石原有記さんの来た道ゆく道(1)


インタビューシリーズ第2弾は、1978年に『薄荷煙草』でメジャーデビューした石原有記(デビュー時は石原祐)さんの登場です。幼少時の思い出にはじまり、デビュー前のやんちゃな(?)時代、メジャー路線から離れ、銀座のクラブ経営で手腕を発揮した時代、そしてライブ活動を再開した現在に至るまで(もちろんLな経験談も含めて)、じっくりお話をうかがいました(取材・文/ミヤマアキラ)。


●スポーツと音楽が同時進行の学生時代

1955年1月12日、東京都文京区に生まれ、3歳から大田区に転居。小学4年から6年まで合唱団にいたが、音符を読むのが大嫌いだった。コールユーブンゲンやコンコーネを嫌々やっていた。合唱でクラシックをやったあと、中学生になると親父がギターを買ってくれて、フォークソングをはじめた。サイモン&ガーファンクルジョーン・バエズのレコードを聴いて、コピーして歌っていた。

小学校のときは水泳をやっていて、そのころは本気でオリンピックを目指そうと考えていた。大田区の大会で6位に入賞したこともあった。最初はブレスト(平泳ぎ)、のちに個人メドレーもやるようになったので、全種目泳いでいた。中学の途中で千葉県に引っ越し、転校先にはプールがなかったので、中高時代はずっとバレーボール。高校は関東大会に進出するレベルだったので、練習はビシバシと厳しかった。

高校に入るとワンランクあがって、同級生と組んでデュエットをするようになる。スポーツもやっていたが、その裏側では音楽をやっていた。日本のものでは、井上陽水岡林信康紙ふうせんあたりをよくコピーした。ふたりだとハーモニーがきれいになる。パートは特に固定しないで、曲によって主旋律を歌ったり、ハモるパートを歌ったりして、文化祭で発表した。初めてオリジナル曲をつくったのも高校時代だったが、どこにも発表せず、ひとりで弾き語りをして楽しんでいた。そのころの曲は譜面に残していないので、おぼろげにしか記憶に残っていない。

高校時代はフォーク全盛期。フォークで活躍した70年安保の世代は、私たちよりワンジェネレーション上だった。もっとも影響を受けたのは岡林信康。特に『手紙』を聴いたときにはものすごい衝撃を受けた。自分の恋愛うんぬんよりも、世の中にはこういう社会問題があるのだと初めて知ったし、それを歌にしてしまうのもすごいと思った。


●大阪はゲイバーやオナベバーの本場

高校を出てから、周りの子たちは大学に進学したり就職したりと行き先が決まっていたが、自分はなにひとつ決まっていなかった。当時から背が高くて(170センチ)細かったせいもあって、某モデルクラブに所属して舞台の端役などの仕事をもらっていた。18歳のとき、別府(大分)の杉乃井パレスが初舞台だった。そこで1ヶ月舞台に出て、事務所の先輩がいる横浜でアルバイトをし、19歳から22歳のなかばまでは大阪にいた。

大阪では弾き語りの仕事をしていた。当時は女性の弾き語りはほとんどいなかったせいか、けっこうどこでも貴重がられて引っ張りだこだった。新地のクラブには少し早めの時間に入り、20時から24時まで30分おきに演奏した。24時からはナイトタイムで、いまで言うオナベバーで歌っていた。自分が演奏していたお店はいまはもうないけれど、当時働いていたひとたちが自分で店を出してつづけている。

大阪はゲイバーやオナベバーの本場。新宿2丁目より歴史が古くて、当時から文化が栄えていた。当時の私は弾き語りの立場だったので、あまり服装には気を使わなかったけれど、バーの店員さんはみんなオーダーメイドの色鮮やかなスーツを着ていた。1着10数万円〜20万円前後のスーツを月賦で支払っていたという。遅い時間に営業しているのはオナベバー系だけだったので、そこにはよく宝塚(歌劇学校)の子たちが遊びにきていた。関西テレビの収録が毎週近くであって、収録後にはいつも来ていた。

年代的に、見るもの聞くものみんな面白くて、麻雀を覚えたのもこのころだった。寝ないで仕事をしても身体がもつ年ごろだったので、意欲的に遊ばせていただいた時代だった。若いころは自分と同年代よりも年上のひとにばかり憧れの目が向いていた。いま考えれば19や20は超ガキだけれど、それでも30歳以上とか、ときには40歳くらいとか、自分の母親よりちょっと下くらいまでは範疇に入っていた。


●「女ジュリー」でメジャーデビュー

22歳のとき、「大阪で面白いやつが弾き語りをしている」という噂を聞きつけて、東京からRCAレコード(現ソニーBMGミュージックエンタテインメント)のひとがステージを見にきた。レコードを出さないかと誘われたが、こどもながらにもしっかりと「お金かかるの?」と聞き返した。「メジャーな会社から出すならお金は一切かからない。その代わり、事務所に所属することになる」と言われた。もともと東京の生まれ育ちなので、そろそろ一度ホームに戻ってもいいかなと思ってOKした。

当時のRCAレコードではおそらく第1号の新人歌手デビュー。社内に「石原祐プロジェクト」(「石原祐」はデビュー当時の芸名)をつくり、当時の金額でも億単位(想定)のお金をかけ、社運を賭けて、鳴り物入りでやっていただいた。けれども、当時の私はそのありがたみや重大さを認識するどころか、大切にされているからこそのタブーや締め付けの厳しさにうんざりしていた。デビュー当時の私はすでに23歳で、世の中の半分くらいはわかっていて、斜に構えて世間を見ていたくらいなのに、「煙草は吸っていないと言いなさい」「年齢は20歳だと言いなさい」と言われ、「なんで?」と反発していた。

所属事務所は後から決まった。菅原洋一さん、伊藤ゆかりさん、しばたはつみさんなどが所属する小澤音楽事務所。日本の歌謡界でもかなり正統派の歌手がそろった事務所で、小澤社長は当時、社団法人日本音楽事業者協会音事協)の会長をやっていた。そんな超真面目な事務所の所属歌手となり、会社が六本木にあったので、その近くに住まいを提供していただいた。

デビュー曲の『薄荷煙草』(1978)は、昨年お亡くなりになった阿久悠さん作詞、大野克夫さん作曲、船山基紀さん編曲。この3人は、前年にレコード大賞を受賞した沢田研二(ジュリー)さん『勝手にしやがれ』の作家さんたち。私は「女ジュリー」みたいなイメージで売り出されたが、世の中半分知っていながらちょっとアイドル扱いというところにズレがあり、なにかと事務所の意向に反抗的だった。事務所的にも扱いにくい新人だったと思う。いまにして思えばとてもありがたい処遇だったけれども、当時はまだまだこどもだったので、メジャーデビューすることの大変さも意義もあまり感じられず、4年後に事務所をぽんと辞めてアンダーグランドに潜った。

<つづく>