『キルラキル』と「幼体成熟」

初見で少し気になって、時間をおいて『キルラキル(2013~2014)』をもう一度見直した。

キルラキル」は「人と服」がテーマとなり、「着る/着られる(あるいは斬る/斬られる)」という言葉遊びの凝縮したタイトルとなっている。日本のTVアニメは「戦闘美少女」のハードルがある(「女子高生、セーラー服」がないと視聴率を稼げない)が、それを上回る内容になっていると思う。

面白い部分はアニメに置いといて、面白くないほうをオデがこれから書いていこう。

 

そもそもなぜ日本では「衣」ではなく「服」と呼ぶのだろうか。辞書を調べると「1:身につけるもの。きもの。特に、洋服。『服を着る』。2:身につける。おびる。『服佩(ふくはい)』」となっている。「服」という字は容易に「服従、屈服、克服、征服(制服)」と聯想できる。

REVOCSコーポレーションCEO鬼龍院羅暁の目論見は「地球を生命繊維(特殊な布)で覆う(世界征服する)」ことで、それに抵抗する纏流子と鬼龍院皐月は姉妹である。ここには目に見える戦闘や格闘だけでなく心理的葛藤があるが、それは後述する。

服を身に着けるのはヒトだけである。メキシコサンショウウオ(流通名ウーパールーパー)のように、大人になっても毛皮も爪も牙も生えない。幼体成熟(ネオテニー)とは、幼生の形態を残したまま性成熟することを指す。

 

 

大学時代、放送作家になろうとしていたサークルの先輩が「自分の書くもの(創作物)は皮膚に近いか? 服に近いか?」と自問した。服なら流行に合わせて取り換えがきくが、皮膚は張りついてどうにもならない。オデは答えられなかったし、今でも答えられないでいる。『キルラキル』のテーマが、どこかに引っかかっている。おそらく製作スタッフ陣も切実に自問自答しながらアニメを完成させたのだと思う。

受け手としては、限りなく皮膚に近い創作物が結構好きだ。噛めば噛むほど旨味が出てくるからだ。作り手としてはどうなのだろうか。それは自分で決められることではないような気がする。

これからも『キルラキル』を見ようと思う。何度見ても発見がある。作り手は苦し紛れかもしれないが、オデには大きなヒントがある。