「尊厳死法案」合法化は人身(臓器)売買の暗躍化を増長するのか?

 「尊厳死」でネット検索してトップに出てくるのは朝日新聞連載「シリーズ:柊の選択 穏やかな死を探して」である。尊厳死の話題はだいたい網羅されているが、もう少し深く掘り下げたい方は立岩真也の著書を読みなさい。わかってきたことがどんどんわからなくなるから覚悟してね。

 立岩真也さんの本も難解で冗長だが、テーマがテーマである。おいそれと国会で法制化なんてできっこない。国会議員は「国民はバカだ」と思っていると邪推するが、そういう国会議員もバカ丸出しだから。国民舐めんなよ。

 冒頭にオデの見解を言っておくが、尊厳死の法制化には反対である。現状が最善だとは決して思わないが、法制化=合法化になることは間違いない。「安楽死尊厳死」は日本の現状では「自殺幇助」であって、刑法203条「自殺関与・同意殺人罪」は殺人罪減刑類型であり、法定刑はすべて「6ヶ月以上7年以下の懲役又は禁固」と殺人罪よりも軽い。これらの罪の未遂も罰せられる。

 つまり、尊厳死安楽死の“合法化”は、終末期患者や高齢者の医療措置をせず(消極的安楽死)、死を希望する者には安楽死を担当医師と同意契約して注射で死を全うさせる(積極的安楽死)ものである。医師の特権(法の抜け道)と言っても過言ではない。こうなると腹黒くて頭の悪い医師は特権を振りかざすんだよ。そんな連中に「自分の死」を任せられるか。

 法律はデコボコの道をブルドーザーで平坦に均すようなものだ。患者と医師との個別的信頼関係が事務的で冷たい「死の契約」となるに決まってんだよ。医師を信用するな。法律を信用するな。信用していいのは自分の判断だけだ。

 一部の欧米諸国にはすでに安楽死の合法化が行われているが、すべての国民が同意せず、反対意見もあるだろうと思う。スイスで安楽死したオーストラリアの環境学・植物学者デイビッド・クドールは「ふさわしい時に死を選ぶ自由」と定義している。

 さて、生死をめぐる考えかたは日本と欧米ではニュアンスが違う。「生きる権利・死ぬ権利」を主張する欧米と「生きる義務・死ぬ義務」を静かに受け取る日本の捉えかたも違えば、いざ合法化されたら「死の決定権」は医師に譲らねばならない(「先生にすべてお任せします」)日本人は増えるだろうと想像せざるを得ない。まったく安易だからな~日本人は。

 今年だったか、脚本家の橋田寿賀子さんが雑誌で「安楽死で死にたい」と主張した。オデはその雑誌はまだ見てないが、ネット検索すると「認知症になったり、身体が動かなくなったりしたら、安楽死したい」「私には、家族も心を残した人もいませんから、寝たきりになったり、重度の認知症になったりして、人に迷惑をかけてまで生きていきたくない。ただ単純にそれだけです」。

 出た!「迷惑をかけてまで生きていきたくない」。ここで日本人が共感するフレーズを盛り込んできたが、オデにとっては「薄っぺらくて浅~い主張だなあ」と思って冷笑するしかなかった。「お迎えが来ない~」と、ただ受動的に待ってるだけなのでは?

 橋田さんは長期高齢者だが、まだ健康的だ。軽い病気や体調不良になることもあるだろうが、末期がんや難病にはかかっていない。そうなる前に「安楽死」を、そうなってからでは遅い、とのこと。

 なんで? そうなってから生活してみなさいよ。気分も考えかたも変わるから。

 末期がん患者の生活や心情はオデにもわからないが、歌人中城ふみ子さんは『乳房喪失』の題で50首全部が掲載された。当時の歌壇に大きな反響を呼び、寺山修司は中城の短歌に衝撃を受けて自らも短歌を詠み始め、中城受賞の次回度に短歌研究50首詠を受賞した。 

 中城の作品は「アンチ写生」であり、そこでは徹底して短歌をつくる作者の「私性」が追求されていた。中城が目指した短歌における「私性」とは、虚構を排除しないものなのだ。中城はそうした虚実のあわいに出現する「私性」を、作品を書くことによって実践的に確立していった。自らが体験しつつある乳癌による死というドラマを通底音として、虚実取り混ぜた短歌作品としてある自己を「ロマネスク」に語ること。「新しい抒情の開拓」というのは中城自身の言葉である。そして現実もまた中城によって提示されたフィクションとしての短歌作品を、読者に改めて追体験させるかのように進んでいった。デビューからその死まで、半年に満たない強烈な印象を読む者すべてに与える、短くも鮮やかな生涯の軌跡だった。

 また、ALSを代表する全身性難病患者には「ALSを楽しく生きる」ことを目指しているかたも多くいる。そのうち「ALS文学」「難病文学」などの新しい分野を開拓するんじゃないだろうか。かくいうオデは「片麻痺文学」「重度身体障害者文学」なるものを開拓研究中である。

 かつて健常者の自分がそうなるなんて予想もしなかった心境は、病とともに発展・進化する。オデにはまだ希望がある。だから死ねない。生きるしかない。傍から見れば「生産性のない奴」と笑われているだろうが、現在は潜伏中である。いまに見てろよちきしょうめ。片麻痺のオデは半分死んでいるようなもので、脳梗塞という厄介な病気に日々驚かされている。てんかん発作の前兆はくしゃみが出るのと同じくらい自分でコントロールできないし、予兆も突然で、その発作を重ねて対策を講じなければならない。付け加えて老化の問題もあり、白内障で本の細かい文字が読めないし、部屋の明かりも眩しくてつけられないのだ。

 プロの脚本家・橋田さんはまだ認知症にはなっていないらしいが、突然なるわけじゃないと思うので、自己観察日記を書き連ねておいてドラマ化すればいいんじゃない? 『恍惚の人』は介護する妻の視点で展開するドラマだが、認知症本人の行動や思考の変化は橋田さんじゃなきゃ作れないからチャレンジしてみては? 安楽死のイメージが変わると思うし、オデもぜひ見てみたい。

 

 そんでタイトルの「人身(臓器)売買」は「アシュリー事件」にも関係するが、重度心身障害児(者)は「死の自己決定権」なんてないでしょ? それで安楽死の同意は両親が代理して契約するのよ。子どもは両親の所有物だから。死んだら後は自動的に臓器が運ばれて移植する。親は涙を浮かべて「せめて子どもの臓器が生きていけるように」との美談な茶番。医師も臓器を待っている人もめでたしめでたし…って、それじゃいかんでしょ! でもオデが「いかん」と思ってることに限って未開のビジネスチャンスはあるからな。「この世は金ばかり」の常識を打破しないとね。

 「人は運命に抗いながら生きる」って? 精神的・形而上学的には賛成だけど、医療技術で金と労力を費やして本人は平穏に漫然に生活を再開するのは絶対反対。新しい文学・芸術作品は楽しく平和なときには生まれることはないが、激しい慢性的な苦痛や死の瀬戸際にならないと誕生しないと思う。これはオデの持論だ。