「さらばリハビリ」~(1)アメリカから日本へ帰国

 2010年12月中旬(日付がわからない)。アテンド役の人と私が帰国準備をして病院で待っていると、川口由美子さんが手配したらしく、日本人ナース2人がニコニコと明るく登場し、病院の手続きやら私含め荷物の移動やら、瞬く間にフロリダ国際空港へとやってきた。いままでアテンド役の人はいたが、私の専門的なケアはできずイライラを感じていた私は(会うと毎回「外に出たい!」とアテンド役の人に訴えてたが、その辺の看護師に許可を取るでもなく、「そんなことできない…」とおろおろしていた)、長年の便秘が解消したかのように気持ちがスッキリとしていた。フロリダの天気のように私の心も快晴だった。

 アメリカと日本の移動時間は長い。少なくとも14〜19時間はかかる。行きのトランジットはミネアポリスとオーランドだったが、帰りのトランジットもオーランドとソルトレイクシティの2カ所があったように思う。もしかしたら私の記憶違いかもしれないが、私はずっと車椅子にぼんやり乗って荷物同然だったので何も把握していなかったのだ。

 病院のナースが私の尿道カテーテルを外し、代わりにオムツをつけていたので、移動時間の長さを気にした日本人ナースたちは私をトイレに移動させ、オムツチェックをして便器に座らせた。オムツは濡れていない。でも膀胱タンクはパンパンだ。しかし、私の尿道口はうんともすんとも開かない。脳は「放尿しろ!」と指令をするが、身体が言うことをきかないのだった。

 原因は2つあると私は思った。昔々、幼少期のトイレットトレーニングのとき、オムツを外して風呂場で放尿させようとした父が、いつまでたっても私がおしっこしないから、これは根比べだと思って小さな私をずーーーっと抱え、ようやく私が「わあああああっ!!」と泣き叫んだと同時にぴゅーっと放尿した、と笑って言った。ふん、過去の思い出話だ。あのときの私は赤の他人である。と思い込もうとしたが、「雀百まで踊り忘れず」という諺を思い出し、痛感した。

 もう1つ。ナース2人に監視されたままで40歳の私が放尿できるか! こんな羞恥プレイできねえ! である。この2つの原因が相俟って放尿できなかったのだ。

 後になって介護の本を読むと、「オムツをつける利用者さんを考慮して、まず自分でオムツをしましょう放尿しましょう、と講師は言うが、習慣や環境というものはそう簡単に身体に対応できず、オムツのままでは放尿できないヘルパーさんたちがいた」とあった。なんだ、私だけじゃなかったんかい、とホッとした。

 いくら待っても出やしない、とナースと私は思い、搭乗手続きの時間があまりないので、トイレを後にした。

 搭乗手続きをし、飛行機に乗り込む。なんとファーストクラス! 座席がゆったりとしていて、ナースが交替で私に食事介助をし、キャビン・アテンダントに「Could I have a bottle of 水?」という日本語混じりの通訳をして私を笑わせた。こんなゴージャスな生活を毎日続けたら、きっと私は堕落するに違いない、でもいまは楽しいし愉快だ。このままずっと乗り続けられたら…と一瞬、アホな考えが浮かんだ。

 この日はクリスマスだったことを覚えている。というのも、乗客はみな赤白のサンタ帽をジョークで、もしくは習慣で被っていたからだ。エコノミークラスはどうか知らないが、これはビジネスクラスの経済的精神的余裕だと判断し、「ははん、ビジネススーツを着てサンタ帽を被ったアメリカン・ジョークだな。だっせえなぁおい」と軽蔑し、私は異文化を少しも理解しない日本人なのでまったく笑わなかった。

 搭乗してどのくらい時間が経ったのだろう。トイレにも行けず、オムツを交換することもできない私の膀胱の限界を悟ったナース(私はそれほど限界とは感じていなかった)は、キャビン・アテンダントと相談し、通路の真ん中というか座席に座ったまま私のオムツを外し、機内が暗いので懐中電灯で照らして再び尿道カテーテルのプラグを入れた。私は恥ずかしいというより、「もう1人でトイレに行くことができないんだ…」との観念をしていた。

 そういう、哀しい諦念をしていたが、明るくジョークで私を笑わせるナースたちには、私が悲観に暮れないようにずっとサポートをしていたに違いない。いま改めて思い出すと、このときのナースたちがケアサポートにおいてベストだと私は感じた。車椅子状態の私をフロリダからはるばる日本に同行介助するのだから、そりゃ大変だ。誰にでもできるわけじゃないし、当時の私にもできなかった。ナースの資格を持っているからでは当然ない。

 長い長い搭乗で、私は眠ったのかそうでなかったのか自分でもわからない。どのみち自分の力で歩けないし、ずっと乗り物に乗っていたしで、体力は全然使っていなかった。

 ようやく成田に到着し、そこから救急車で東京の病院へ向かう。とにかく、身体障害者のケアラーの駆け出しだった私は尊意を込めて、「あんたたち、ナースなのに通訳もできるの? なんで?」と聞いた。「えーっと、私たちは六本木の病院に勤務してるの。うふふ」六本木といえば、外国人がたくさん住む街だ。なるほど! それでジョーク混じりのくだけた通訳をしてるのか! 救急車を降りたナースたちは、病院にバトンタッチにて颯爽と笑顔で去っていった。

 到着した病院は、某大学付属病院だった。だだっ広い空間で、患者はたぶん寝ているが、しーーーんとしていた。私はずっとベッドで寝たきりだった。時間帯は深夜になろうとしており、急患が個室に搬送され、「○○!、○○〜! 死なないで〜! あああああ!!」と泣き叫ぶ知り合いたちの修羅場があった。声だけが鮮明に聞こえるが姿は見えない。そして静かになった。いまや病院では生き死にが日常茶飯事になっているらしい。と、頭ではわかっていたものの、初めて「患者」としてこの「舞台」に上がった私は、いきなり悲劇シーンが展開し、おびえ、すくんだ。

 ダンテの『神曲』ではないが、アメリカから日本に帰国した私は同時に、突然、天国から地獄に落とされたかのように対応ができなかった。そして地獄はさらに続く。