宇佐美翔子(うさみしょうこ)さんの来た道ゆく道(1)

ダンパフォーマーであり、「青森セクシュアルマイノリティ協会」運営スタッフを務める宇佐美翔子さんに、これまでのライフヒストリーをうかがいました。第1回目は、生まれてから高校時代までをすごした青森での思い出についてお送りします。(聞き手/文:ミヤマアキラ)



●こどものころから活発だった

1968年6月5日、青森県生まれ。父は青森生まれ、母は秋田生まれ。ひとりっ子。こどものころから活発な子だった。4歳からバレエをはじめていたせいもあって、人前でなにかを披露するのが好きだった。もともとまっすぐ歩くのがあまり得意じゃない子で、平らな道でもよく転んでいた。近所の子がバレエをやっているのを知った母親が、バランス感覚を養うことができるかもしれないと思い、バレエ教室にいかせはじめた。ピアノも習わされたけれど、じっと座っているのが苦手でつづかなかった。バレエは気に入ってやっていた。

上手かどうか他人に評価される。うまくできないところを指摘されて「こうしなさい」とアドバイスされる。そういうふうに結果がわかりやすく見えるものだったから、気に入っていた。先に習っていた近所の子はとっととやめてしまったけれど、私は調子に乗ってずっとバレエをつづけた。

幼稚園のころ、率先して「ねえ、スカートめくりしない?」と誘って遊んでいた。母が水商売をやっていたから、ませていた。バレエの合宿には、中学生や高校生のお姉さんたちもたくさん参加していて、夜中、布団を敷いてみんなで雑魚寝しているときに、理科教室でだれかとだれかがエッチしてて、どーしたこーしたで救急車がきたとか、嘘かほんとかわからない話をしているのを聞いていた。私はそのとき小学校1年生だったけれど、家に『微笑』とかの女性誌があってよく読んでいたので、お姉さんたちの話は理解できた。なにをどうすれば赤ちゃんができるかとか、そのころにはすでに知っていた。


●『あれは嘘でした』と言ってこい

小1のときから、週末には青森から秋田のバレエ教室まで片道4時間かけて通っていた。土曜日の学校の掃除は免除してもらって、電車で秋田に行って稽古して、先生の家に泊めてもらって、翌日また稽古をして、電車で帰って、家につくのは夜中の12時だった。バレエ少女だったから学校以外の自分の居場所もあったし、ませていたし、大人と仲がよかった。学校の先生からも特別扱いをされていたので、クラスではちょっと変わった子だった。

ある日、学校の帰りの会のときに、なにか問題が起こっていて、「男子が悪い」「女子が悪い」という論争になった。そのとき私は女子の味方をせず、「女子が悪いんじゃない?」と言ったら、次の日から女子グループから無視されるようになった。それでもへっちゃらだった。

女子グループのリーダー格の子を呼び出して、「あなたは私のことをこのように言っているらしいけど、それは本当のことなの?」と問いただしたら、「違う、私が勝手につくって言いふらした」と言ったので、「じゃあいまからグループの子たちのところに行って『あれは嘘でした』と言ってこい」と要求したりして、すごく気の強い子だった。

納得のいかないことや疑問に思うことがあったら、それを問いたださずにはいられなかったし、バレエがほかの子より上手だという自負もあったから、すごく自信家だった。端から見ればいけすかない子だったと思う。林間学校でやる出し物で女神さまの役をやることになっていたのに、自分のミスで膝にヒビがはいってしまった。「それでもできる! これは自分にしかできない役!」と思っていたのに、配役を変えられたのでムカついて林間学校を欠席した。そういう、キツくて嫌な子だった。


●躾か教育か虐待か

母はとても厳しいひとだった。いまとなっては、それが躾(しつけ)だったのか教育だったのか虐待だったのかよくわからない。父は、私を身ごもった母に「産んだら別れる」と宣言していて、産んだらほんとうに離婚してしまった。母は私を立派な人間に育て上げることで、自分を捨てて別な家庭を持った父を見返してやりたかったのかもしれない。

バレエの発表会では、私はいつもメイン役で舞台の中心で踊っていた。よその子のお母さんは、自分の子がへたくそな踊りをしていても褒めているのに、うちの母は一度も褒めてくれなかった。バレエの先生ですらすごく褒めてくれたのに。

学区内の中学に進む気はなかった。「バレエができるなら新体操もできるんじゃない?」と周りから薦められて、新体操部のある学区外の中学に進んだ。いつも県大会に出場する強い学校だった。私は入部したての新入生なのに大会で1位を獲った。団体戦はあまり強くなくて、個人戦で私が賞を獲って東北大会に出場することになり、同学年のおとなしい子が専属マネージャーになった。その子が部活におけるパートナーみたいな存在だった。もともと家に男はいないし、女のひとと一緒にいるのが楽だと思っていたから、とても居心地がよかった。


●男の代用品にしているだけ

女子高に入学してすぐ、ホームルーム合宿という行事があった。学校に宿泊施設があって、クラスの子みんなで同じ部屋に寝泊まりするイベント。そのときに、『アラン』『ジュネ』などの雑誌を持ってきている子がいて、みんなで回し読みした。「へー、こういう雑誌があるのかー」と感心しながら読み、就寝時間になって布団にはいると、両側に寝ている子たちがそれぞれ手を伸ばしてきて私の手を握ってきた。ドキドキしたりムラムラすることはなかったけれど、自分が真ん中にいるシチュエーションがすごく面白かった。

その後、手を握ってきたひとりが私のことを好きだと言い、部活(新体操部)が終わると廊下で待っていたりした。そのころの私はショートカットで、「カッコイイね」と周りから慕われることがよくあった。性的なことにはかなりませていたけれど、ませていたからこそ、かのじょとどう接していいのかわからずオタオタしていた。その子は単に親愛の情を示していただけかもしれないのに、こちらはヘンに深読みして意識しすぎたりして、自分の勝手な解釈で下手に手を出してはいけないのではないかと躊躇していた。

私たちが仲良くしているのを知っているクラスメイトから、「あの子は、あなたを男の代用品にしているだけなんだよ。あなたを好きなわけじゃないの。私、あの子のそういうところが嫌い」と言われたけれど、そのときは意味がよくわからなかった。でも、私になついていたその子は、その後わりとすぐに他校の男の子と付き合いはじめたので、クラスメイトの言っていた意味がやっとわかった。私は予行演習がわりだったんだなと思った。

部活では、新体操部に入部してすぐ選手に選ばれた。ほかにそんな子はいなかったので、またしても周りから無視されるようになった。その学校は微妙に県内2位にしかなれない学校だったし、もう一度バレエをやりたい思いもあったし、部活の子から無視されるいじめにもあっていたので、早々に退部した。バレエに復帰して、またコンクールでちょこちょこ賞をもらいはじめた。


●空気のように身近な存在

2年生になってから仲良くなった子は、明らかに私に恋愛感情を抱いていた。どこに行くにも一緒で、修学旅行の寝台車では同じ寝台で一緒に寝たりもしたけれど、これまたこちらの意識しすぎでなにもしないまま終わった。周りの友人たちも私たちが親密な仲だと知って、「あまり邪魔しないようにしなくちゃね」などと言っていた。先輩たちのなかにもいくつかそういうカップリングがあった。「あのふたり同じピアスしてるよね」とか「あの先輩たち、一緒に○○に行ってたよ」という会話が当たり前に行なわれていた。

3年生の夏休みが明けたら、仲良くしていた相手の子が突然口を利かなくなった。嫌われたのかなと思ったら、紙袋いっぱいの手紙を図書室で無言のまま手渡された。夏休みのあいだ毎日私にあてて書いていた日記のようだった。

どんな内容だったか細かいことは忘れてしまったけれど、その子は私を嫌いになったのではなく、会わないあいだに考えて考えてこうなったんだということはなんとなくわかった。かのじょにとって私は空気のように身近な存在で、いなくなって初めてわかるなんとかかんとか、と書かれていた。じゃあ、これまでどおり仲良くすればいいじゃん、と思って近づいても、通学路を変えたりして避けられた。いまあらためて考えると、女子である私を好きなことで悩んでいたのかもしれない。

学校の勉強は、国語と体育と美術が得意だった。ほかの科目はまったくダメ。高校を卒業してもバレエや踊り、身体を使う体育関係のことをやりたかった。母親は「専門学校には行かせない。『大学』と名のつくところなら、青森から出ていかせてやってもいい」と言ったので、東京の体育大学の推薦を受けて上京した。



<つづく>