モンスターなテイコさん、エイリアンなススムさん(6)

つづき。

ススムさんのお父さん(オデにとってはお爺ちゃん。栄一さんといいます)が太平洋戦争でアッツ島に送られ、全隊員死亡の知らせを受けました。遺骨は何もなく、栄一さんが吹き飛ばされた後、傍に残っていた小石が送られてきました。栄一さんはすでに結婚しており、お母さん(オデにとってはお婆ちゃん)のお腹のなかにススムさんが宿っており、生まれる前に栄一さんが戦死したといいます。当時、栄一さんは25歳でした。つまり、ススムさんは栄一さんの顔を見ていません。
栄一さんは戦場に行く前、妻と祖父母と、生まれてくる子ども(ススムさん)に宛てて、達筆で流暢な手紙を書きました。
ススムさんはその手紙を読むたび涙ぐんでいましたが、テイコさんは完全にバカにしていました。
お母さんはススムさんを生んで育てようとしましたが、ススムさんの祖父母(オデからは曾祖父母)が、「あなたはまだ若いのだから、赤ちゃんを置いていって、まっさらになった身体でもう一度再婚したほうがよい」と勧められ、漁師の石川さんのところにお嫁さんに行きました(これでお婆ちゃんは「石川の婆ちゃん」とススムさんに言われていました)。子どもも3人生まれました。

ところが、石川さんは網元の家なので、新しく作った舟で進水式のお祝いをしました。石川のお婆ちゃんたちは、海から帰ってくる漁師たちに、特別に美味しい料理を作って待っていました。しかし、当日は大シケで海が荒れ、舟が沈み、漁師たちは一人も帰ってはきませんでした。

いきなり寡婦になった石川の婆ちゃん(ススムさんのお母さん)は、元の祖父母(ススムさんの祖父母。惣一郎さんとチヨさん)を頼って戻りました。祖父母は小さな果樹園をやりながら(果樹園をやるということは、土地がやせ細り、平地ではなくて斜面だから、もうそれしか残っている土地がなかった、とススムさんは言います)、細々と暮らしていましたが、それでも祖父母は受け入れました。ススムさんと石川さんのお母さんと3人の子どもたち(異父妹弟)がいて、共に暮らしました。

そこで、思春期になった異父妹とススムさんが、ただならぬ関係になったといいます(まるで中上健次の小説みたいだわぁ♪)。

ススムさんがテイコさんと結婚するとき、石川の婆ちゃんが異父妹の手紙を代理でススムさんに渡しました。「ススムさん、行かないでほしい。結婚するなんて私は悲しい」手紙を読んだススムさんは何気なく貸衣装の服のポケットに入れました。相変わらず雑ですね。

テイコさんは貸衣装のポケットの手紙を読み、怒りに震えました。このときが二人の結婚の挫折だったといいます。

それからというものの、テイコさんのリベンジは執拗に続きました。ススムさんが仕事で一生懸命働いているのに、「今日はどこの女と浮気してきたのか?!」と問いつめました。ススムさんも応戦しました。口喧嘩ではなく、ふたりとも実行力を持っていたのです。
オデは夫婦喧嘩が嫌で、自分の部屋にいつもいつも閉じこもっていました。床も壁も喧嘩の騒音が響きます。オデは家を出て自転車で走りました。冬はさすがに大雪で自転車は漕げないので、寒い夜、オデはオーバーを着込んで長い雪道をトボトボ歩いていました。

そもそも、12歳の年が離れている(テイコさんが年上!)のに、なぜ結婚したかというと、職場恋愛だったのです。テイコさんもかつては家政科の教師でした。当時はススムさんよりテイコさんのほうが給料が多かったので、テイコさんは優越感から、「これ(金)持って浮気しな!」とススムさんに言い、言葉通りに従って、彼が「今日、浮気してきた」と言うと、テイコさんがマジで激怒(げきおこ)したといいます。なんというフリーダムな夫婦でしょう。いま聞くとまるでジョークかコントのようです。

テイコさんはすでにフミカさんを産んで育てていましたが、それでも働いていました。ちょうどオデが宿ったとき、ススムさんが転勤になったので、テイコさんは仕事を辞めてススムさんについていきました。夫婦ともに教員だったとしても、当時は転勤や異動が別々だったのです。

テイコ「父さんはね、『お願いだから俺についてきてくれ』って土下座したんだからね!」

オデもフミカさんも話半分に聞き流していました。ススムさんが「泊まり(寄宿学生の管理担当)」のときに、必ずと言っていいほど彼の悪口を話しました。オデは、「母さん、父さんにそんなに不満があるならさっさと離婚しなよ」と言いました。確かオデが小6のときでした。テイコさんは、「いや、母さんは絶対に離婚はしない。退職金をもらうまでは!」

…そうか、あなたの「金銭中心主義」は昔からだったのですね。

父親が留守のとき、母親も姉もオデも悪口大会に参加していましたが、オデがいないときにはどうなんだろうね? とフミカさんに聞きました。「まあ、あんたの悪口も言うね」と彼女はポロリと答えました。そうか、フミカさんもまた裏切り者だったのかと、オデは冷静に思いました。

(あ。ススムさんの話が違っていたと書きましたが、テイコさんの話が逆に強化されただけでした。どうもすみません)

オデが大学受験のとき、テイコさんは、「これで子育て卒業した!\(^o^)/ 後はあたしの好きなように生きるわ!」と宣言し、こともあろうに詩吟をはじめました。絶対、テイコさんの嫌がらせに違いないと思います。
(今までだって好きなように生きてきたじゃないかよ!)

朝でも夜でも詩吟ばっかり歌って、オデはキチガイになりそうでした。

結局オデは、「こうなったら東京の大学に行くしかない!」と決め、合格して上京しました。なぜかそのときはテイコさんも応援しました(ススムさんは、「何も東京でなくても北国の都市でいい」と反対したそうです)。

オデが上京するとき、「東京の大学に行ったら、必ず教員免許の資格をとりなさい。教員は一生恩給がとれるからね!」とテイコさんは言って、オデは素直に「はい♡」と答えましたが、内心では「だ〜れがとるか!」と密かに裏切っていました。「教員の子どもはひねくれる」という、教員の子どもたちが次々と証言していましたからね。オデは子どもは産みませんけど。

オデは何度か東京に行きました。一度目は受験で、二度目は大学の学生課でマンションの契約をし、三度目はそのマンションに越してきたことです。季節は3月の中旬でしたから、ベッドだけがあって掛け布団がまだ届いてない生活で、寒くてたまらないオデは、エアコンをつけてコートをかけて震えて眠りました。オデは東京の春を舐めてました。(いくら新築のマンションとはいえ、サッシが二重になっていない!!)

でも、なんという解☆放☆感!
そのうち、地方出身の友だちも増えてきました。5月くらいになると、かれらはみなホームシックにかかり、盆や正月だけでなく、関東圏出身のひとはたびたび週末にも帰省しました。オデは「絶対に帰るもんか! あんなとこ年とって帰ったら寒くて凍えて死にそう! 北国のひとは帰巣本能が弱いらしいからね!」と思っていましたが、沖縄出身のひとが、「ええ〜? 若いうちは東京でしこたま遊んで、年とったら故郷でエンジョイでしょう絶対に!」…それはあなたが沖縄出身だからだと思いますよ。北国と沖縄じゃ歴史も文化も形成のされかたが異なりますしね。(でも沖縄人とアイヌ人は共通点があって、もともとは同じ共通の遺伝子を持っているという説も聞きましたが、オデはアイヌ人というより朝鮮人のほうがしっくりきます。アイヌ人も尊敬しますし、そのクマの扱われかたも敬意を表します)

とにかく、オデは一人暮らしが気に入りました。好きなときにトイレに入れるし、トイレのドアは開けっ放しでいいし、お風呂でも素っ裸でいられますから。ちなみに掃除や料理も選択も昔から大得意でした。同じアパートに住む友だちとよく集まって、プチ宴会をしたことも何度かあります(おめーら勉強しろや!)。

つづく。