宇佐美翔子さんの来た道ゆく道(4)最終回

●話の通じない母、沈んでいく心

1998年のある日、母が「ひざの手術をするかもしれない」と連絡してきたので、介護のため帰郷を決意。ところが、手術の話は私を地元に呼び寄せるための嘘だった。私はといえば、「この先ずっと母の介護をしながら青森に暮らすことになるかもしれない」と、覚悟を決めて東京のアパートも荷物もすべて引き払った後だったので、東京へ戻るに戻れない状態のまま、3年間、母とともに生活することになる。

これまで何度となく母に自分のセクシュアリティについて話そうとしてきたが、そのたびに激昂して「気持ち悪い、キチガイ、病院に行け!」となじられてきた。このときの帰郷でも、母の態度は変わらなかった。それ以外のことでも話はあまり噛み合わず、ケンカも多く、お互いに何の話をしているのかわからなくなるばかりだった。

青森は大好きだが、東京のように、自分のセクシュアリティを隠すことなく、ありのままの自分でいられる居心地の良い場所をすでに知ってしまっているから、話の通じない母親との生活に息が詰まりそうだった。18歳で上京して、やっと自分らしくいられるようになったのに、青森に帰ったとたん、その自分らしさがどんどん失われていく気がした。

それでもなんとか居心地のいい場所づくりをしようと思って、地元のレズビアンの子たちに呼びかけてクラブイベントを何度かやったが、なかなか集客できなくて毎回赤字だった。自分より年上のレズビアンとはぜんぜん出会ったことがない。周りはみんな若い子たちばかり。

そうなると、なにをやるにも決めるにも自分で動くことになる。地元にはシャイで恐がりな子が多くて、「いいふりこき」という方言があるくらいだから、あまり自分の内面を見せない。私が東京でやっていたことをヒントに青森でも楽しいことをやろうと持ちかけると、「それって東京だからできるんだよね」というオチで終わり。いまでも「東京は怖いところだから気をつけてね」と言われることが多い。家のなかにも外にも、ほっと落ち着いて気を休められる場所はなかったから、結果的にはすごく疲れてしまい、どうしていいのかわからなくなった。

母に娘のセクシュアリティを理解しろと言っても無理な話だし、このまま同居生活をつづけてもお互いに傷つくばかり。わかってほしいわけじゃない。ただ、自分の居心地が悪いのをなんとかしたかった。息苦しい毎日をすごすうちに、いつしか精神的に不安定になり、心療内科に通うようになった。担当医には自分のセクシュアリティについて話した。その医師から「しばらくお母さんと離れて暮らしてみてはどうか」とアドバイスされたことを伝えると、母も母で娘との生活に疲れを感じていたらしく、私の上京に同意した。


●「せっかく病気になったんだから」

2001年、再度の上京を果たしたものの、日々は相変わらず鬱々としていた。積極的にレズビアン・コミュニティに参加するでもなく、ごく身近な親しい人たちと接するだけの内向きな毎日がつづく。

そんな折、乳がんを発症する。上京して2年後だった。入院して病巣を切除することになった。10日間の入院期間を4人部屋で過ごしたが、そのうち2人はその間に亡くなった。1人は胃がん、もう1人は大腸がんだった。みんなとても優しいひとたちで、端で見ていても、「もっと生きていたい」という思いがひしひしと伝わってきた。

胃がんの女性は末期で、みるみるうちに状態が悪くなっていった。小学校の卒業式を控えた娘がおり、点滴一式をリュックに背負ってまでして式に出席したが、中学の入学式を迎える前に他界した。大腸がんの女性は腸に負担がかかるからお粥ばかり食べていたが、江戸っ子気質のひとで、「あー、こんなやわっこいもんじゃなくて、普通のご飯が食べたい。たくあんバリバリ食べたいねー」と言って陽気に笑うひとだった。だが、ほどなくして亡くなった。

その間、私は抗がん剤治療でどんどん髪が抜けていったが、「乳がんぐらいでへこたれてたまるか! せっかく病気になったんだから、生きるってどういうことかちゃんと考えよう。同じ生きるなら、やりたいことをやらないともったいない」と思った。そして、「自分らしさってなんだっけ?」と記憶を掘り返す作業をやっていった。自分のやりたかったこと、好きだと思えることをはっきり再確認させていった。そういう作業ができたのは、病気になったおかげだった。

退院後も、抗がん剤治療のため通院し続けた。放射線治療は28日間連続で、一日も休まずに受けた。病院に行けば朝から夕方まで1日がかり。毎日ががん治療だけに費やされていく。副作用で髪がすべて抜け落ちる前に、思い切ってスキンヘッドにしたらさっぱりした。治療が終わったらまた髪が生えてきた。以前はストレートヘアだったのに、生えかわったら強いくせ毛で、伸びかけのころは「女パパイヤ(鈴木)」みたいだった(笑)。

死ぬのが怖いと思ったことはなかった。木の葉っぱだって、みんながみんな健康で生き生きしているわけではない。枝についてツヤツヤしているのもあれば、枯れて腐ったのもあるし、形のゆがんだのもある。生きているのも、病気を持っているのも、死にかけたのも、死んで片付けられてしまうのもある。一生懸命病気の治療をしているとき、ふと疑問に思った。こんなに無理して治療していいんだろうか、と。髪も抜けるし、がん細胞をやっつけるとほかの健康な細胞も一緒に死ぬし。

抗がん剤による集中治療が一段落した後、家からほど近い某大学でパフォーマンス論と心理学を聴講した。mixiに加入し、いろいろなコミュニティに参加することで、昔懐かしい友人たちとの再会を果たした。3年間の青森生活から継続して閉じていた気持ちが少しずつ開いていった。


●青森に当事者のためのコミュニティを!

2007年夏の東京プライドパレードでは、「LGBT版・青年の主張!」に参加し、青森映画祭に対する違和感に端を発し、地元の当事者たちのために/とともに、なにができるか、なにがしたいかという思いのたけを発表した。その後、同じステージで高校生のセクシュアルマイノリティが「学校でいじめにあっている」と語ったのを聞いて、「私が本来やりたかったのは、コミュニティにすら出てこられないひとたちのサポートだった!」と思いを新たにした。

私は母との生活に行き詰って精神が不安定になったとき、東京という脱出先をすでに知っていたからまだ救われた。その高校生も、パレードに参加する行動力や情報力、ステージで発表する言語力をもっていただけ、まだましだと思う。どれも持たずに、自己否定感が強まる環境にいつづけるしかない子たちや、逃げる先も助けを求めるあてもない子たちと、どうやってつながっていけばいいのか、それを模索したい。

これまでに会ったいろんなひとたちとの交流、出来事を通じて、「青森にセクシュアルマイノリティのコミュニティをつくりたい」という具体的な目標が固まっていった。オフ会やイベントなら、もうすでに地元で開催しているひとたちがいるし、恋愛目的の出会いを求めて安易に集まることにも疑問があった。だらだらと無意味な雑談をしてすごしたり、お酒を飲んで空騒ぎしたり、恋人ができたら二人だけの閉じた関係を優先的に築いたりすることが、はたしてほんとうに「幸せ」なんだろうか。そんな「幸せ」を手にしたって、社会的な生きにくさは少しも変わらない。

恋愛やセックスは、もういい。「事例集め(笑)」は充分やった。これからは、恋愛やセックスとは違った意味でわくわくドキドキするような、面白くてやりがいのあることをやっていきたい。おかしいと思ったことは議論を深めあい、わからないことはわからないと言って知恵を出しあえるような場が、私にとってはいちばん安心して自分らしくいられる場なんだと思う。


●大好きな青森で、安心して暮らしたい

マイノリティであるということは、世の中の生きにくさの一面を具体的に実感できるということ。そして、「生きにくいのはマイノリティである自分のせいだ」と自己否定するのではなく、「こんなに生きにくい社会って、なんかおかしいよね?」と社会の側に水を向け返す使命を受けている。ひとりでは自信がなくて声をあげられなくても、いろんなひとと情報や知恵を共有しあい、相互承認をおこないながら自己肯定感を高めていく。そういう場をつくりたい。

2007年秋、青森に当事者コミュニティの設置を望む有志たちに声をかけて、まずはmixi内にコミュニティをつくった。メンバーで話し合ってコミュニティの名前を決めた。その名も「青森セクシュアルマイノリティ協会 にじいろ偏平足」。「青森セクシュアルマイノリティ協会」は、行政、教育、医療機関などへの要望提出や意見表明を想定した「わかりやすい」ネーミングで、「にじいろ偏平足」は、コミュニティに参加する当事者にとって親しみやすいスローガンだ。

現在、母は80歳。いまだに現役で店を切り盛りしている。けれども、近い将来には間違いなく母の介護のために青森に戻ることになる。そのとき、また鬱々とした暮らしに戻るのだけは絶対にイヤだ。地元で老親の介護をすでにおこなっている、あるいは今後直面することになるセクシュアルマイノリティたちは、自分以外にもいるはず。生まれ育った青森は大好きな土地だから、セクシュアリティへの理解のなさによって傷ついて、青森そのものを嫌いになりたくない。大好きな土地でマイノリティたちが安心して暮らせるように、制度と社会を変えるようはたらきかけていきたい。


<おわり>