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第3回「トランスなクィア、ストレートなクィア?」(2)

ジェンダーには本質も根拠もない

バトラーのいうジェンダーとは、自然で本質的な根拠があるわけではないにもかかわらず、パフォーマティヴな作用を通じて規範として実体化するものである。つまり、現実的にがっちり機能を果たし、強制力を持ってひとびとの生活を支配し、自分が男であるか女であるか、アイデンティフィケーションの選択を規定する力を持つ、ということである。

したがって、ジェンダーに根拠があるというのは幻想である。ジェンダーにはなんの根拠もない。ただし同時に、ジェンダーに根拠はないけれども、だからといって個々人の抱く「ジェンダー化されているという感覚」やジェンダー自認がリアルではないというわけでもないし、個々人が勝手にジェンダー規範を変えることができるわけでもない。幻想であるのだけれども、にもかかわらず、「今日から僕は男をやめます」と言ってそのままで済むという問題でもない。幻想にもかかわらず、強制力はリアルである。

ジェンダーにはなんらかの本質があると考えれば、その本質からずれたジェンダーには正当性がないことになってしまう。たとえば、ジェンダーの根拠は遺伝子にあるのだといってしまうと、XXあるいはXYという組み合わせからちょっとでも外れていれば正当に女とは/男とは認められない、ということになる。だから、ジェンダーに根拠がないということは、バトラーの主張においてはかなり重要なものであるといえる。

しかし、繰り返しになるが、ジェンダーに根拠がないからといって、ジェンダーがどうでもいいものだということにはならないし、ジェンダーは個々人の判断や決定でどうにでもなるということにもならない。「自分は女(男)だと周りから思われているけれども、実は男(女)である」と思うことはもちろん可能だが、そのような単発の判断や決断によってジェンダー規範が変わるわけでもない。そこには、厳然としてなんらかの強制力が働いていて、個々の人間がそう簡単に動けないような仕組みができている。個人の意識と仕組みの認識とをふたつ同時に見ていこうとしたのが、バトラーのジェンダー論(ジェンダーはセックスを根拠にしてはいないがパフォーマティヴに強制力を持って構築されるものであるという主張)である。


●本質がないにもかかわらず、規範は永遠に変わらないのか?

ジェンダー規範は個人の意図で今日からいきなり変えられる」というのは、感覚的にもちょっと現実的ではないし、理論的にも成立しない。私一人が今日から「男とはこういうものです」と言って、それで社会の規範認識が変わるようでは、それはそもそも規範とはいえない。だが、だからといって、規範は永遠に変わらないのかというと、歴史的に見てそんなことはなかったし、理論的にも規範をそれほど固定的なものとしてとらえることには魅力がない。

ジェンダーには根拠がないにもかかわらず強制力がある。そして、個人の意志と単発の行為とでジェンダー規範を変えることはできない。ここまでだと、「規範というものはどんなにがんばっても変わらないのだ」という結論で終わってしまう。しかし、バトラーは、「変えられる」と言いたかった。

ジェンダーはパフォーマティヴに構築されている」という主張は、ここで効いてくる。引用と反復によってジェンダーがパフォーマティヴに構築されるということは、人間がつねに規範を引用して反復しつづけることで規範がどんどん強化されるということでもあるが、裏をかえせば、規範とは絶えず引用・反復されなくてはいけないものだということでもある。

つまり、引用・反復をされなくなってしまったら、規範の規範としての効力は失われる。みんなが正確に引用・反復をおこなうからこそ力が続くわけで、引用・反復が正確でなくなれば、規範自体も安定したものではなくなっていく。


●規範に根拠や実体があるなら、引用・反復は必要ない

ジェンダー規範には根拠となる実体がない、というのがポイントである。実体がないからこそ引用と反復を繰り返して自己を正当化しなければならないのが規範というものなのだ、とバトラーはいう。

わかりやすい例をあげると、学校の教科書に同性愛に関する情報を掲載するか否かを議論するときに、「男女の自然な特性に反する特殊な生きかたを奨励するのはよくない」「自然の摂理に反するようなありかたを公の場で奨励してはいけない」という主張が出てくることが多い。しかし、男女がつがいになることが本当に自然の摂理であるならば、教科書に同性カップルをいくら紹介しようとも自然の摂理に則って男女のつがいばかりが生まれるはずである。あるいは、女性がこどもの面倒をみる(女性には母性本能が備わっている)のが自然の摂理であれば、それに反するような内容の教科書や授業があったとしても、女性はみな自然の摂理に従ってみんなこどもを産んで大事に育てるはずである。

規範に確固たる根拠があるのであれば、規範からずれるような教育も行動も放っておけばいい。ところが、実際には放っておけない。まさにそのことが、規範はけっして自然の摂理ではないということを示している。

男女が惹かれ合いつがいになることが人間の自然な本質であるなら、なにが起ころうともなんの影響も受けないはずだが、本質ではないから、一生懸命に「あれは本質ではないからダメ」「これも本質に反するから許されない」と言わないといけない。ある特定のジェンダーのありかたを引用・反復させるように強制していかなければ、現在のジェンダー体制、規範は維持できない。

したがってバトラーは、「規範は強制力を持っているが、変更できないものではないと理論的にいうことができる」と考えている。それは理論を組み立てるうえではとても大事なポイントである。


●オリジナルの完全忠実なコピーは不可能

さらに、規範の忠実な引用・反復ということは、原理的にありえない。オリジナルとは、起源であると同時に独特で唯一のものである。したがって、オリジナルの完全に忠実なコピーができるとすれば、それはオリジナルのオリジナル性が失われるということである。つまり、コピーができた段階で、オリジナルというものは、もともとのもの(オリジナル)から変容してしまう。したがって、オリジナルを完全に忠実にコピーすることはできない。

引用ということを考えても同じことがいえる。私がいまここで述べたことを、ここにいるだれかが引用してさらに他のだれかに述べたとする。そのときには、言っている文脈、ひと、言われている相手などがそれぞれ違う。まったく同じように一言一句違わずに引用したとしても、その引用はもとの発言とは同じものではなくなる。


ジェンダー規範は絶えず変質の可能性にさらされている

それと同じことが規範についてもいえるだろう、とバトラーはいう。つまり、規範は引用された時点で、オリジナルとは違うものに変わっていく。しかも、異なる立場の人間がそれぞれ規範を引用するので、どういう引用が起きるかは規範自体にもコントロールできないし、しきれない。引用せよ、反復せよと命じることはできるけれども、たとえば「女らしくせよ」という規範を引用したときに、規範が思いもよらなかった形で女らしくなるひとが出てくるかもしれない。想定外の引用が起こる可能性はつねにある。

バトラーが使っている例をあげるとすると、ある女性が「おんならしさ」を引用したとしても、その「おんならしさ」を振り向ける相手が男性ではなくて女性であるような「おんならしさ」を引用するひとがあらわれるかもしれない。それは規範にはあらかじめ禁止できない部分である。引用をおこなったあとで再度の引用を禁じることはできるが、初めから防ぐことはできない。それは「おとこらしさ」も同じ。どういう形、どういう文脈でジェンダー規範が引用されるかを規範自体があらかじめ決めることは、不可能である。

つまり、パフォーマティヴにジェンダーが構築されており、ジェンダー規範が絶えず引用・反復されなくてはいけないとすれば、それはジェンダー規範が絶えず変質の可能性にさらされている、ということでもある。規範としては、自分をきちんと引用して強化していきたいし、それによって実際に強化されていく側面は確かに存在する。だた、それだけではなく、規範が再強化されていくその横から、同時並行的に、その規範がズレてしまうような力も必ず働いている。思ってもみなかった形で反復される可能性は絶対に排除できない。そこに規範が変わっていく可能性がある、というのがバトラーの議論である。

<つづく>