「さらばリハビリ」~(13)一番親しかった患者

 回復期病院の患者で、車椅子に乗った大柄の40代男性がいた。仮に彼をOさんとしよう。Oさんは毎日ナースに向かって話し、いつも帽子を被り、食事のときはテレビ画面と反対の方向に座って食べ、一番早く食べ終わっていた。

 私はOさんの不思議な行動に軽い疑問をいつも感じており、彼に話しかけた。帽子を被るのは寝癖がひどいせいで、テレビを見ない代わりにラジオを聴いていた。Oさんは脳梗塞の後遺症により、左片麻痺言語障害で、しかも復視だった。

 復視とは、ものを見たときに「二重に見える」ことを言う。二重に見えるというと「乱視かな?」と思うかもしれないが、ものが二重に見えるのは乱視だけとは限らない。目の病気だけではなく、体の病気でも二重になって見えることがある。

 複視には「片眼性複視」と「両眼性複視」とがあるが、両眼性複視の場合、目そのものの異常というよりも、目をキョロキョロ動かす筋肉や目関係する神経が原因となっている可能性が高い。乱視の場合や、もともと斜視だったという場合、急に二重に見えるということはない。

 いままで普通に見えていたのに、急にものが二重に見えるようになった、また目の向きによって症状がひどくなるなどの場合、脳の病気や血管障害、全身性の病気などの可能性がある彼の場合は、私と同じ脳疾患からくる障害だった。

 Oさんは私より少し早くこの病院に入院し、同じ担当のSTのリハビリを受けていた。私は彼に注目した。顔はゴリラみたいだったが、リハビリを受ける貪欲で前向きな精神を私は彼に見習った。

 あるとき、リハビリの一環(自主練の一つ)で、食堂で布巾を畳む彼を見た。Oさんは私と同じ左片麻痺なのに、左手は動いている。「なんで動くの?」と素朴に聞くと、「左手の人差し指を動かしながら『動け動け』と念じた。ヒマさえあればとにかく動かした。そしたら、半月ほど経ってほんとに人差し指が動き出し、連動して中指、薬指、小指も動き、手首も動き、肘も動き、腕全体が動いた。でも皮膚感覚はないけどね。おかげで腕が車椅子のタイヤに擦れて大けがしたよ。何針も縫った」と答えた。

 PTに聞くと、「僕たちが数年かけてやっと動いたようなものを、Oさんはわずか半月でやっている」と感心した。ネットや書籍のリハビリ関連では、ニューロン再生の科学分野か、もしくは奥深い鍼灸の神秘と、「動かない手指を必死に念じてある日偶然」みたいな精神論+オカルト分野だ。

 私は後者をはなから諦めていた。日々寝起きや着替え、入浴などの生活動作を繰り返していれば、脳が勝手にシナプス形成を地道に進め、数年経ったら突然動いたみたいなサプライズギフトでハッピーに、というシナリオを気に入っていた。

 これでは「いつか王子様が♡」と夢見ていて、その実やっていることは漫然とした日々の連続である。活字だけで「脳梗塞 左腕 回復」というキーワード検索ばかりやっておきながら、事実、左腕はまったく意識せずに、気づいたら腕が痺れてきたというていたらく。海の向こうの最新科学情報か、いまは亡き見知らぬ人の書物を引っ張り出して読み、胡散臭い東洋医学の宣伝情報を知って、ここへ行こうか逡巡する。すぐ隣に、なんの変哲もない自然体の患者がいるのにもかかわらず。

 Oさんが寸暇を惜しんで左人差し指の反復をやったのは「当たり前のこと」だし、結果「当たり前に」腕は動く。そのことを、声を大にして自慢するでもなく、私の疑問にさりげなく応えたのだ。あんなにも敬遠していた精神論+蓋然性オカルト分野なのに、Oさんの経験談を聞いて私も早速やってみた。なにも集中しなくても日々左腕の存在を気にかけ続けるだけのことなのだが、人差し指が真っ赤に熱を持ち痒くなったところで、「Oさんにとって左腕が動くことは『当たり前』のことなんだろうな」と思う。私はいつか左腕が動いたらと夢見るが、実は左腕が動くことを信じてなどいない。これはもはや信仰の問題なのかどうか、私にはもうわからない。

「この動きをずっと続けて、ピク、とでもわずかに指が動いたらそれで勝ち。そうなるまでには先が長い。分からないからね」とおだやかに笑うOさんであった。ちなみに、腕が動いたOさんの握力は7キロに満たない。動いた先もまだまだ長い。

 私も見習って、左の親指を懸命に動かしたが、発症から数ヶ月経っていた。それでもいい、糠喜びでもいい、親指が動けばいい。そんなある日、親指が動き始めた。でも私はあるときそれを辞めた。左腕をまるごと忘れたと言ってもいいと思う。

 右腕は完全に動くようになった彼だが、歩行することができなかった。立ち上がった彼の背は190センチくらいだ。復視も言語障害も回復していない。麻痺した左腕が元通りに動くのは、テレビや本を見づらい彼の、必死な暇つぶしなんだろうなと思った。もうすぐ彼の退院の日が近い。私は電動車椅子をリハビリでリクエストした。彼もそれに倣って早速注文した。歩けない彼もこれで生活できると私は思った。