第2回「『異性愛規範』をめぐる小難しい話」(4)
●ホモエロティックへの恐怖
前回の最後に述べたことをもう一度くりかえしておくと、西洋近代以降の家父長制社会においてはホモソーシャルなつながりがとても強いが、それとホモエロティックな欲望とは完全に切り離すべきである、切り離せるはずだ、という理念が規範となって、男性性が構築されていく。つまり、西洋近代の男性ジェンダーは、「こういうことをしたらお前はホモエロティックな欲望を持つ人間、すなわちホモセクシュアルだ」という恐怖を片隅においてつくられていったのだ、といえる。
そういう意味では、ホモソーシャルな絆とホモエロティックな絆をまったく無関係で別物であると言ってしまうのは、かえってホモフォビックなホモソーシャル体制を強化・支持してしまうことにつながる。だからこそ、西洋近代以降においては、ホモソーシャルな色合いが強い社会ほどホモフォビアが強くなる。結びつきが強いだけに欲望に転じる可能性も強くなるので、欲望に対する拒否反応も強くなる。
ひじょうに有名な例が軍隊。アメリカにおいて、同性愛者の存在を絶対に認めたくなくて頑張っている代表的な領域が、軍隊。男同士でお互いに信用しあって命を預けあって運営していくというホモソーシャルな絆が強いからこそ、ホモフォビアも強くなる。そこでホモエロティックなものを持ち込まれたらたいへんだ、という恐怖感が強い。
また、日本を含むどの社会でもわかりやすい例は、集団スポーツ。集団スポーツの世界はホモフォビアがとても強いことが多い。個人スポーツの分野にはカムアウトしたゲイ男性選手がいるかもしれないけれど、アメリカンフットボールやラグビーやサッカーなどではほとんどいない。集団スポーツはある意味軍隊と似たところがあって、すごくホモソーシャルな社会であるだけに、拒否反応もすごく強い。
●ホモセクシュアル・パニック
ホモソーシャルな社会で、ホモエロティックな関係を一度でも認めてしまったら、それまでは友情や信頼や敬意であったホモソーシャル関係が全部欲望になってしまうのではないかという恐怖がある。一度その存在を認めたらあらゆる部分に欲望が入りこんでくるだろうという恐怖があるので、絶対に認めたくない。もちろん、冷静に考えれば、AとBの関係はエロティックだけどCとDの関係はエロティックではない、という判断や区別は当然なされるのだけれども、ホモソーシャルな体制のなかでは、そのような区別がすべて崩壊し、ホモソーシャルな結びつきが維持できなくなってしまうかもしれない恐怖から、オーバーリアクション、過剰な拒否反応を見せる。
これをホモセクシュアル・パニックという。いったんホモエロティックな要素を察知すると、あらゆるところにホモエロティックな匂いを嗅ぎつけて、それらを片っ端から必死になって排除しなければならない強迫観念に駆られ、パニック状態に陥る。
●セジウィックの分析の利点
セジウィックは以上のような分析をおこなったが、かのじょの分析の利点/業績のひとつは、分析の対象を同性愛ではなく異性愛規範としたこと。異性愛規範がどのように機能しているか、どういうふうに自らを維持しているのか、いかに自分自身が否定しているようなホモエロティックな欲望に立脚しているのかを示した点が、セジウィックの分析の大きな特徴のひとつである。
このような分析の観点は、その時点までのゲイ・スタディーズの主流とは異なる、クィア・スタディーズの特徴のひとつだということができる。マイノリティである自分たちがどうかということを分析・報告するのではなく、「あなたたちはどうなの?」とテーブルを返して、メインストリームである異性愛のありかたを分析していく。同性愛だけを分析の対象として理論をつくっていく限り、異性愛社会は手つかずのまま、当然の前提として存在しつづけることになる。セジウィックは、異性愛と切り離された同性愛を研究するのではなく、異性愛社会がいかに同性愛/同性間の欲望を利用して形成・維持されているかを分析しようとした。
もうひとつの大きな功績は、ジェンダーを軸とした権力配置(男性が女性を媒介にして結びつきを強化していく家父長システム)と、セクシュアリティを軸とした権力配置(同性愛を抑圧/拒絶することによって形成・維持される異性愛システム)がどう結びついているかを示したこと。つまり、現在の社会において、家父長制と異性愛規範が深く関連しあって機能しているということを、初めて、そして説得力のある形で示し、フェミニズムとセクシュアリティ・スタディーズ両方の流れを連結する形で分析をおこなった。それが、セジウィックがクィア・スタディーズ初期のひじょうに重要な理論家のひとりになった理由でもある。
ここで注意しなければならないのは、セジウィック自身も明言していることだが、かのじょのホモソーシャルに関する分析はあくまでも男性のホモソーシャルな絆に関するものであって、これをそのまま女性同士の絆に応用することはできない、ということ。女性同士が男性を媒介にして絆を結ぶというのは、個人レベルではやっているかもしれないが、社会体制としては成立していない。したがって、女性同士の絆についてはまた別の分析が必要である。ただしセジウィック自身はそういう分析はおこなっていない。
女性同士の絆に関しては、前述したアドリエンヌ・リッチの「レズビアン連続体」という概念があって、女性同士の絆はホモソーシャルなものからホモエロティックなものまでゆるくつながっているのだというような議論がされることもある。ただし、「レズビアン連続体」概念自体は、友情の結びつきも欲望もみんな一緒にされることによって、女性に性的欲望を抱くというレズビアン的な要素が無視されてしまう、などの点から、強い批判も受けている。「みんな同じ女」という表現で、ヘテロ女性とは異なるレズビアンのセクシュアリティが黙殺されてしまったという歴史があるので、注意が必要。リッチ以降、女性同士の絆については、セジウィックが男性同士の結びつきに対して行なったような分析は、それほどなされていない。
<つづく>