「アシュリー事件」と児童買春の共通点について

つい先日、旧優生保護法:強制不妊手術9歳にも 宮城、未成年半数超という記事があったが、フェミニストではない人は気がつかなかったかもしれない。これは法律の名前も内容も変わったからもう過去のことだ、と思ってはいけない。

 

旧優生保護法

強制不妊手術9歳にも 宮城、未成年半数超

旧優生保護法

強制不妊手術9歳にも 宮城、未成年半数超

以前から気になっていた「アシュリー事件」だが、児玉真美さんの運営するブログはところどころしか閲覧できておらず、ことの顛末を知らなかったので、なんとなく事件について言及するのは控えていた。がしかし、今日は『アシュリー事件 メディカル・コントロールと新・優生保護思想の時代を読んでみた。その感想である。

 

2004年、重度重複障害児のアシュリー・X(当時6歳)の身体に“アシュリー療法”という外科手術を施術した。この療法はアシュリーの両親が要望している。


“アシュリー療法”とは、子宮摘出、乳房芽摘出、成長抑制を目的としたエストロゲン(女性ホルモン)のパッチを2年くらい皮膚に貼り続けるという療法で、2つの目的が達成されるというのだ。


1つは、在宅介護のためである。アシュリーの介護は両親と雇われた介護者がアシュリーの身体を抱えたり移動したりするのはかなりの負担になるので、できるだけアシュリーの身長と体重が成長しないようにコンパクトにさせてあげたいという両親の要望(メリット)である。


もう1つは、アシュリー自身のためだ。アシュリーは「寝たきり」であり、自分で寝返りができない。成長を抑制させれば、自重負担の軽減ができる。これは、私自身が片麻痺なので、身体が動かない不快さはよく知っている。


重度障害児(者)の不妊手術は、優生思想の歴史を踏まえて、米国では禁止されている。障害児に不妊手術をする前に司法省に報告して手術の許可をとらねばならない。


この「事件」については、2006年の秋、シアトルこども病院の担当医ダニエル・ガンサーとダグラス・ディグマが米国小児科学会誌の論文で報告され、一部の専門家と障害者支援や権利擁護の関係者の間から批判の声があがった。ところが、その批判に応答する形で2007年元旦の深夜に両親がブログを立ち上げたことから、ロサンジェルス・タイムズを筆頭にメディアが次々と取り上げ、世界中で激しい論争が巻き起こった。まさに賛否両論だった。


要するに、「事件」は事後報告だった。アシュリーの身体はもう元に戻らないのだ。


同年5月、ワシントン州の障害者の人権擁護団体Washington Protection and Advocacy System(旧称WPAS)が、1月6日から開始した調査を報告書にまとめ、アシュリーに行われた子宮摘出は違法であると結論付け、8日にシアトルこども病院はWPASと合同で記者会見を開き、公式に子宮摘出の違法性を認めた。


その後、事態は沈静化したが、9月末にはアシュリーのケースを担当し2006年の論文の主著者であった内分泌医のガンサーが自宅で自殺するという衝撃的な事件があった。


アシュリーの父親は身元は明かしていないが、とあるIT関連の大企業の役員であり、名前を明かしたら大変な騒ぎになると本人が懸念している。 “アシュリー療法” の理由と目的を、主治医論文は「在宅介護のため」と主張し、父親は「本人のQOLのため」と主張し、互いに食い違っている。ついでに父親は「(アシュリーの子宮は)基本は『用がない』それに『グロテスク』」とまで言っている。


そもそも、アシュリーの父親と2人の主治医たちの関係は、なにか様子がおかしい。父親が自分の“斬新な”アイディアを話しても主治医がまともに受け入れており、主治医論文は偽装と隠ぺいで溢れている。もしこれが一般の父親なら、そのアイディアを話しただけで診察室から追い出されるのでは、もしくは門前払いではないだろうか。


それに通常の倫理委とは別に「特別な」倫理委をセッティングしてもらい、直接パワーポイントを使って自説を解説し、医師らを説得する場を設けてもらっている。異例の待遇と呼べる。この父親、本当に大物らしい。

ここから、著者の児玉さんは「無益な治療」に通底する「死の自己決定権」や「尊厳死」「臓器移植」の方へ向かうが、私は「下種の勘繰り」をする。アシュリーの両親の品格を汚すことになるかもしれないし、このブログが英訳されたら名誉棄損で訴えられるかもしれない。でも私は、かつての児玉さんが「この危険な流れを食い止めなければ」と真剣に切実に思ってアシュリー・ブログを更新してきたように、私は私で切実なのだ。児玉さんの感じた「キナ臭さ」と私の感じた「キナ臭さ」とは比べ物にならないくらい私のほうがはるかに猟奇的で狂気を感じる。

子宮摘出は、アシュリーが性的虐待のため妊娠しないようにするというが、子宮摘出だけなら子宮口までは外見上変わりはなく、難なくインサート、つまり「レイプ」できてしまうし、妊娠が発覚しないのであれば、性的虐待は水面下に潜ってしまう。アシュリーにとってはかえって危険かもしれず、「介護」する両親はある意味好都合だ。妊娠予防のためなら卵管結紮という、より侵襲度の低い手術法も可能だが、卵管結紮しても月経は続く。

この事件についても児玉さんも、「月経痛」というものにまったく言及していないのが気になった。

私が中学生のとき、月経痛が重いクラスメイトがいて、月経になると目眩がして倒れそうになるを見たことがある。私は月経痛はそんなにひどくはなかったが(腰痛と下痢くらい)、月経痛は本当に人それぞれである。

いまはPMS(Premenstrual Syndrome:月経前症候群)と呼ばれており、ひどいケースになると万引きをしたり、海外では放火したりする症状があらわれるという。

健常者の月経の症状がこれなので、知的障害児や重度重複障害児の月経はどれくらいになるのだろうか。

かつて私を担当していたヘルパーさんは、障害児の母親だった。子どもが娘さんだと聞き、「お嬢さん、月経痛はあるの?」と尋ねると、「もう喚くわ暴れるわで大変です」と笑って答える。毎月の経血処理だけでなく、身体が不自由でしかも暴れるから、清拭やオムツの交換はさぞかし手こずっただろうなあ、と想像した。

 

話は変わって、アシュリーのことである。まず、アシュリーの顔写真は、率直に言って可愛らしすぎると私は思った。人によっては「色気がある」「抜ける顔だ」などと思うのだろうか、顔の造作も整っているが、全体的に「愛嬌がある顔」と言ってもいいくらいだろう。セクシーでチャーミングである。


アシュリーの両親は「ピロウ・エンジェル(枕の天使ちゃん)」とあだ名をつけていたが、腹黒い私はそこで、「…ん?」となった。

 アシュリーはいつも寝たきりなので、枕とお友だちである。「ピロウ・エンジェル」という言葉はかなりの赤ちゃん扱いらしいのだが、そのニュアンスは私にはまったくわからない。むしろ「ピロウ・トーク」と同じくらいにエロスな感じがするぞ。


それに加えて、「プチ・エンジェル事件」という謎事件を連想してしまう(興味のあるかたはご自分で検索してください)。

「プチ・エンジェル」は児童買春の店であり、経営者は謎の自殺を遂げた(自殺に見せかけた他殺?)。経営者の家族たちも続々と不審死している。事件の謎を追っていたフリーライターも殺されてしまい、もう誰も事件の詳細を探ることは恐ろしくてできないのだ。その顧客名簿には、ロリコンでお金持ち、要するに政治家や弁護士、医者などの有力者の名前がずらっとあったとされる。まさに「変態紳士たち」である。

児童買春といえば、腹黒い私は児童ポルノをついつい連想してしまう。児童ポルノの加害者は親、というのをどこかで聞いた。貧困な親が金づるのために我が娘を金で売ってしまうのだろう。

アシュリーの父親は社会的に成功しているらしい。親が貧乏でも金持ちでも、趣味と道楽のために我が娘を不特定多数の者に凌辱されるのが、さらにまたマニアックで変態的で気持ちが悪い。

子どもが障害者でなくても、子は親の所有物であることは全世界共通らしい。アシュリーの父親は、「アシュリー療法」を一般化させようとしていた。

 

「成長抑制のために“アシュリー療法”を」というところまで本を読んで、ダーティマインドな私は邪推し、「あっ」と確信したのだった。

都市伝説でよくある、インド奥地の「だるま」 をご存じだろうか。観光客の女性を拉致し、手足を切り落とし逃げないようにして、男たちに公開セックスをするのだそうだ。私が聞いた「だるま」の話は、ふだんは不動産会社の営業マンであり、観光客がなかなか足を踏み入れないマニアックな国や地域を探して観光するのが趣味で、その営業マンはインド奥地の見世物小屋の「だるま」が日本人女性だとわかった。虚ろな目をしてセックスする彼女は、自分を日本人観光客だと悟り、彼の目をカッと見て「大使館(を呼んで私を助けて)!!!!」と大声で叫んだのだった…。

 

私の邪推だけだったらまだしも、現実のアシュリーが性の玩具として今もシアトルの片隅に生きていたとしたら…確かに、重度障害者を死に至らしめることも惨いが、性の玩具として生き続けているとしたら、しかも両親が娘を性的に支配しているとしたら、まさに生き地獄、実在の「だるま」である。…でもまあ、実在はしないけども。

 

こんなバカバカしい妄想&邪推をして、児玉さん本当に本当にごめんなさい。申し訳ありません。謝罪します。お詫びとして、児玉さんの文章から引用します。私がこの文章を読んでグッときたので。

 

 本人利益と親の利益の混同や、より侵襲度の低い選択肢の検討の不在など、これまで多くの人が指摘してきた倫理問題も指摘しているが、(エイミー・)タンらの論文の眼目は、「仮に、自己決定能力と人格(パーソン)とをエージェンシーと呼び、その両者を持ち合わせている存在をエージェンシーであるとしたら、“アシュリー療法”は果たして正当化されるのか」との問いを立て、哲学的な検証を試みたことだろう。“アシュリー療法”正当化の基盤にある、知的機能の低いアシュリーにはその他の人と同じ扱いをする必要はない、との論理を問うたのだ。
 カントを読んだこともなければ基本的な知識すらない丸腰の素人が、読んだままの理解で内容をまとめてみるという、大胆な行ないを許してもらえるならば、タンらの主張するところは主として二点。まず、アシュリーがエージェントでなく、したがって個人として扱われないとしても、一方で家族という単位もエージェントの集合に過ぎずエージェントでないアシュリーにも同じ姿勢で臨んで然りということになる、というもの。しかし、医師らの正当化は家族全体の利益が本人の利益と分かちがたいと言っているだけなので、この批判はポイントがずれているかもしれない。
 しかし次の論点は、アシュリーではなく、医師のモラル・エージェントとしての義務という観点からの考察であり、私には非常に興味深かった。タンらはカントの「道徳上の義務」を参照しながら、おおむね以下のように論じている。
 我々がモラル・エージェントとして善行を求められる「道徳上の義務」とは、その善行の対象がエージェントであろうとノン・エージェントであろうと、それに関わりなく果たすべき義務である。それは、その義務が、われわれが他者に対してではなく自分自身に対して負っている義務であり、われわれが自分自身に負っている義務とは、ヒューマニティすなわち道徳的なエージェントとして行動できる能力を保つことだからである。その義務を負うがゆえに、われわれは例え自分とノン・エージェントしかいない状況下に置かれたとしても、道徳的にふるまい、自分のヒューマニティを損なわないよう行動しなければならない。したがって患者がノン・エージェントであろうと、エージェントである患者にしてはならないことはノン・エージェントの患者にもしないという義務を、医師はその患者に対してではなく自分自身に対して負っているのである。

(児玉真美『アシュリー事件 メディカル・コントロールと新・優生思想の時代』生活書院、2011年)

 
最後に。児玉真美さんは、アシュリーの父親のブログやCNNのニュースなどをオンタイムで視聴し、その父親の言葉が「どうせ」という文脈のニュアンスに聞こえるらしい。「どうせ障害者だし」「どうせ意識はないんだから」こんな程度でいいだろう、とアシュリーを下に見ているという感じだ。
「どうせ」は重度重複障害者にとってセーフガードにならず、人々に共有されると、逆に生命倫理の「すべり坂」にたちまちなってしまう。「道徳上の義務」がある社会的地位の高い男性たちは、その義務を忘れて自分自身の欲望と保身、権力を行使してしまうのだ。

ツイッターハッシュタグ「#metoo」で、女優さんたちが性的虐待やセクハラ・パワハラを暴き、性的被害者である自分を告白しているが、自分より弱い者、抵抗できない者に、性的な欲望を押しつけて沈黙しておくように仕向けているのも、まったく同じ構造である。

 

最後の最後は、重度重複障害児の施設「びわこ学園」に長年勤めていた医師が書いた文章を引用する。

 

1981年、国際障害者年にあたって、「全国重症心身障碍児(者)を守る会」は、「親の憲章」を作成し、守る会の三原則を決めた。
それは、「決して争ってはいけない、争いの中に弱いものの生きる場はない」「親個人がいかなる主義主張があっても重症児運動に参加する者は党派を超えること」「最も弱いものを一人ももれなく守る」であり、今日まで大切にして運動し事業を行っている。
(高谷清『重い障害を生きるということ』2011年、岩波新書

 

【2018/02/02 19:31追記】

以前私が付き合っていた25歳年上の彼女のお母さんがいるのだが、旦那に死に別れて妹の家に同居していた。彼女は長女で、妹と14歳離れており、妹が結婚するときにお母さんも一緒について行ったという。

お母さんは当時70歳を過ぎており、大腿骨骨折をきっかけに入院し、そのうち徐々に衰弱していった。聞けば、「栄養チューブを自分で断った」という。素朴な尊厳死、平穏死である。お母さんが死んだとき、妹は思わずお母さんに抱きつき、「まだ温かかった」。死んだお母さんの顔はまるで眠っているように見えた。

お母さんの死は、「女三界に家なし」のことわざ通りだと思った。伴侶がいなくなり、孤独になってもまだ死なない。女性の長生きは幸福か不幸か、微妙である。

 

『メイドインアビス』を観てわたし(たち)が思うこと

メイドインアビス』を観た所感(初見感想)などをメモ。なおこれはアビスを読んだことも観たこともない人たちに向けたものである。このエントリを読んで興味を持った人は、AmazonプライムやAbemaTVでご視聴されたし。

 

1:深淵は「山」の負のメタファー

アビスは「人類最後の秘境と呼ばれる、未だ底知れぬ巨大な縦穴」という設定であり、これは「山/頂上」の反対の(負の)メタファーかもしれない。人々は山に憧れ、過去に遭難したにもかかわらず、その山に登ることが多い。「なぜ山に登るのか?」と問われれば「そこに山があるから」と哲学的な理由があり、まるで禅問答みたいだ。高いところや光などを神と重ね、決して山に「毒」や「呪い」があるとは思っていない。山にあるのは「畏怖」であり、人々の「征服欲」であり、より高い山には「死の危険」がある。生還すれば探検家としての栄光はあるが、失敗すれば生きて帰ることはできない。


反対にアビスは「穴」であり「深淵」である。山と同じように人々はアビスに惹かれるが、下層へ行くと同時に段階的に(深界一層~七層、深界極点)探窟家への注意喚起をする。具体的に、上昇負荷は重い吐き気と頭痛、末端の痺れ(深界二層 : 誘いの森)、二層に加え、平衡感覚に異常をきたし、幻覚や幻聴(深界三層 : 大断層)、全身に走る激痛と、穴という穴からの流血(深界四層 : 巨人の盃)、全感覚の喪失と、それに伴う意識混濁、自傷行為(深界五層 : なきがらの海)、人間性の喪失もしくは死(深界六層 : 還らずの都)、そして確実な死(深界七層 : 最果ての渦)。(ウィキペディア参照)

 

2:主人公たちの紹介

主人公は孤児院にいるリコと、深界一層で出会ったロボットのレグ。リコの母親ライザは白笛と呼ばれる探掘家で、遺物に紛れてライザが書いたと思われる手紙をリコは見つける。二人はアビスに入って母親を探すが、それまでの経過をアニメで展開する。探掘家は、青笛<赤笛<黒笛<白笛というふうに色でヒエラルキーを示し、白笛と呼ばれる者は数人しかいない。

 

ロボットのレグは人間と違って深界に深く潜っても変化は見られないし、リコを助ける便利な道具もある(両腕が伸縮可能、手のひらには火葬砲という強力な武器)。だが深界四層でタマウガチの襲撃によってリコの左手が猛毒の針に刺されてしまい、意識を失ったリコは死線を彷徨う。そこへ「なれ果て」と名乗るナナチが声をかけ、猛毒の処理の指示を出す。彼女が回復するまでの話はナナチとミーティの出会いから今に至るまでのエピソードで、オデは年甲斐もなくなぜか号泣した。元浮浪児のナナチとミーティは、白笛ボンドルドの上昇負荷実験のモルモットにされたのである。

 

3:ナナチとミーティ

さて、アニメの設定やあらすじを書いた。ここで本題に入る。ナナチとミーティは深界六層からの上昇負荷実験で人間性の喪失に遭う。ナナチは半分ウサギ半分人間のふさふさした可愛らしいフォルムになるが、ミーティは化け物のようになり、コミュニケ―ションがとれなくなった。いわばミーティは身体障害と知的障害を伴った<異形の者>となったのだ。

ミーティが<異形の者>となったのは、それだけではない。いくら傷つけても「死なない/殺せない」者になってしまったのである。ボンドルドの実験報告を聞いたナナチは悩み続けるが、レグの火葬砲を見て、「ミーティを殺してほしい」と頼む。「オレが死んだ後でも、ミーティは永遠のひとりぼっちだからさ。ミーティの魂は地上に返してもらいたい」。かくしてレグはミーティに向けて火葬砲を撃つ。オデはもう涙滂沱である。

 

4:これは「やまゆり学園連続殺傷事件」を基にしたエピソードではないか?

リコは無事に回復した。「あれ? ここにもう一人いたよね?」と彼女は言うが、レグもナナチも口を噤む。ナナチの住処には、過去にナナチがミーティした数々の毒の実験の後(棚の瓶たち)があったが、リコは実験のおかげで生還した。意識不明になったリコが、ミーティに会った夢の話をした。ミーティはもうここにはいないが、生きた証があるのではないのか。

 

このエピソードは、「やまゆり学園連続殺傷事件」を基にしているのではないか。我田引水な解釈だと我ながら思うが、ナナチハウスがある深界四層は、ひいて言えばアビスの奈落の底は、精神障害者知的障害者、重度身体障害者たちの隔離施設なのではないか。ミーティは障害当事者であり、ナナチは彼女の友人であり、思い出を持った福祉職員である。

 

やまゆり学園の被害者たちは、神奈川県警が氏名の公表を控えており、被害者遺族もマスコミも異議を唱えなかった。「障害者の生は意味がない。不幸しか生まない」という犯人の主張も、「障害者は隔離すべし」との政策も、「障害者が生きた証は残さない」という遺族やマスコミも、全ては「人権侵害」の延長線である。医療・福祉的パターナリズム人道主義は決して交わらない。「障害者はかわいそうな人たち」だとの発想こそが不幸な発想である。同情は見下しの感情だ。

 

現在、漫画は全5巻、アニメは13話だ。リコとライザの遭遇もまだだし、レグの「なぜ自分はロボットなのか?」という謎は解明されていない。ストーリー展開は期待するが、破綻しないよう祈っている。アニメが再開したら、またオデは書くかもしれない。

 

 

ホピ族の予言と衆議院選挙の話

 私はもうすぐ五十路の女で、独身、恋人なし。ついでに無職で身体障害者である。あと一つ増えたら萬貫で、老化の深刻な病を発症したら役萬ハネ萬だ。がしかし、「将来に不安を感じる」どころではなく「お先真っ暗」だが、私は「そのうちなんとかなる」と楽観視しているし、実際「なんとかなった」のだ。たとえば、一人暮らしの障害者は一人では暮らせないが、訪問介護制度を活用すれば何でもできる。


 これは今まで誰にも云ったことはないが、脳梗塞を発症してすぐに、「あ。セックスできないかも」と思った。暇なときオナニーして麻痺した手脚が勝手に収縮し、「面白い! 今の身体でセックスしたらどうなるんだろう?」と少しワクワクした。ちなみにセックスは一度もやってない。パートナーもほしいとは思わない。デリヘル嬢を依頼して性欲を満足すると個人的には解決だが、私は「身体障害者の性」と「性的少数者の橋渡しをしたいと思っている(ということは、「身体障害者の性」と「性的少数者の間には見えない大きな溝がある)。身体障害者ヘテロしか見つからないし、特に女性の身体障害者は性をタブー視しており、窮屈な思いをしているのではないかと懸念している。私がそうだったからだ。


 かつて健体者だった私はオープンリーなクイアだった。ところが、医療と福祉は私のアイデンティティを脅かすものだと感じた。特に、退院して自宅療養にシフトした私は、ケアワーカー、ケアマネージャー、ヘルパー、訪問看護や訪問リハビリなど、私の生活をより快適に過ごすようにする要員が揃っていた。週に2回通ってくるヘルパーには、私はなぜか窮屈な感じがしていた。ここは私のパーソナルスペースなのに。


 中途障害者の私でさえ不自由で窮屈だと感じたというのに、生まれたときからの身体障害者なら、ここに家族が入ってなおさらがんじがらめにされているだろう。そんなあなたたちに云いたい。現状で満足してはいけない、環境は変えられる、と。


 高校時代の友人で同人誌を書いていた中心人物が、「小説のテーマでタブーなのは、誰かが死ぬのとセックスすることだ」と云った。理由は知らない。誰かの引用かもしれないが、当初は軽く聞き流していた。しかし、今になって思えば、死ぬことと恋愛することは安直で身近なドラマであり(世の中で死と恋愛は同時多発的に起こっており、凡庸でありふれている)、読者は容易に感情移入し感動するからではないのか。


 誰だって肉親や友人同僚の死は傷ましくて悲しいし、誰だって自分が恋愛したらロマンティックにときめくのに決まっている。だが感傷と恋愛感情ほど凡庸なものはないと繰り返して私は書く。それが脚本家や小説家は自覚しており(あるいは視聴者または読者に受けると目論んでいる)知人の死と誰かと恋愛することをストーリー設定に持ち込むことは逃げでしかない。親兄弟は血のつながった他人だし、愛は執着にすぎないと私は思っており、言語障害があるので喋るのが面倒臭いし、脳に負担がかかって疲労するから、私はパートナーというものを求めていない。だから私は葬儀のシーンとラブシーンではなんだか白々しい気分になる。読者と視聴者を馬鹿にするなと思う。


 その同人誌で私も二、三度投稿したが、同じ冊子で「同性愛は不毛である」という雑文を書いた人がいた。それを読んだ私は「異性愛だって不毛じゃないか。同性愛をいちいちクローズアップするな」と思ったが、面倒臭くて直談判は避けた。そのころの私は同性とつきあっていたので、どうやら噂が流れたらしい。妄想創作系腐女子ホモフォビアであることは今も昔も変わらない


 さきほど読んだ倉橋由美子全作品集8巻の「作品ノート」で、「『自主規制』第二項」として、「自分だけで経験したことを逐一報告しても始まらない。例えば山中で大蛇に呑まれてその腹を切り裂いて出てきた話とか空飛ぶ円盤を見た話とか難病にかかって苦しんだ話とかは、本人にとっては大変な経験であろうが、他人から見れば痛くも痒くもない」とある(ちなみに「自主規制」第一項は「自分と他人とが関係して起こったことをそのまま小説に書いてはならない」。これは相手の了承なしにプライベートを公表するなということで、私も同意である)。私がここで書こうとしているのは「難病で苦しんだ話」だろうか? それはともかくとして、かの倉橋御大の逆鱗に触れるかもしれないし、見向きもされないし、そもそも絶対に読まれることはないだろう(もうお亡くなりなっているから)。


 私がここで書こうとしているのは、脳梗塞の後遺症の経過報告である。病人といえばそうかもしれないが、自分としては怪我人くらいの感覚である。片麻痺と云えば多くの人たちが「手脚が動かない」と思うだろうが、動かないのに加えて左側の腹筋と背筋であり、首であり顔である。振り向こうとしてもうまく振り向けないし、もともと口笛は得意だが現在では口蓋の構造が変わってしまい、ほとんど吹けないし、音階も狭い。口のなかで響かせるには唇の位置を変えて工夫するしかない。でもこれは苦しい話だろうか?


 動かないのは不自由で不便だが、身体の変わりようを私は興味深いと思っている。脳神経が壊れるときは一瞬だが、回復しつつあるときには身体のどこからどのように回復するのか自分なりに検証したい。脚と腕では脚のほうが早く回復するらしいが(例外も稀にあるし、リハビリなしで唐突に回復した事例も知っている)、発症から7年経った私の身体は、杖を使ってやっと歩行ができる程度である。右脳の運動神経はいったん失ったが、怠けつつもリハビリを行うなかで、右脳のニューロン細胞はニョキニョキと生え出し、今は左脚の運動神経の成り損ないであろうとイメージしている。なぜなら、脚は動かないこともないが、力が出ないし、思い通りには動かない。腕も脚も体幹に近い付け根から動き出す。末端はまだ先である。自分の手足の動きの変化を見ていると、そのまま脳神経の動きのようである。今は「共同運動」が先だが、そのうち「分離運動」が起こってくる。これは運動神経の発達だと思っている。右側を動かすと同時に左側にも強張りが起こるが、これは筋肉が連動しているせいだろう。


 私は半身の神経を失ったが、まだ健全な部分が残っている。私の場合、左側は廃用症候群であり、右側が過用症候群である。つまり、左側が動かないため使われなさすぎて浮腫み、皮膚が湿潤液で満たされていて触ると痛いし、夏も冬も皮膚が冷たいし、右側は使われすぎで節々が痛いのである。


 片方が使い物にならなくなれば、もう片方だけで使うほかない。そもそも人間の身体、生き物の身体は、なぜ右と左と二つあるのだろうか?


生き物の身体は、ちょうどまっぷたつになる。プラトンの『饗宴』によると、エロス賛美の前にアリストファネスがこう云った。人間の身体はもともと手脚が四本ずつあり、頭が二つあった(「人間球体説」)が、神ゼウスの怒りに触れ、その罰としてまっぷたつに別れてしまった。人が人を愛するのは元来の形状を求めるせいである、とあるが、これはお伽噺だと思ったほうがいい。ちなみにこの球体には、男女、男男、女女があり、異性愛だけでなく同性愛や両性愛の根拠にもなると解釈する人もいる。


 世の中には二元論というものがある。天と地、善と悪、光と闇、火と水、女と男、精神と肉体、感情と理性、内と外、人工と自然、文系と理系、右派と左派、タカ派ハト派、保守と革新、衆議院参議院などなど。中国の古代思想には五行思想(水・金・土・木・火)があるが、現代日本はすでに曜日くらいしか名残がない。それに対して西洋では四大元素説があり、比較される思想である。エンペドクレスが最初に説き、続いてアリストテレスの説がもっとも広く支持された。四元素を構成する「温・冷・湿・乾」は四性質とも呼ばれており、物質そのものではなく物質の性質を表していたが、洋の東西を問わず、この思想はもはや廃れており、その代わりに二元論に基づく二項対立が思想のうえでも政治のうえでも日々の日常会話でも、現代人の薄っぺらい思想では、白黒つけずにはいられないものである。


 もしかしたら、この世はバランスを失った世界かもしれない。手は両方あるのに、右利きの人がメジャーであり、男女平等はお題目にすぎず、どうしても男のほうが優勢であり、自然はどんどん失われ人工物ばかりが出現していて、地球環境が深刻な影響を与えている。人類は原子力開発に成功したが、その成功と栄誉が滅亡となるかもしれない。前述した「同性愛は不毛」の理由は「異性愛者は子どもを生めるから」というありふれたものだが、人口爆発しかねない現代では、「子どもを生む」ことが元凶になるのかもしれない。


コヤニスカッツィ/平衡を失った世界(1982)』は、ナレーションを一切使わず、ただ流れてくる映像を早回ししている。現代音楽(ミニマルミュージック)のフィリップ・グラスは素晴らしいメロディーを繰り返している。内容としては、アメリカの原風景から始まって開拓され、都市になっていき、ひたすらスクラップ&ビルドの繰り返しで自然を壊し続けるという、文明社会への警鐘であり、現代を批判・風刺したドキュメンタリー映画であり、「21世紀の映像黙示録」である。タイトルの「コヤニスカッツィ」とは、ホピ族(アメリカ・インディアンの部族のひとつ)の言葉で「常軌を逸し、混乱した生活。平衡を失った世界。他の生きかたを脅かす生きかた」の意。


 ホピ族の預言は当たっていると私は思う。この預言を公開するため、第二次世界大戦終了後、ホピ族の長老トーマス・パニャック氏は、人類に対する警告書として、ある預言を国連本部に送った。次の文章である。

「現在の世界は、まず白い肌の人間の文明が栄える。次第に彼らはおごり高ぶり、まるで地上の支配者になったように振舞う。白い兄弟は馬に曳かれる車に乗ってやってきて、ホピ族が幸せに暮らしている土地を侵略する。その後、大地は、馬に曳かれない車の車輪の声で満たされるだろう。そして、牛のような姿で大きな角を生やした獣が多数現れるだろう。次に、白い肌の人間は『空の道』を作り、空中に『くもの巣』をはり、陸上にも『鉄の蛇』が走る無数の線を張りめぐらす。やがて、『第一の炎の輪』の中での戦いが始まり、しばらくすると、『第二の炎の輪』の中でも戦う。そのとき白い兄弟たちは恐ろしい『ひょうたんの灰』を発明する。この灰は川を煮えたぎらせ、黒い雨を降らせ、不治の奇病をはやらせ、大地を焼き尽くして、その後何年も草一本生えないようにする。そして白い肌の人間たちは、空のかなたで見つめるタイオワ(グレート・スピリット)の怒りと、警告に気づかず、ますますおごり高ぶって、とうとう『月にはしごをかける』までになる。この段階でタイオワは『第四の世界(ホピ族では、この世界を第四の世界と呼び、今まで第一、第二、第三の世界は滅んでいるという)』を滅ぼすことを決意する。その時期は、『空に大きな家を作るとき』である。そして、地上の天国で、大きな墜落で落ちる住居のことを聞くだろう。そしてそれは青い星として現れるだろう。この後すぐに、私の民の儀式は中止される」

 
 これを読んで、思い当たることはないだろうか。現代人は目の前の現実、つまり金や収入だけを見て、予感や直観は鈍ってしまい、やがて起こる危機に気づかずに滅んでしまう。日本は原子爆弾を落とされた唯一の国で、東北大地震によって原発の痛手を負ったのだから、政治家は「原発反対」と主張することは容易い。しかし、アメリカは原発産業を推進している国なので、いざ日米交渉の際に誰一人主張できないだろうと私は思う。なぜなら日本は、原爆を二度落とされた敗戦国だから。ならば、なぜ今、政治家はこぞって「原発反対」という耳障りのよい言葉を主張するのか? それは日本国民にとってもっとも賛同・迎合しやすい合い言葉だからである。政治家は二枚舌であることを忘れてはいけない。アメリカが悪いとは思わないが、アメリカは狂っていると思う。その狂気にひきずられないようにするには、どうするべきか?

 さあみなさん。みなさんにできることは、各政党サイトをじっくり読んで、選挙に行くしかないのですよ!

子宮摘出の背景

いかにも真面目そうなタイトルと真面目そうな研究会だが、その内容は衝撃的だった。ちょっと長いが引用する。

3 子宮摘出の背景


子宮をとってもかまわんか?


 長谷川真弓(仮名)は30代の女性。重度の脳性まひで、車いす生活を送る。食事の時も排便の時も手助けが必要だ。地元の養護学校を卒業した後、1979年に自宅から車で約1時間の、山深い療養施設に入った。
 最初に会った時、短く切った髪、白い肌にいたずらっ子のようなそばかす。まっすぐ相手を見つめる奥二重の瞳が印象に残った。紹介者から「言葉が不自由だから、初対面の人には電話では彼女の言うことがわからないかもしれないと思うよ」と忠告されていたが、彼女が意識的に大声で話してくれるため、何度も聞き返すことはほとんどない。自分の持っている意見や感想を忌憚なく、一生懸命伝えようとする女性だ。
 毎日、施設ではワープロで詩作活動に耽ったり、十数年前から施設外の合唱サークルに参加していることから、週に一回発行のサークル新聞を執筆。「新聞では何度も表彰されたのよ」と誇らしげに笑う。書くことが大好き。時には学校時代の友達が訪ねてきてくれたり、電話で話し込むこともある。
 だが、週末はできるだけ両親の待つ自宅に帰るようにしている。「施設生活にもそろそろ慣れてきたけど、長時間、施設に居続けると疲れてしまって、偏頭痛がしたり吐き気がするんです。病院の先生に診てもらうと、ストレスが原因らしい、と言われるんです」「でも、施設職員には、ここにいて仕事をしないで何がストレスだ、と言われる。自分でもよくわからないけど」
 話が性の問題に移った時、真弓の顔がふとくもった。「結婚する、しないの問題と、性の問題はまったく別だと思う。結婚するから性は大事だとか、結婚しないから性は大事じゃない、ということではない」と前置きした後、彼女にとって身を切られるエピソードを教えてくれた。
 真弓が20歳のころ。体調をくずして何日も部屋で寝込んだ。「そうなるといつもより、よけい手がかかるでしょう。ただ寝てるだけでも施設職員にはうっとうしいんだと思う」
 介護していた女性職員が何気なく、「子宮をとってしまわんか?」と、真弓に尋ねたという。「ただでさえしんどいのに、そんなこと言われて、何を考えているんだと思った。確かに私は結婚するつもりはないけれど、それとこれは関係ない」。相手は同性であるばかりか、結婚して子どももいる。「きっとその人は深く考えて言ったわけではない、と思うけど」
 同じ時期、別の女性職員と雑談をしていて、再び衝撃の発言が繰り返された。真弓の顔を正面から見ながら、「子宮をとってしまった方がいいのではない?」「お母さんもきっとそう思うわ」。知り合いに相談すると、「あんたのために、言うてくれたんやないか」と言われた。真弓は、「人にどうのこうの言われることではない。働いてないから、社会経験がないから、何を言ってもピンとこないと思ってるの。言うことが理解できないから傷つかないと思っている」と憤る。
 真弓のいる施設は8人部屋だったのだが、現在は2人部屋になった。そのちょうど入れ替えの時、男性職員が冗談半分に言った。「これから2人になったら何をするかわからないな」「真弓さんなんか男を連れ込むんじゃないか」。「その時は本当に腹が立ったから、親に電話で相談した」。結果、男性職員は真弓の親に頭を下げて謝ったが、真弓に対しては謝るどころか、“告げ口”を逆恨みして、半年ほど真弓を無視し続けるという報復にでた。真弓はそのことも親に話したが「無視されてもいい。毅然とした態度で接しなさい」と、その職員に再度挑戦することはなく、普通に振る舞い続けたという。
「ずいぶん、自分は強くなってきたと思う。悪く言えば横着になってきた。合唱サークルで活動を始めるまでは、言いたいことがあっても言わない方がいい、と親に躾けられてきた。相手に反発したら手助けしてもらえない。してもらいたかったら我慢しなさい、と。反論したりできなかった。私は介護してもらわなければならない立場だから。今でもそう」
「やっぱり職員の言うことを、素直に聞いていた方が精神的に楽。サークル仲間は、素直に従っていてもひどいことをされるなら、自分の言いたいことをはっきり言った方がいいって励ましてくれる。けれど、どんなに真剣に私が怒っても、子どもが怒るみたいな感じでしか受け止めてもらえない」。真弓は車いすから乗り出して話す。
 職員だけではない。入所者からも心ない言葉を投げつけられることもある。同じ施設にいる中途障害者に言われた。「生まれつきの障害者の場合は、年齢より10歳引かなあかん」。「彼らにとっては、私たちの年齢は幼く見えるらしいの。健常者の30代とは同等に見られない。まだ10代ぐらいの扱いなの」
 最近、真弓の施設にも、脳梗塞などで倒れて半身まひになった働き盛りの元サラリーマンも生活している。そういう中途障害者との軋轢は深い。健常者からもよく「若く見えていいわね」と言われる。でも、それがそのまま本意なのか、素直に解釈すればいいのか、真弓はわからないと首を傾げる。
 だが、その施設は、入所者同士の恋愛に寛容で、約100人ぐらいの入所者のうち、「施設内恋愛」をしているカップルが10組ほどいる。「職員は好意的に見ているの。入所者どうしの恋愛なんてもってのほか、と禁止している厳しい施設もあると聞くから、そんな施設に比べれば恵まれているのでしょうね」


…と、ここまでは序盤戦。軽いジャブ。次はノックアウト。



摘出しか方法はないのか


「障害者の子宮を摘出」。突然、こんな見出しが目に飛び込んだ。1993年6月12日付けの毎日新聞朝刊(大阪本社発行)の一面トップ。近畿と中部地区の国立大学付属病院の医師らが、女性の知的障害者3人の生理をなくすため、子宮を摘出したことを伝える記事だ。それによると、近畿、中部いずれの大学の例も、施設と両親、あるいは担当の精神科医から「整理の処理の介助が大変」と相談があり、医学部教授が「本人のため、それしか方法はない」と判断。本人の同意を得ないまま、手術が実行したのだという。摘出した子宮に異常があったわけでもなかったのに……。
 この記事を読んだ人の大半は、おそらくかなりの衝撃を受けたにちがいない。
「どうしてそんなことが平然と行われるのか」と。
 しかし、意外な反応も多かったようだ。
 この記事が掲載されてから1か月以上たった後、毎日新聞は7月21日付けの朝刊で、子宮摘出について本社に寄せられた読者の反応を紹介している。
 それによると、届けられた手紙や電話は80件以上。そのうち「(新聞記者も)一度介助してみろ」「きれいごと言うな」など、摘出に賛成する意見が3割も占め、知的障害者の親や介護者に賛成の意見が多かったという。
「障害者が生理で苦しんだ時、施設、親もつらいし、本人もかわいそう。他人に迷惑をかけず、本人が快適に暮らせるなら、手術してもいい」「研修中、生理用品を投げつけられた。本人がいやならなくしてあげたいと思った」。摘出に賛成する理由として、記事は介助体験のある2人の主婦の話を伝えている。
「実際のところ、女性障害者の子宮摘出は、施設の中では公然の秘密。昔から何例もあったんですよ」。この記事を読んだ施設職員の山中淳(仮名)が話した。
 生理で情緒不安定になった女性障害者の介護は並大抵のことではない。生理用品ばかりではなく、ナイフや食器を投げつけることもあり、介護者自身の身の安全が脅かされることさえあるという。数少ない介護者に重い負担が押し付けられている現状では、ぜい弱な日本の福祉制度が子宮摘出を生み出しているといえなくもない。
 しかし、「介護者のアプローチの仕方によっては克服できないことはない。結局は、介護者の知識と技術が足りないのが摘出につながっているのではないか」と山中は言う。
 山中はかつて、他の施設から「あまりに暴れるので引き取ってほしい」と頼まれ、女性障害者の介護を受け入れたことがある。
 受け入れたばかりの時には確かにたいへんだった。生理中はもちろん、そうでない時でも一日中、騒いでいる。手に取れるものは何でも投げつけ、「職員が危険にさらされることもあったので、隔離したこともあった」という。しかし、つきあっていくうちに次第に原因がわかってきた。「小さいころから親元を離れ、施設にずっと住んでることが原因ではないか。親にあこがれているのだろう」
 いわゆる「施設病」。それからは親のように接触をはじめる。長い年月がかかったが、しばらくたって、その女性の乱暴は影をひそめたという。
「情緒不安定になるのは何も生理だけが原因じゃない。だから子宮をとったからといって、本人にとっても介護者にとっても、すべてが解決するわけではないんです」と山中。
「結局は、根本的な原因をしっかり究明しないと……。その原因も人によって違うしマニュアルがあるわけでもない。介護者自身が障害者とのふれあいの中で、自分で見つけていくしかないんです」。しかし、施設は、生理が原因だと決めつけ、入所者本人の気持ちを理解しようとはしない、のだという。

障害者が恋愛と性を語りはじめた(障害者の生と性の研究会)

これとよく似た例がある。やはり性に関する障害、インターセックス性分化疾患、あるいは半陰陽)である。
出生時、外性器形状異常が発見され、本人の意思もへったくれもなく、両親が相談し、担当医師が判断、手術。「性と障害」は、どちらの例も当の本人は疎外されている。



女性の知的障害といえば、性風俗の問題がある。本人も楽しくて嬉しくてしかたないし、施設になんか行きたくない。お客も店も喜ぶ(山本譲司「累犯障害者」)。
誰も困ってないじゃないか。それが何の問題なの?

それが問題なのだよ。社会に役立たずで迷惑な障害者は、みんな施設に入れろ。隔離しろ。
今はそう思っていても、事故にあったり病気になったり年とったりして、いずれ「施設」に入る。そのときになっても、もう遅いのだ。
「私は正常な大人だ」。もしそうだとして、生まれた子どもが知的障害の女児だったら?

この世界に起こることで、あなたに関係ないことは、ない。
あなたが「関係ない」と見て見ぬふりをすれば、実は「ひじょうに関係がある」と事実が明確になったとき、やはり「無関係な」他人は見て見ぬふりをするのだろうか?

「障害の正義」 ミア・ミンガス


Disability Justice - Mia Mingus (interview clip)



わたしが思うには、障害の正義にとっていま重要なことには3つの部分があるような気がするんですよね。ひとつは、マルチイシューの政治ということですよね、単一の問題だけじゃないってのをかっこよく言っただけなんですけど。障害のことだけを言ってるんじゃない、階級を含むし、人種も含むし、ジェンダーとかシティズンシップも。植民地化も、戦争も軍事化も、こういうことを全部想定します。マルチイシューの政治なんですよ、そう、健常主義や障害のことだけじゃなくてほかの抑圧の体系のこと、制度のこと、暴力のかたちのことでもあるんです。だって障害者は障害者ってだけじゃなくて、わたしたちは母親や父親でもあり、女性やトランスでもあり、クィアや若者や老人でもある。健常主義だけじゃなくて、わたしたちはこんなにたくさんのものであって、こんなにたくさんのことがたとえばわたしの生活に影響する、それについてわたしは話してじゅうぶん考えられるようでないといけないんです。


もうひとつは、権利ベースの、平等型みたいなモデルから離れていってるということですね。だから、特権を持ってる層を広げてほんの数人余分に入れるにはどうすればいいかみたいなのじゃなくて、そういうのは求めてないと。いつもは、もともと特権があってそのグループのトップにどのみちいた人たちがほんの2-3人仲間に入れられるというふうだった。でも障害の正義っていうのは、その体系全部を疑問視して、なんでいつもずっと底辺にいる人たちがいるのか、特権的な場所の仲間に入れられないのか、と問うているんです。再分配のことも言うし、ただ特権持ってる人の場所を広げて2-3人入れたって、より公正な世界につながったことってないでしょうとも言う。


で、最後のひとつは、正義と解放がどんなものになるかを、平等は正義とは全然違いますからそうではなくて、 正義と解放が障害者たちとわれわれのコミュニティーにとってどんなものになるかを話していくものです。だから、また障害だけじゃなくて、わたしにとっての解放とはわたしのいる障害者コミュニティーだけのことではなくて、わたしのいるクィアやトランスの有色人種の人たちのコミュニティー、わたしのいる韓国人コミュニティー、ラディカルな有色人種女性たちのコミュニティーのことだと。それで、障害の正義というのは障害者たちをわたしたちのコミュニティーにつなげていくことでもあると。これはすごく重要だと思うんですよ、特にこんな社会や歴史的状況で、こんなに個人化されてて、わたしたちの持つ正義の概念といえばすごく個人化されたもので、だれかを訴えて決着をつけてそれが正義だとか。それか、自分に危害を加えた人を刑務所に送ってそれが正義だと。そうじゃなくて、わたしたちはもっと集団的なかたちでの正義がどんなものか話してるので、それはうまくいけばもっと深いかたちになるんじゃないかと。

翻訳:ど鬱操

「自殺」と「尊厳死」について

オデが脳梗塞を発症して、当時オデが働いていたケアサポート・モモの川口有美子(オデは密かに「ボス」と呼んでいる)さんがお見舞いに来て(彼女は入院手続きから生活保護申請から電動車椅子から何もかもサポートしてくれた)、あれは確か急性期病院からリハビリ病院に転院したとき、彼女は「片麻痺なら大丈夫だよ。一人で生きていけるよ」と言ってくれた。


あの言葉がなかったら、今ごろオデは自殺していたかもしれない。文字通り、「一人で生きて」こられたからだ。


川口有美子さんは、「さくら会」の理事(ALSの橋本操さんが理事長)もやり、尊厳死法案に反対する運動をやっている。彼女が反対する尊厳死については、オデよりもはるかに勉強して深く考えているから、あまり手出ししないでおこう(汗)。


とはいえ、40数年も生きていれば、知人友人が自殺で亡くなることも多いのだ(なんといっても母が自殺した)。


まずは、次の動画(1時間弱)を全部観ていただきたい。


見えざる敵「日本: 年間自殺者3万人」との戦いを開始したアイルランド人が制作したドキュメンタリー映画の衝撃【全編無料公開】


最近の場合、オデが発症したときに、思わず「結婚したい!」と言った女性だ。当時のオデは、幼稚園児のような発想で、彼女に告白したことがある。恥や汚点といっても彼女のせいではなく、オデの「反婚」というモットーに反してこのような結果に。大脳旧皮質はなんと恐ろしいw


その後、オデは長い入院生活があり、スマホの支払いが滞って不通になり、彼女がFBを経由して連絡をとって、最後に会ったのが退院から1ヶ月後のサンシャイン水族館のデートだった(彼女はアニメ『踊るピングドラム』が超好きだったので、「聖地巡礼」と言っていたw)。

それでオデは脳梗塞になり、彼女はODで死にかけて、再会したとき、「お互い生きてて良かったね〜」と涙ぐんだのだった。


その女性は、幼少期から父親による虐待や恋人からの暴力を受けており、運動団体でのトラブル、大学院でのトラブルなど、たくさんのことがあったと聞いた(という友人からの股聞き)。 また、死後の世界に関心を持ち、ネットで同じ考えの友だちもおり、死ぬことを積極的に捉えてもいたようである。


彼女と食事をした後、トイレに行って吐くのは摂食障害のせいかと思っていて、特に気にしていなかった。彼女は礼儀正しいし、何も悪くはないのだが、オデがメールした後、しばらく時間が経って返信する、しかも話がちんぷんかんぷんだったので、「ちょっといかんな〜、オデのこと舐めてんな〜」と思ったのだった。


で、彼女のTwitterもリムーブしてしばらく経った後、Twitterの共通の知人から、「あのひとが亡くなりました」と聞き、もうショックでショックで、共通する知人友人もいないままだったので、この悲しみをシェアできなかったのである。


彼女自身が暴力の被害者であるのにもかかわらず、トラウマの再現、再々現なことや、逆に自分が加害者(の歴史?)の自覚を強くすることもあり、なんというか、彼女の生きにくい世界を自分でたぐり寄せていたのかなあ、と思う。あまり言葉は良くないが。


今から思えば、彼女がちんぷんかんぷんなメールを送ってきたのも、おそらく薬かアルコールで意識朦朧としていたんじゃないかと推測している。会って話したときは礼儀正しいし、しっかりした思考と主張を持っているのに、会わないでいるとどうも彼女の様子がおかしい、と 思っていた。


また彼女は、「夜、独りでいると怖い。おかしくなる」とも言った。ならば最初から彼女の取り扱い説明書を送ったらいいのに、とも思った。でも、そんなことしたらオデが幻滅するかもしれない、と彼女が思ったのかもしれない。どちらにしても、後の祭りである。


こんなすれ違い行き違いのエピソードは巷にあふれるほどだ。でも、その最中に死んでしまったのなら、生き残ったオデには「断絶」しかない。


結論は永遠に出てこないが、こうも言えるのではないかと思う。精神的肉体的に苦痛で、早くその苦痛から逃げ出したいと本人が思うなら、自殺はやむを得ない。それと矛盾するかもしれないが、尊厳死法案には断固反対である。


ただオデは、自殺でも尊厳死でも、「あなたがいなくなったら、わたしは悲しい」と言うだろう。



人は、言葉で死ぬと同時に、言葉で生きるものだ。



そんな人に、ぜひ聞いてもらいたい曲がある。


「重き荷を負いて」

車椅子ユーザー(クルマイサー)に対する誤解と偏見(4)

つづき。

しかし、オデの経験のなかには例外もあります。

つい最近のことです。
駅を降りたら、歩きが遅い若い女性がいたので(たぶんスマホを見ていたのだと思う)、ちょうど柵もあったし、追い抜けないので、柔らかめに「どいてくれよぉ」とオデが言いました。
オデが追い抜いたら、かのじょはぼそっとつぶやきました。
「…うっせーなあ」
地獄耳のオデは、すぐに
「うるせー!!!!!」
と怒鳴りました。周りの人も振り返るくらいの大声で。
惜しむらくは、ネチネチと彼女に因縁をつけて、そのまま自宅まで追いつめてやらなかったことです。
(たぶんかのじょは、走って逃げたと思いますが)
今でも後悔してます。

ここまで読んで、「暴力はいけない。たとえ言葉の暴力であっても」と思ったあなたに、反論があります。
じゃあ「視線の暴力」は無視ですか?
細かいことを言い出すと切りがありませんし、自縄自縛になるかもしれません。
ただ、この日本は「治安がいい」と思っているあなた、いったいどこがですか?
確かに、この国では戦争がありません。終結して、とっくに70年も過ぎました。
だからといって、平和ではありません。
「平和ボケ」した連中は、オデのような弱い者を平気でジロジロ見ます。
まるで見せ物小屋の奇人変人でも珍しげに見るように。
オデは毎日いつでも、外界に出て「気を緩ませない」思いをしていますから。

おわり。

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