中島みゆきはオデが育てた(2)

「鳥になって(1982年)」

数多ある「中島みゆき論」のなかで、オデがもっとも秀逸だと思ったのは、呉智英中島みゆき中山みきである」(『中島みゆき ミラクルアイランド』所収、1986年、新潮社文庫)である。

「中島は、近代的自我にとって条理としてあるように教えられてきた恋愛が、近代的自我にとって最大の不条理になるという逆説を、身を削るようにして歌っているのだ」(同掲書)


中島みゆきの歌詞で、その端的な例を挙げよう。
ちなみに呉智英は「化粧」を事例に挙げているが、オデは「鳥になって」を挙げたい。



「鳥になって」作詞/作曲/歌手:中島みゆき


【動画】(中島みゆきオリジナル曲がない! みんなカバーばっかり!!)



愛したひとの数だけ愛されるひとはいない
落ち葉の積もる窓辺はいつも同じ場所と限るもの
あなたがとうに昔を忘れたと思っていた
窓にうつった私の影はとても誰かに似ていた


眠り薬をください 私にも
子どもの国へ帰れるくらい
あなたのことも 私のことも
思い出せなくなりたい


流れる心まかせて 波にオールを離せば
悲しいだけの答えが見える
すれ違う舟が見える
誰も眠りの中まで嘘は持ってはいけない
眠る額に頬寄せたとき
あなたは彼女を呼んだ


眠り薬をください 私にも
子どもの国へ帰れるくらい
私は早く ここを去りたい
できるなら鳥になって


眠り薬をください 私にも
子どもの国へ帰れるくらい
私は早く ここを去りたい
できるなら鳥になって


私は早く ここを去りたい
できるなら鳥になって

「愛は、近代において自明なこととしてある。何故ならば、愛を成立させる個人が既に自明なものとしてあるからだ。個人にしろ愛にしろ、それは近代原理の条理性の由来であり同時に結果である。だから、『化粧なんてどうでもいいと思ってきた』のだ。そして、他の新興音楽でも『化粧なんてどうでもいいと思って“いる”』と、まだ楽天的にも現在形で歌われているのだ。
 だが、自明なものとしての自我をもう一歩進めた時、条理としての愛は突然、残酷なまでの不条理性を示す。愛は少しも自明でなく、何故<あたし>は愛してもらえないのか、と。何の条理性も示さない」(同掲書)

つづく。