「さらばリハビリ」~(29)感情のコントロールができない「感情失禁」

 高次脳機能障害の主な症状は、いまはない、と思いたい。自然治癒した症状もあり、後は工夫して訓練して克服した。たとえば一般のカレンダーは読めないが、黒白反転した「大活字カレンダー」を買ったら少しは読めるようになった。アナログ時計もいまは読める。

 だが、いまでも症状が収まらなくて困ったことがある。それは友人と歓談中に「笑いのツボ」に入って出られなくなってしまうことだ。

 「感情のコントロール」ができないことは、人間関係にヒビが入ることがある。笑うのや泣くのが止まらないことは私一人だけ苦しいのだからまだましだ。人によっては、爆笑したかと思うと今度は号泣し、相手が不思議がって距離を置く場合がある。でも、怒るのが止まらないのは実体験を伴ってみんなが困った。高次脳機能障害であることを自覚せず、周りの人たちも理解していないと、離婚や絶交の危機が訪れることもしばしばある。

 最初は怒るのが止まらず、一人の友人と絶交したことがあった。私は喋るのが遅く自分でもイライラするのだが、当時はビールを飲んで興奮してしゃべっており、そのスピードについて行けずに自分でちゃぶ台をひっくり返し、そばにいて私の話を遮った友人の一人に、怒ってジョッキのビールを鞄にかけてしまった。その瞬間の脳内はいまでも覚えている。怒鳴る私が全面に飛び出し、普段の冷静な私は「うわーっ、どどどどうしようどうしよう、困ったなあ?」と後ろでひゅーっと縮こまっている。しばらくして統合した私は事態の収拾をつけられず、黙ってその場を去った。これは解離性同一性障害(多重人格)の症状とまったく同じじゃないか。

 その友人たちは全員私の見舞いにきてくれたが、私の言語障害というか高次脳機能障害は完全に理解していなかった。私も彼女たちもフェミニストである。「ああ言えばこう言う」性格の、うるさいフェミニストだ。どっちも大人しく静かにしていられない。

 最近、笑うのがたまにツボに入って窒息するほど苦しい思いがした。表面的には笑っているのだが、内面は「発作中」である。たとえるなら、強制的にくすぐりマシーンに拷問をかけられているようなものだ。

 アメリカに入院したとき、レズビアンのボランティアのグループが私に話しかけたこともそうだった。当時の私は嬉しいことを笑って表現するしかなかった。思い出し笑いをしてそのままツボに入る症状を何とかしたい。相手はなぜ私がクスクス笑い続けているのかわからず、かえってドン引きをしているだろう。私もこういう奴を見て腹が立つが、これは症状であって癖ではないので、自分では治しようがない。鉄の感情を持って笑いに挑むべきか。それではダウンタウンの『笑ってはいけない』になってしまうじゃないか!

 脳神経がやられると、脳が消費するカロリーをコントロールできないことは以前も書いた。春や夏の間はいいのだが、冬になると私オリジナルの「防寒対策」をしなければならない。できれば板チョコではなく、一口サイズのチョコを舌の上で溶かしたい。最近、歯茎が下がってチョコを噛むと歯が染みてくるようになった。子どものころは平気だったのに。こうやって老いの下り坂を強く感じる。

 後は夜更かしである。原稿が気になり眠れなくて執筆しているとき、急に左背後に誰かが覗いているような気がして、麻痺の身体を一気に痙攣させてしまう。てんかんである。これも脳が「疲れた!」という主張をし始め、私の身体はストライキとなるのである。

 客観的に見ると、私は車椅子ユーザーの身体障害者だが、もしかしたら高次脳機能障害の症状のほうがまだしも「病人」という感じである。糖尿病の服薬治療は続けているが、低血糖症になったことはいままでに一度もない。

 「病人」という定義は曖昧だが、少なくとも「コントロールが利かない」ことと「回復治療の決定的な手立てがない」こと、つまり状態が不安定で対処法がないところである。

 左片麻痺言語障害、糖尿病も立派な病名だが、これらの病名は安定していること、予測がつくことが私にとって「病人」らしくない。端から見ればいかにも「病人」らしいが、外出のシミュレーションをして、少し予想外のことがあった場合、脳が疲労して「早くおうちに帰りたい!」となり、帰宅して着替えてベッドに伏せた状態になったら、それはもう立派な「病人」である。「富士山は月見草がよく似合う」は太宰治だが、「病人はベッドがよく似合う」という、ありきたりなイメージの出所は、私の印象のせいである。