ホピ族の予言と衆議院選挙の話

 私はもうすぐ五十路の女で、独身、恋人なし。ついでに無職で身体障害者である。あと一つ増えたら萬貫で、老化の深刻な病を発症したら役萬ハネ萬だ。がしかし、「将来に不安を感じる」どころではなく「お先真っ暗」だが、私は「そのうちなんとかなる」と楽観視しているし、実際「なんとかなった」のだ。たとえば、一人暮らしの障害者は一人では暮らせないが、訪問介護制度を活用すれば何でもできる。


 これは今まで誰にも云ったことはないが、脳梗塞を発症してすぐに、「あ。セックスできないかも」と思った。暇なときオナニーして麻痺した手脚が勝手に収縮し、「面白い! 今の身体でセックスしたらどうなるんだろう?」と少しワクワクした。ちなみにセックスは一度もやってない。パートナーもほしいとは思わない。デリヘル嬢を依頼して性欲を満足すると個人的には解決だが、私は「身体障害者の性」と「性的少数者の橋渡しをしたいと思っている(ということは、「身体障害者の性」と「性的少数者の間には見えない大きな溝がある)。身体障害者ヘテロしか見つからないし、特に女性の身体障害者は性をタブー視しており、窮屈な思いをしているのではないかと懸念している。私がそうだったからだ。


 かつて健体者だった私はオープンリーなクイアだった。ところが、医療と福祉は私のアイデンティティを脅かすものだと感じた。特に、退院して自宅療養にシフトした私は、ケアワーカー、ケアマネージャー、ヘルパー、訪問看護や訪問リハビリなど、私の生活をより快適に過ごすようにする要員が揃っていた。週に2回通ってくるヘルパーには、私はなぜか窮屈な感じがしていた。ここは私のパーソナルスペースなのに。


 中途障害者の私でさえ不自由で窮屈だと感じたというのに、生まれたときからの身体障害者なら、ここに家族が入ってなおさらがんじがらめにされているだろう。そんなあなたたちに云いたい。現状で満足してはいけない、環境は変えられる、と。


 高校時代の友人で同人誌を書いていた中心人物が、「小説のテーマでタブーなのは、誰かが死ぬのとセックスすることだ」と云った。理由は知らない。誰かの引用かもしれないが、当初は軽く聞き流していた。しかし、今になって思えば、死ぬことと恋愛することは安直で身近なドラマであり(世の中で死と恋愛は同時多発的に起こっており、凡庸でありふれている)、読者は容易に感情移入し感動するからではないのか。


 誰だって肉親や友人同僚の死は傷ましくて悲しいし、誰だって自分が恋愛したらロマンティックにときめくのに決まっている。だが感傷と恋愛感情ほど凡庸なものはないと繰り返して私は書く。それが脚本家や小説家は自覚しており(あるいは視聴者または読者に受けると目論んでいる)知人の死と誰かと恋愛することをストーリー設定に持ち込むことは逃げでしかない。親兄弟は血のつながった他人だし、愛は執着にすぎないと私は思っており、言語障害があるので喋るのが面倒臭いし、脳に負担がかかって疲労するから、私はパートナーというものを求めていない。だから私は葬儀のシーンとラブシーンではなんだか白々しい気分になる。読者と視聴者を馬鹿にするなと思う。


 その同人誌で私も二、三度投稿したが、同じ冊子で「同性愛は不毛である」という雑文を書いた人がいた。それを読んだ私は「異性愛だって不毛じゃないか。同性愛をいちいちクローズアップするな」と思ったが、面倒臭くて直談判は避けた。そのころの私は同性とつきあっていたので、どうやら噂が流れたらしい。妄想創作系腐女子ホモフォビアであることは今も昔も変わらない


 さきほど読んだ倉橋由美子全作品集8巻の「作品ノート」で、「『自主規制』第二項」として、「自分だけで経験したことを逐一報告しても始まらない。例えば山中で大蛇に呑まれてその腹を切り裂いて出てきた話とか空飛ぶ円盤を見た話とか難病にかかって苦しんだ話とかは、本人にとっては大変な経験であろうが、他人から見れば痛くも痒くもない」とある(ちなみに「自主規制」第一項は「自分と他人とが関係して起こったことをそのまま小説に書いてはならない」。これは相手の了承なしにプライベートを公表するなということで、私も同意である)。私がここで書こうとしているのは「難病で苦しんだ話」だろうか? それはともかくとして、かの倉橋御大の逆鱗に触れるかもしれないし、見向きもされないし、そもそも絶対に読まれることはないだろう(もうお亡くなりなっているから)。


 私がここで書こうとしているのは、脳梗塞の後遺症の経過報告である。病人といえばそうかもしれないが、自分としては怪我人くらいの感覚である。片麻痺と云えば多くの人たちが「手脚が動かない」と思うだろうが、動かないのに加えて左側の腹筋と背筋であり、首であり顔である。振り向こうとしてもうまく振り向けないし、もともと口笛は得意だが現在では口蓋の構造が変わってしまい、ほとんど吹けないし、音階も狭い。口のなかで響かせるには唇の位置を変えて工夫するしかない。でもこれは苦しい話だろうか?


 動かないのは不自由で不便だが、身体の変わりようを私は興味深いと思っている。脳神経が壊れるときは一瞬だが、回復しつつあるときには身体のどこからどのように回復するのか自分なりに検証したい。脚と腕では脚のほうが早く回復するらしいが(例外も稀にあるし、リハビリなしで唐突に回復した事例も知っている)、発症から7年経った私の身体は、杖を使ってやっと歩行ができる程度である。右脳の運動神経はいったん失ったが、怠けつつもリハビリを行うなかで、右脳のニューロン細胞はニョキニョキと生え出し、今は左脚の運動神経の成り損ないであろうとイメージしている。なぜなら、脚は動かないこともないが、力が出ないし、思い通りには動かない。腕も脚も体幹に近い付け根から動き出す。末端はまだ先である。自分の手足の動きの変化を見ていると、そのまま脳神経の動きのようである。今は「共同運動」が先だが、そのうち「分離運動」が起こってくる。これは運動神経の発達だと思っている。右側を動かすと同時に左側にも強張りが起こるが、これは筋肉が連動しているせいだろう。


 私は半身の神経を失ったが、まだ健全な部分が残っている。私の場合、左側は廃用症候群であり、右側が過用症候群である。つまり、左側が動かないため使われなさすぎて浮腫み、皮膚が湿潤液で満たされていて触ると痛いし、夏も冬も皮膚が冷たいし、右側は使われすぎで節々が痛いのである。


 片方が使い物にならなくなれば、もう片方だけで使うほかない。そもそも人間の身体、生き物の身体は、なぜ右と左と二つあるのだろうか?


生き物の身体は、ちょうどまっぷたつになる。プラトンの『饗宴』によると、エロス賛美の前にアリストファネスがこう云った。人間の身体はもともと手脚が四本ずつあり、頭が二つあった(「人間球体説」)が、神ゼウスの怒りに触れ、その罰としてまっぷたつに別れてしまった。人が人を愛するのは元来の形状を求めるせいである、とあるが、これはお伽噺だと思ったほうがいい。ちなみにこの球体には、男女、男男、女女があり、異性愛だけでなく同性愛や両性愛の根拠にもなると解釈する人もいる。


 世の中には二元論というものがある。天と地、善と悪、光と闇、火と水、女と男、精神と肉体、感情と理性、内と外、人工と自然、文系と理系、右派と左派、タカ派ハト派、保守と革新、衆議院参議院などなど。中国の古代思想には五行思想(水・金・土・木・火)があるが、現代日本はすでに曜日くらいしか名残がない。それに対して西洋では四大元素説があり、比較される思想である。エンペドクレスが最初に説き、続いてアリストテレスの説がもっとも広く支持された。四元素を構成する「温・冷・湿・乾」は四性質とも呼ばれており、物質そのものではなく物質の性質を表していたが、洋の東西を問わず、この思想はもはや廃れており、その代わりに二元論に基づく二項対立が思想のうえでも政治のうえでも日々の日常会話でも、現代人の薄っぺらい思想では、白黒つけずにはいられないものである。


 もしかしたら、この世はバランスを失った世界かもしれない。手は両方あるのに、右利きの人がメジャーであり、男女平等はお題目にすぎず、どうしても男のほうが優勢であり、自然はどんどん失われ人工物ばかりが出現していて、地球環境が深刻な影響を与えている。人類は原子力開発に成功したが、その成功と栄誉が滅亡となるかもしれない。前述した「同性愛は不毛」の理由は「異性愛者は子どもを生めるから」というありふれたものだが、人口爆発しかねない現代では、「子どもを生む」ことが元凶になるのかもしれない。


コヤニスカッツィ/平衡を失った世界(1982)』は、ナレーションを一切使わず、ただ流れてくる映像を早回ししている。現代音楽(ミニマルミュージック)のフィリップ・グラスは素晴らしいメロディーを繰り返している。内容としては、アメリカの原風景から始まって開拓され、都市になっていき、ひたすらスクラップ&ビルドの繰り返しで自然を壊し続けるという、文明社会への警鐘であり、現代を批判・風刺したドキュメンタリー映画であり、「21世紀の映像黙示録」である。タイトルの「コヤニスカッツィ」とは、ホピ族(アメリカ・インディアンの部族のひとつ)の言葉で「常軌を逸し、混乱した生活。平衡を失った世界。他の生きかたを脅かす生きかた」の意。


 ホピ族の預言は当たっていると私は思う。この預言を公開するため、第二次世界大戦終了後、ホピ族の長老トーマス・パニャック氏は、人類に対する警告書として、ある預言を国連本部に送った。次の文章である。

「現在の世界は、まず白い肌の人間の文明が栄える。次第に彼らはおごり高ぶり、まるで地上の支配者になったように振舞う。白い兄弟は馬に曳かれる車に乗ってやってきて、ホピ族が幸せに暮らしている土地を侵略する。その後、大地は、馬に曳かれない車の車輪の声で満たされるだろう。そして、牛のような姿で大きな角を生やした獣が多数現れるだろう。次に、白い肌の人間は『空の道』を作り、空中に『くもの巣』をはり、陸上にも『鉄の蛇』が走る無数の線を張りめぐらす。やがて、『第一の炎の輪』の中での戦いが始まり、しばらくすると、『第二の炎の輪』の中でも戦う。そのとき白い兄弟たちは恐ろしい『ひょうたんの灰』を発明する。この灰は川を煮えたぎらせ、黒い雨を降らせ、不治の奇病をはやらせ、大地を焼き尽くして、その後何年も草一本生えないようにする。そして白い肌の人間たちは、空のかなたで見つめるタイオワ(グレート・スピリット)の怒りと、警告に気づかず、ますますおごり高ぶって、とうとう『月にはしごをかける』までになる。この段階でタイオワは『第四の世界(ホピ族では、この世界を第四の世界と呼び、今まで第一、第二、第三の世界は滅んでいるという)』を滅ぼすことを決意する。その時期は、『空に大きな家を作るとき』である。そして、地上の天国で、大きな墜落で落ちる住居のことを聞くだろう。そしてそれは青い星として現れるだろう。この後すぐに、私の民の儀式は中止される」

 
 これを読んで、思い当たることはないだろうか。現代人は目の前の現実、つまり金や収入だけを見て、予感や直観は鈍ってしまい、やがて起こる危機に気づかずに滅んでしまう。日本は原子爆弾を落とされた唯一の国で、東北大地震によって原発の痛手を負ったのだから、政治家は「原発反対」と主張することは容易い。しかし、アメリカは原発産業を推進している国なので、いざ日米交渉の際に誰一人主張できないだろうと私は思う。なぜなら日本は、原爆を二度落とされた敗戦国だから。ならば、なぜ今、政治家はこぞって「原発反対」という耳障りのよい言葉を主張するのか? それは日本国民にとってもっとも賛同・迎合しやすい合い言葉だからである。政治家は二枚舌であることを忘れてはいけない。アメリカが悪いとは思わないが、アメリカは狂っていると思う。その狂気にひきずられないようにするには、どうするべきか?

 さあみなさん。みなさんにできることは、各政党サイトをじっくり読んで、選挙に行くしかないのですよ!