あんなに膨大な量の作品なんて、大学生のオデにすら把握も解釈もできませんてば。
オデは街に行って寺山の映画や演劇のリバイバルや、彼に関わったひとたちのインタビュー集を読みました。彼が亡くなってちょうど10周忌でした。
もともと役者をやっていた詩人の萩原朔実は、「寺山に陶酔する時間は、寺山を抜け出す(卒業する)時間のほうが遥かに長い。たぶん倍はかかる」と語っていました。
そんななか、三浦雅士『鏡のなかの言葉』(1987年、新書館)を読み、「これだ!」と思いました。
要は、寺山の創作や生きかたは寺山によるプロデュースでしたが、いまの日本では当たり前すぎました。
まず、出身地の青森県のこと。31歳で劇団『天井桟敷』を旗揚げし、たとえば旗揚げ公演『青森県のせむし男』という脚本があります。
また、母のことですが、これも小説や短歌、詩、物語、評論などで読めます。
なにが事実か嘘か、オデにも全然わかりませんでした。
とにかく寺山は、ものすごい量の知識(主に日本や海外の書籍)でいっぱいでした。
職業もいろいろあります。詩人、歌人、作家、演出家、作詞家、随筆家、俳優、写真家、競馬やボクシングなどの評論家などなど。
ついでに言うと彼は、「職業は『寺山修司』である」と明言しています。
彼の名声は広がり、テレビにも出演してタモリさんがよく物真似をやっていました。
彼の青森弁はもとからではなく、後で演じたと誰かが言っていました。ちなみに岡本太郎の演技も後からつくったそうです。
それから、演劇や映画で世界中を飛び回り、彼が肝硬変で亡くなるころには、あんなに稼いでいた収入がほとんどゼロになっていたそうです。
彼の遺作は、詩でした。おそらく弱った身体でベッドに横たわったまま、この詩を思い浮かべ、そして書いたのでしょう。
昭和十年十二月十日に
ぼくは不完全な死体として生まれ
何十年かかって完全な死体となるのである
そのときがきたら
ぼくは思いあたるだろう
青森県浦町字橋本の
小さな陽あたりのいゝ家の庭で
外に向かって育ちすぎた桜の木が
内側から成長をはじめるときが来たことを
子供の頃 ぼくは
帰社の口真似が上手かった
ぼくは
世界の涯てが
ぼく自身の夢のなかにしかないことを
知っていたのだ
オデが卒業した(1993)年、彼の命日に高尾霊園に行き、手書きの卒論を供えました(いえ、持って帰りましたが)。そこにスーツを着た怪しい男がいて、「今日は寺山さんの10周忌だから九条映子さんもいらっしゃるかと思って」と言いました。
九条映子さんは『天井桟敷』の女優さんで、彼と結婚していましたが、いずれ離婚し、その後の寺山のよき協力者だったといいます。
どっかの記者かなんかと思いましたが、死者にまつわる下品な記事を書いて恥ずかしくないのかお前は、と腹立ちました。
「わたしは関係ありません。卒論を書いただけです」と言って去りました。男がいなければもう少しお墓にいたかったんですけどね。
(2013年も確か彼の30周忌でした。このチャンスを逃すことはできない! とオデは天野天街の演出する『レミング – 壁抜け男』を観ました。主役はもちろんベテラン陣ですが、オーディションで役者を集めたのか、モブ/群舞は下手糞でした)
いま、障害者になったオデは、やっとわかりました。なるほど、そうだったのか!!! と。
彼は高校生のころ、ネフローゼという病気になり、長い間ベッドで治療していました。そのとき大量の書籍を読んだと思います。彼の博識はそれが原因でした。
オデもいま、時間と体力のあるときは、ベッドに横になり(足が寒いので)、いろんな書籍を読み、ときには頭で文章を書きます。そして起きたときはその文章を書きます。こういう地道な積み重ねが、オデにも寺山にも必要だったのです(あと埴谷雄高にもね)。
ときには、別々の作者が共通の話題というかエピソードを持ち出しており、オデはその作者の視点から立体的にエピソードを感じ取ります。
いまはまだほかに書きたいことがありまして、「寺山修司論」は残念ながら後回しとなります。
それでも何も書くことがないときには、オデの卒業論文を持ち出して、改めて寺山を書きたいと思います。