「さらばリハビリ」~(16)大島渚の「リハビリ拒否」

 あるとき偶然、大島渚のドキュメンタリー番組を回復期病院のテレビで観た。大島渚は1996年1月下旬、10年ぶりの作品となる『御法度』の製作を発表した。しかし、同年2月下旬に渡航先のロンドン・ヒースロー空港脳出血に見舞われた。その後、3年におよぶリハビリを経て、1999年に『御法度』を完成させた。私も『御法度』を観たし、パンフレットも買った。

 その後、再び病状が悪化し、リハビリ生活に専念した。2008年7月28日に放映された『テレメンタリー パーちゃんと見つけた宝もの〜大島渚小山明子の絆〜』や、同年8月17日に放映された『田原総一朗ドキュメンタリースペシャル「忘れても、いっしょ…」』において、神奈川県鎌倉市聖テレジア病院で言語症と右片麻痺のリハビリに励む姿がオンエアされた。

 私が観たのは再放送の『テレメンタリー』のほうだった。女優の小山明子は大島の妻であり、介護生活に疲れて鬱状態だった。大島渚脳出血を発症したが、制作発表した『御法度』の撮影のため、何度も「カット!」と叫ぶ練習をしていた。監督業として舐められたらいけないと思い、懸命なリハビリを行った。

 脳疾患が再発し、今度は言語障害と右片麻痺の後遺症である。監督業は引退がないから、『御法度』が最後の映画作品となったのかもしれない。その『御法度』が無事公開され、気持ちが緩んだのか、再発して身体が悪化してしまった。再発後は一切リハビリせず、小山の介護で生活するが、大島は小山に怒鳴ってばかりいて、自分は何もできなかった。車椅子で座ったままの両脚は拘縮し、脚を伸ばす機械にかけられた大島は、「痛い痛い痛い!」と叫び、怒鳴り、小山に八つ当たりをしていた。

 彼がなぜリハビリを辞めたのか、私は推測した。「もう映画は充分撮った」と彼は思い、監督業を引退したのかもしれない。だが、生きていることは引退できない。リハビリしないと日々の生活は不便だし、小山の負担が増える。もしかすると彼は、「心が折れた」のかもしれない。大島渚、64歳から81歳までの闘病生活だった。

 多くの人は、彼が不幸な晩年を送ったと思うだろう。しかし、大島がリハビリを辞めたことは私にとって希望だ、生きることのストライキだと思った。妻に負担や面倒かけるのは障害の有無には関係ない。彼の映画も生きざまも敬意に価すると思った。