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第3回「トランスなクィア、ストレートなクィア?」(1)

●「自然」に基づくわけではないセックスが「自然」に感じられるのはなぜ?

前回解説したバトラーの「セックスはつねにすでにジェンダーである」という主張の補足から。バトラーのこの主張への批判として一般的に聞かれるのは、「セックスが人為的な意味づけであるとしても、身体的な差異はどうしたって存在する。それを否定はできない」というもの。バトラー自身も、「身体構造に差異はない」とは主張していない。さまざまな差異があるなかで、どの差異がどのような意味を持つのかを決めているのは人間である、と主張しているにすぎない。

さらにもうひとつ重要なこととして、「セックスはジェンダーである」としても、それは人間が自らの身体的な差異を認識しないということではないし、その認識があやまちであるとか重要ではないということでもない。自分の感覚として認識しうる身体的差異はすべて文化がつくったものだからどうでもいい、と言っているのではない。

バトラーが主張するのは、私たちが理解しているセックスというものは、あくまでも文化的な範疇のなかで区分して認識されるのだ、ということである。たとえば、乳房が大きい/小さい、ペニスがある/ない、こどもが産める/産めないなど、身体のどの差異に注目して人間を男と女の二種類に分けるかということを、私たちは文化を通じて学んでいるのであって、それは「自然」に基づくものではない。けれどもそのことは、たとえばあるひとが自分の身体を「男だと感じる」「女だと感じる」ときの感じかたそれ自体が「不自然」で「リアルではない」ということとは、違う。

一時期、バトラー自身はそこから議論をすすめて、性別化された身体感覚——特に性感帯——がいかにして異性愛規範によって生み出されたかについて、精神分析理論に基づいて論を展開していたが、近年では比重を他に移していて、この点についてはあまり言及されていない。あくまでも理論上のことであって、その理論を越えて証拠を示すことは不可能な分野なので、バトラーの説が正しいかどうかは永遠にわからないかもしれない。

「自然に基づくわけではない」セックスが「リアル」で「自然」に感じられるのはなぜか。そのあたりを説明するのが、「ジェンダーのパフォーマティヴィティ」という概念である。


ジェンダーのパフォーマティヴィティとは?

1)ジェンダーの根拠とはなにか?

ジェンダーのパフォーマティヴィティ」は、近年のフェミニズム系の文献を読むとひじょうに高い頻度で出てくる用語である。80年代あたりの感覚でいうと、ジェンダーの根拠としてセックスがある、というのが普通だった。つまり、人間を男/女というジェンダーによってふたつに分けるのは、人間という生物はオスとメスに分けられるからだ、と考えられる。もちろん、生物がオスとメスにきっぱり分けられるということ自体、生物学的にはかなり曖昧である。しかし、伝統的には、「セックスはオス/メスに明確に分けられる」「古今東西、人間という生物が存在する限り、その生物にはオスとメスという二種類があり、それに基づいて男と女がいる」と考えられていた。

「セックスはつねにすでにジェンダーである」と主張したバトラーは、その発想に異議を唱えたことになる。セックスがジェンダーの根拠なのではなく、ジェンダーがセックスの根拠なのだ。あらかじめセックスが決まっているからジェンダーが決まるのではなく、ジェンダーがあらかじめ決まっていて、その後からセックスが決まるのである。

そうなると今度は、「ジェンダーの根拠とは何なのか?」という話になる。ジェンダーがセックスの根拠であるとすると、にもかかわらず、あたかもセックスがジェンダーの根拠であるかのように振る舞いつづけることができたのはなぜなのか、について考える必要がある。

2)コピーとオリジナル

その際にバトラーが持ち出したのが、「コピー(引用)とオリジナル(原典)」の話。伝統的には、セックスというオリジナルがあって、ジェンダーとはいわばそれをコピーしたものであると考えられてきた。ところが、ここでジェンダーがセックスの根拠であるとすれば、ではセックスというコピーのオリジナルになっているジェンダーとはいったいどういうものなのか。それについてバトラーは、「ジェンダーは『オリジナルなきコピー』である」と述べる。つまり、ジェンダーの根拠などどこにもない、というわけである。

では、根拠のないものを、なぜ多くのひとたちは疑うことなく、あたかも根拠のあるものであるかのように感じて受け入れているのか。その疑問に対して、人間を男/女に区別するジェンダー規範というものは、絶え間なくコピー/引用されることで、規範としての実体を獲得するのだ、とバトラーはいう。

3)規範の引用・反復と、呼びかけ理論

人間が男もしくは女の振る舞いをするのは、ジェンダー規範をコピー/引用する行為である。しかも、それを日々の生活のなかで引用しつつ、男あるいは女として振る舞うたびに、その引用を反復している。そうしないと、規範によって「あなたはどこかおかしい」「間違えている」「異常である」と指摘される。規範は、それが機能する範囲にいる人間に対して、「この規範を守らなければいけない」という強制力を働かせる。だから、人間はジェンダー規範をつねに引用しつづけなければならない。さもないと社会的制裁を加えられるのである。

バトラーはこれらのことを、アルチュセールの呼びかけ理論を使って説明している。「あなたは男(女)である」という規範からの呼びかけに対して、「はい、私は男(女)です」と応じなければ、規範に従っていないことになってしまう。「あなたは男です」という呼びかけに、「いえ、私は女です」と応えたり「いえ、私は男でも女でもありません」と応えたりすると、「あなたは(この規範によって認められる)人間ではない」ということになりかねない。それが規範の働きである。「あなたが人間であるためには、男/女でなくてはならない」と働きかけるのである。

バトラーはその最初の呼びかけが、産院の医師や看護師が生まれたての赤ん坊を両親に会わせながら、「おめでとうございます、男(女)の赤ちゃんですよ」と述べる瞬間に象徴的にあらわれている、と指摘する。そこで赤ん坊の親が、「いや、男でも女でもないと思いますよ」と言ったら、実際問題として赤ん坊は社会に存在できなくなってしまう。現在のわれわれの社会においては、男か女かを登録しなければならないことになっているのだから。

4)規範は引用・反復されることで実体を獲得する

そういう強制力を持って、規範は人間が男であるか女であるかを決め、人間は自分が男/女であるというジェンダー規範を、絶え間なく引用しつづけなければならない。たった一度だけ、「わたしは男(女)です」と宣言すればあとはなにもしなくてよい、というわけではなく、つねにどちらかの性別で振る舞いつづけなければならない。生まれたときに「男の子です」と宣言された子が、5歳になってドレスを着たりすることがゆるされないように。もしくは、「あなたは女ですよ」と規範に呼びかけられた子が13歳になって、初恋の相手が同じ女の子だったら、問題視されるように。「男とはこうするものである」「女とはこういうものである」という規範をつねに引用反復しなければならない。そうしなければあなたは罰せられますよ、という強制力を、規範自身が働かせているのである。

つまり、規範は強制力を持つことで、規範自身が絶えずコピー/引用されつづけるように仕向ける。と同時に、そうやってコピー/引用されつづけることで、規範はあたかもその根拠となる実体があるかのように機能しはじめる。もともと根拠などなにもなかったはずの規範は、規範として機能しはじめることによって、実体を獲得し、自分自身を強化していく。それまでなんのパワーもなかったはずの規範に人間が従いつづけることによって、その規範はあたかも確固たる根拠を持つかのように振る舞いはじめ、それによってひとびとはますますその規範に従わなければならなくなる。というような循環が生じる。

人間がジェンダーを学び、それを引用しつづけることで、ほんとうはジェンダーには根拠がないはずなのに、私たちが男であったり女であったりすることには確固たる動かしがたい根拠があるかのように思われてくる。それによって「ジェンダー」は、人間にとってあたかも自然で本質的で動かしがたいものであるかのような、つまり「セックス」であるかのような働きをしはじめる。


●「ジェンダーはパフォーマティヴに構築される」

このように、引用と反復を通じて、引用元をさかのぼって実体化・本質化すること、言い換えれば、もともとなんの根拠もなかったものが、ほかに引用され、引用が繰り返されることによって引用元が権威を持つようになり、その権威が堅固になっていくことを、バトラーは「パフォーマティヴな作用」と呼んでいる。パフォーマティヴという用語自体は、バトラーの用語ではなく、用語の意味としても必ずしもこのようなものではないが、あくまでもバトラーの議論においてはこのような意味合いを与えられている、ということ。

これで「ジェンダーはパフォーマティヴに構築される」というバトラーの主張の意味がわかる。つまり、ジェンダーにはなんの根拠もないが、みんながその規範を引用することによって、あたかもそのジェンダー規範はとても自然なもので、人間にとっては欠かせないものだというような了解ができていく。そのような了解を通じて、その規範に逆らった者はそもそも人間ではないと見なされるようになり、さらに規範が強化されていく。

<つづく>