宇佐美翔子さんの来た道ゆく道(2)

●本心ではやっぱり男嫌い(笑)

大学にはいってまもなく、高校時代に仲良しだった子と再会した。かのじょは看護師になっていた。私は昔の淡い思いもあって再会を楽しみにしていたけれど、かのじょは昔のことを一切口にしなかった。「カッコイイ男がいてさー、モノにしようかと思ってるんだー」みたいなことを言っていた。

あのころかのじょが悩んでいたのは、かのじょなりの軌道修正だったのかもしれない。高校を卒業して環境が変わったのをきっかけに、自分を異性愛社会に適応させようとしていたのかもしれない。とにかく、不自然なくらい高校時代の話をしなかったので、「あ、この子はもうあっち側に行ってしまったんだな」と思った。こちら側に理解をしめすどころか、「あのころはこうだったよね」と口に出すことすらできないくらい、過去のことは忘れてしまいたいんだろうな、とも。かのじょは一生懸命いまの自分のことを話していたけれど、ヘテロ女性として生きていこうと無理に気負っているように見えた。

ショートヘアだからといってボーイッシュに振る舞いたい意識があったわけではない。中高生のころはテクノカットチェッカーズが流行っていたし、部活をやるうえで髪は短いほうがいいから、必要に迫られて短くしていた。女性の自認はあるし、バレエでチュチュを着て踊るのも好きだった。男になりたいから髪を短くするのではなく、自分が女性を好きだということに関しても、相手の髪が短かろうが長かろうが、ボーイッシュだろうがそうでなかろうがあまり関係なかった。

育った環境のせいか、男のひととどう接していいのかわからない部分もあった。小学生のころは男の子のほうが成長が遅くてこどもっぽかったのに、中学になると背が高くなって声が低くなって体毛が濃くなってどんどんゴツくなっていく。それは私にとってぜんぜん身近なことではなかった。世間体を考えてあまり男嫌いを強調することはなかったけれど、本心ではやっぱり男嫌い(笑)。男はなにかと女に対して差別的に振る舞うから。女のひとといるほうが楽だし、好きだなーと思うことが多い。生理痛で病院に行って男の医者に診てもらうと、「あなたは痛くないはずだ」なんて言われてこちらの痛み自体を否定されるから、「男に相談しても意味がない」と思った。いざというときに頼りになるのはやっぱり女性だった。


●「自分もこれだ。これでいいんだ」

大学では女子寮暮らしだった。四畳半台所付きの個室で、コインシャワー付き。大学が直接運営している学生寮は4人部屋で、集団生活にはなじめないと思ったからやめた。当時は「女子大生ブーム」だったので、同じ学校にも「女子大生クラブ」みたいな店で接客のバイトをしている子が何人もいて、よく一緒に夜遊びしていた。

そのころ仲良くしていたのはボーイッシュな子だった。その子とは受験のときに知り合った。本人は不合格だったけれど、授業はだれが潜り込んでもバレなかったので一緒に受けていた。寮にも遊びにくるようになって仲良くなった。よくよく話を聞いてみると、その子は女の子が好きだと言っていた。

私も、中学時代のマネージャーのことや高校時代の淡いおつき合いを経て、レズビアンの自認はなんとなく持っていた。『アラン』や『ジュネ』や『風と木の詩』を読んだりして、「あ、自分もこれだ。これでいいんだ」と思っていた。大学にはいってからは、「これでいいんだ」ということの確認作業をいろいろとやっていくことになった。

同じクラスで仲の良かった子は、ふだんはおとなしいけれど、踊るととても上手な子だった。踊りをやっていると、まずは踊りのレベルを相互確認しあって、お互いに認めあいリスペクトできることが仲良くなるときの大前提だったし、「もっとこういうふうに踊れたらいいのに」という自分の課題も共有しあってよく話していた。顔は鳳蘭に似ているけれど身体は小さい子で、私はかのじょから「かっこいい」と慕われていた。

あるとき、その子とディズニーランドへ遊びに行った。かのじょは自宅生だったけれど、寮の門限を破った私と一緒に窓から部屋に忍びこんで入り、その日の夜にセックスしたのが初体験。ふたりとも19歳だった。持てる知識を総動員して頑張った。そのとき自分はバリタチで、事は終わったもののパンツのなかが濡れているのはどうしたものかと思い(笑)、トイレに入ってひとりでした。それでいいとそのころは思っていた。


●オナベバーからリクルートされる

一方、「女の子が好き」と言っていた子ともちょくちょく会って話をしたり遊んだりしていた。その子は原宿のジーンズショップでバイトしていて、男の店長から無理矢理キスされて嫌だったと相談された。「自分は女の子が好きなのに、男のひとから性的な目で見られていること自体が嫌で嫌でしかたがない。バイトを辞めたい」と言っていた。私は夜遊びの経験から『マリの部屋』(現在の『ニュー・マリリン』)というオナベバーを知っていたので、「こんなお店もあるんだよ」と紹介した。その後、その子はHという名前で『マリの部屋』で働きだした。

Hから、「店に遊びにおいでよ。飲み代は自分の給料で払っておくから」と誘われて店に行った。その場では私はカムアウトしなかったけれど、先輩のオナベさんたちといろいろ話しているうちに、「君はレズだよね?」と聞かれた。「どうしてわかったんですか?」と聞くと、「ふつう(ヘテロ)の女の子が持っているような色気がないから」(笑)。その後も何度か飲みに行くうちに、「君もここで働かないかい?」とリクルートされ、「やってみよっかなー」とその気になって、オナベバー勤めをはじめることにした。

バイトではスーツを着てポケットにチーフを入れたりしていたけれど、いまでいう性同一性障害みたいな意識はまったくなかった。でも、学校で踊るときには、チュチュを着ながら胸にはバリバリ(胸のふくらみを抑えるもの)を巻いていたりと(笑)、服装が混乱していた。髪の毛もすごく短くしていて、なんならソフトパンチパーマでもかけましょうか、くらいのヘアスタイルだった。

Hは完全に「男になりたい」という意志を持っていたから、オナベバーでは飽き足らず、お金を貯めて性別再判定手術を受けた後、ホストクラブに勤めはじめた。

『マリの部屋』には1年勤めた。朝まで仕事をしてそのまま学校へ行くことが多かった。体力的に学校との両立が難しかった。ほかにも、ヘテロ男性向けの水商売をやっている友人から「頭数が足りないから手伝って」と頼まれてヘルプにはいることもあった。


●踊りってなんだろう?

寮は3階建てで、1階が1年生、2階が2年生、3階が3年生の部屋割り。いつしか各階に最低ひとりはセックスの相手がいるような状態になった。女の子との付き合いかたやセックスのしかたをある程度把握したこともあり、覚えたてのことはいろいろ試したくてしかたがなかった。周りにも私に興味を持ったり、男のひととするのは怖いけれど女のひと相手だったら怖くないかも、という思いもあって、私を練習台代わりにして近づいてくる子たちがいて、お互いに渡りに船だった。

店では18、19歳の新米オナベはだれからもこども扱いだったし、先輩たちのヘルプにはいるのが関の山だったので、お客さんたちと特別親密な関係になることはなかった。だから、もっぱら寮でウハウハな生活をしていたけれども、それもあまり長続きはしなかった。私がいろんな女の子たちとセックスしていることは薄々みんな知っていて、それが嫌だったのかどうかわからないけれど、私とエッチした子が、「宇佐美先輩に無理矢理襲われた。あのひと変態だよね、気持ち悪い」という噂を立てはじめた。けれども、その噂を立てた子が、実際には自分から服を脱いで迫ってきたことを覚えていたから、私は動じなかった。

オナベの世界はある程度知っていたけれど、レズビアンバーやコミュニティについてはまったく知らなかった。オナベの店には、舞台があってスポットライトがあってショーをやってお客さんを楽しませるという装置があったけれど、初めて行ったレズビアンバーは狭くて薄暗い店内に小さなカウンターがぽつんとあるだけで、「えーと、ここでどうやってお客さんを楽しませればいいんだろうか?」と戸惑った。

大学時代に、「踊りってなんだろう?」と疑問に思うことが多くなった。教授は学生をグループ分けしてテーマを与えて振り付けをさせ、グループごとのいいところだけを抜粋してくっつけてひとつの踊りにつくりあげるようなやりかたをしていた。それは踊りたくて踊ることじゃなくて単なる作業だと思った。親戚の叔父から、「踊りじゃ喰っていけないぞ」と言われていたこともあり、「じゃあやめよっか」とあっさりプロの道は諦めた。


<つづく>