「さらばリハビリ」~(5)高次脳機能障害の疑い、ここは刑務所か?!

「急性期病院と回復期病院は違います。なぜなら約1時間のリハビリがあるから、約束せずに見舞いに来ても、ミヤマさんは病室にいないことがあるでしょう。でも大丈夫、ミヤマさん専用のメーリングリストを作成しました。お見舞いにくる人もミヤマさんも利用しましょう」

 メーリングリストの作成者が言った言葉通り、「お仲間」の見舞いに来る頻度が減った。私はいつもカーテンを閉めっぱなしにし、ネットPCで検索してそれを読み、活用していた。個室ではなく6人部屋で、しかも私以外の患者は70〜80代のババアばっかり。あるとき部屋のババアがこう言った。「一緒に食事でも行かない?」「は? 結構です」と私は不快に思い、無表情に応答した。いい年こいてバッカじゃねーの? お前は連れションしたがる女子小学生か! それ以来、偏屈な私は相部屋患者と口も利かず、誰とも行動をともにせず、友だちはネットPCだけという、病院内引きこもりをやっていた。

 食事の時間になるといつも、ババアたちは団子になって食堂へ向かった。団子になったババアはゾンビだ。彼女たちが行った後、私はカーテンを開け、車椅子に乗って移動した。私の部屋から食堂は比較的近く、10メートルも離れてなかったが、食堂では毎日が女子会ならぬ団子ババアゾンビ会を開催していた。なかには新患のお婆さまがお一人で食事をされていたが、団子ババアたちは即座に新患のお婆さまをオルグしてゾンビ化し、即座に団子ババアのゾンビ軍団にとけ込んでしまった。

 彼女たちが何を話しているのか知らないが、だいたいは想像できる。毎日の天気の話と、入退院した患者の話、入院患者の噂話、テレビでやってる番組の話。後はつまらなくてくだらない話ばかりである。私はフェミニストを自称しているが、このときだけは孤独なおっさん連中に混ざってミソジニー女性嫌悪、女性蔑視)に溢れかえっていた。バッド・フェミニストである。

 食事は不味くて量が少なかった。当然だが、私のような糖尿病患者の食事療法と、高齢患者の食事内容とは違っていた。たとえば、私の食器にご飯が半分も盛られてなく、隣にいたヨボヨボの婆さんは食器のご飯が盛りだくさんである。栄養バランスはとれているが、材料が何かわからなくて食べるのに躊躇したおかずも多々あった。毎日ではないが、昼に出ているミートスパゲティは同量なので、安心して食べたことをいまでも忘れない(それでも食べるとすぐに腹が減る)。とにかく食べ物の恨みは強い、と私は思った。

 いま改めて思い出し、山田規畝子さんの「高次脳機能障害」関連本を再度読むと、「傷ついた脳はエネルギー・コントロールができないので、食べてもすぐ空腹になる。脳はそれだけ高カロリーを消費している」と書いてあった。なんだ、私が食い意地汚いのではなかったんだと安心した。

 回復期病院の食事の量が少ないときは、担当の栄養士に直談判していいと聞いていたし、食事の量が不足な患者は文句を言って改善してもらったと聞く。しかし私は言語障害があり、病院スタッフとの接触を極力避けていた。交渉するのがただただ面倒だったのもあって、闘尿病食の私は文句を言っても改善してくれないなあ、だったら黙って個人的に解消するしかない、と思っていた。

 老人用に介護食(とろみ食、やわらか食)もあった。嚥下や咀嚼が難しい患者は多い。回復期病院とは名打っているが、患者の実情を見ると老人ホームだった。それとは無関係だが、朝食後、病室のベッドで堂々とせんべいを食う爺さんがいて、看護師に怒鳴りつけられていた。傍目で見ると爺さんと孫だ。「何で食べたらいかんのだ!」との反論(逆ギレ)をして、それでも平気で食べていた。さすが爺さん、年の功である。

 入院して知恵をつけた私は一階に売店があることを知り、おにぎりや菓子パン、ジャンクフードは車椅子用トイレでこっそりと食べ、ヨーグルトやカロリーフリーなゼリーは堂々と病室へ持ち帰った。私はときどき買ったジャンクフードをトイレに持ち込んで速攻で食べている自分を鏡で見る。卑しい、情けない顔だ。ここは刑務所か何かで、いつ誰が食べ物を持ち込むのかじっと監視している。あるとき、新患のおっさんが売店でおにぎりを買うところを目撃し、ああ、空腹なのは自分だけではないんだ、と共犯者を見る思いがした。

 売店だけでは飽き足らず、私は隣のスーパーマーケットを見ていた。細い車道一本渡ったそのスーパーに行きたいながらも、病院は患者の無断単独外出を禁じていた。これも危険管理の一環である。同行者がいたら遠出ができるし、泊まりもできる。もしいまの私なら気軽に堂々とスーパーで買い物をするが、当時は刑務所の囚人の心境だった。私は一人で外に行ってはいけない、と禁止を内面化させていた。具体的にペナルティを恐れたわけではない。ただ、1人で外に出るのが怖かったのだ。

息苦しい。集団生活アレルギーマックスで窒息しそう。おんなたちは群れてしゃべりっぱなし、おとこたちはだまっているが、たまに出会うとおとこ2人でしゃべっている。おんなたちは、どうやら1人では不安らしい。あるいは、黙っていることが不安らしい。友だちというかしゃべる相手がいれば安心で、だからおんなたちはいつまでもだらだらとしゃべっている。鳥か魚の糞を意味もなく垂れ流している。私はそのノイズが耳に障って気持ちが悪い。逃げても逃げてもうるさくて気が立っている。気が狂いそうだ。超ストレス。

「さらばリハビリ」~(4)急性期病院から回復期病院へ

「急性期病院から回復期(リハビリ)病院に転院するけど、どこの病院がいい?」と川口さんに言われ、病院事情にまったく詳しくない私は困ってしまった。

 急性期病院とは発症した直後に入院し、治療対応する病院。

 回復期病院は、死亡時の遺体引き取り人、つまり「身元保証人」がいないと入院できない医療システムができている。

 私のような単身者はもとより、既婚者で子どもを持っていても現状は独居の人がトラブルになった場合、「身元保証人」システムから排除されてしまうからだ。死んでしまえば、遺族がいてもいなくても自治体(厚労省)管轄の福祉政策の一環として、「行旅病人」および「行旅死亡人」として市区町村の長が葬儀など埋葬・火葬執行を行うと定めているからまだましだが、仮に病気や事故で生き残った場合、その後の療養生活には誰にも頼れない。まさに生き地獄である。

「こんなクソみたいなシステムを壊すために、NPO法人が運営している“身元保証人”システムがあるよ」と友人が助言し、私もそのNPO法人にアクセスしようとしたが、タイミングよく新設した回復期病院が「身元保証人」なしでも入院OKなので、一度見学に行った。いいのか悪いのか私にはまったく判断がつかないが、他に選びようがない、ええい、ままよ、と私は承諾した。

 二〇一六年三月七日の毎日新聞の見出しに「身元保証人ない高齢者 入院・入所拒否は不当 厚労省」とあり、以下引用する。

[…]しかし、東海地方で特別養護老人ホームを運営する社会福祉法人の担当者は『病院での医療同意や利用者が死亡した後の財産処分などを考えると、身元保証人がいないと困る』と心境を吐露。高齢者の身元保証問題に詳しいNPO法人『シニアライフ情報センター』(渋谷区)の池田敏史子代表理事は『厚労省の対応は当然で、施設側は入所時に何が必要で、(身元保証人がいない場合は)何ができないか、整理すべき時期に来ている』と指摘した。

 厚労省は「指導や監督の権限がある自治体に対し、不適切な取り扱いを行うことのないよう対応を求めた」というのが同日の毎日新聞のwebニュースで出ている。私のような中年単身者の生き残りが救われるのは、まだまだ先である。

 いまは退院して9年が経ち、介護事業所の変更や更新に伴い契約書に書名・捺印するが、書類にもやはり「(死亡時)受取人」の欄がある。私の両親(ともに後期高齢者)は北海道に健在らしいが、もしも私が死んだとしても両親は体力的に東京には来ないだろうし、実際に何の役にも立たない。そもそも父親が「東京やススキノのような都会には情報量が多すぎてキャパシティオーバーでパニックになる」という老人だからだ。実質の「受取人」は担当のケアマネになっている。死んだ後のことなど当人には何の関係もないが、当人の関係者が「責任」を取るらしい。それも仕事の一環だろう。

 転院先から到着した私は、荷物の整理、主治医や療法士の面談と、回復期病院の構造やリハビリのシステム説明を受け、くたくたになり、夕食前に一眠りするかとベッドに横になった。当時は自覚がなかったが、小一時間相手と話すともう脳が疲労状態になり、疲れて何も考えたくなくなってしまう。たった一人で車椅子で長時間外出するならまだしも、自宅の電話で友人と雑談しただけで、その日はぐったりして開店休業状態なのだ。脳疾患は疲れやすい。

 仮眠のつもりが、いつの間にか私は熟睡しており、担当のナースが夕食になっても来ないと心配して病室に入り、私を起こそうとした。しかし、私の意識ははっきりしており、このように記憶もしっかりある。でも身体がなかなか起きようとしない。周囲ではナースたちが慌て、主治医が瞳孔反応を見ようとライトを当てて私の瞼を開いた。「瞳孔が反応しない」主治医は言った。「ええ? でも私の意識はあるし、なんで身体が動かないの?」とパニクった。一人のナースは足指2本をぎゅっとつかみ、主治医はさらに瞼を開こうとする。これを同時にやられるととびきり痛い。私は動かない身体を一生懸命に動かそうとした。でもなかなか動かない。苦しくはないけど、とにかく痛い。その瞬間私は起き、「痛い!!」と叫んだ。イライラと怒りの叫びだ。傍目にはわからないが、長いあいだ水のなかを潜って水面上に「プハッ!」と息を吸うイメージである。

 回復期病院ではMRICTスキャンもないので、詳しいことはわからない。そこでナースたちは私を救急車に乗せて設備のある以前の急性期病院に向かった。その道中では、ゲイ男性のナースが私のカルテを読み、「ちょっと、これ見て。トランスジェンダーって書いてある…」と確かに言った。私は目をつぶって担架に横たわっていたが、意識は明確にあった。

 フロリダの病院では、ナベシャツを着てスキンヘッドの私を「トランスジェンダー」だと勝手に判断し、カルテに記入した。入院中、ボランティアが数人やってきて、「私たちはレズビアンなの。何か困ったことはある?」と私に訊き、私はあまりに嬉しくて思わず大爆笑してしまった。これも高次脳機能障害のせいであるはずだ。ボランティアたちは私にバカにされたと思い、二度と来なかった。心残りがあるとすれば、もう一度レズビアンのボランティアに会って、あのときのことは誤解です、と謝りたい。私はいまも猛省している。

 一方、日本の病院では、カルテに書かれた診断名(?)を無視するナースがいる。それもゲイ男性のナースだ。これはどう考えるべきか難しい。というのも、私は女性のトランスジェンダーの患者で、彼はゲイのナースだ。私がカムアウトしているのかどうか彼は知らない。もしかすると性的マイノリティに関して敵対する関係かもしれないし、恊働すべき関係かもしれない。

 ただ私が言いたいのは、彼はプロの「ゲイのナース」ではない、ということである。この場合のプロは、ゲイだけにかかる。つまり彼はオネエ言葉でゲイアピールしているだけの、政治性皆無のゲイゲイ詐欺だ。老人患者相手で女性ナースばかりの職場環境にナースとして円滑な関係を築きたくてアピールするなら、それは彼の選択である。私個人との関係は無視するにしても、ここは病院で私は患者だ。しかも性的マイノリティの患者である。その患者を少しでも快適に暮らせるように、私がここで何を望むのか、困ったことは何か、彼に解決できるのか、彼がどう振る舞えばいいのかなどなど、彼は私に一度も打ち合わせをしなかった。金返せ! このド素人ナース!

 結局、以前の病院に戻ってCTスキャンを撮ったが異常なし。私はその病院で一晩過ごして帰った。おそらくその発作のようなものは高次脳機能障害の一症状が原因である。自己判断するしかないが、これらの症状を「一時性ロックトイン(ロックトイン・シンドローム:閉じ込め症候群。意識ははっきりしているが、自分の意思を表現する手段がなく、厚い壁の部屋に閉じ込められた状態。身体も動かず声も出ず、最終的に目は開いてるが眼差しが動かない)」と呼ぶならば、私は回復期病院で数回この症状を起こしている。身体は眠っているが、意識は覚醒しており、食事のときにナースが無言で私を移動させ、私は食事のテーブルにつきながら身体は動かないという不思議な症状だった。脳に異常がないならば医療従事者は対応しようとしない。「一時性ロックトイン」が起こった私は人形のように運ばれ、食事終了時には病室に戻され、後は放置されるだけだった。脳の機能は複雑であり、傷ついた脳はさらに複雑な症状をみせる。ただ、数値やデータには一切異常は見られないから治療方法はない。患者である私は悲しいが、看護し治療する者たちは悲しくないのだろうか?

「さらばリハビリ」~(3)セクシュアル・マイノリティの身体障害者

 某病院には、リハビリの療法士にトランスジェンダーがいるらしいとの噂があったが、その人がカムアウトしているとは私には思えず、退院(脳疾患患者には急性期病院と回復病院があり、前者のことである)するまで一切会わなかった。仮にばったり会ったとしてもフルチューンナップしたトランスジェンダーでも私はリードできる、と自信があったが、どうやら彼/女はパスしたらしい。というかリードを恐れて私に近寄らなかったのだろう(パスpass/リードreadとは、トランスセクシュアル業界において、身体の性別以降中のトランスジェンダーが、外見や振る舞いを含めて希望する性genderで、他人が見て疑問を感じないほど社会に通用していることを「パスする」といい、反対に、生得的な性から転換していることを周囲に気づかれてしまうことが「リード」である。また、これらはアメリカのトランス業界から輸入した言葉であり、日本のパス/リードはある種の「方言」である)。

 ゲイやレズビアンバイセクシュアルはカムアウトしなければ当然パスするが、トランスジェンダー異性愛強制社会においても、日本の医療現場においても生き残るのは困難だ。そのトランスジェンダーは療法士の資格はあるが、もし誰かがリードして職場にアウティングしたら、病院に解雇されるかもしれない恐れ、病院ではもう勤められなくなる不安、自分への職場の眼差しが耐えられなくなる恐怖があるからだ。

 私は「毎日がひとりプライドパレード」とも言える性的マイノリティで、初対面でも「どうもー、ノン・ヘテロですー」と平気で挨拶するのだが、「お仲間」たちは政治的により敏感だ。半分遊びで半分大真面目、ときには他人事のように、ゲイゲイしいレインボーフラッグ(キラッキラのラメ入り)を私のベッドの壁に、それこそ目立つように飾った。2011年の日本では、レインボーフラッグの意味がわからないか、わかっていても無視するのか、あるいは超多忙でいちいちコミットできないか、コ・メディカル(和製英語英語圏の正しい名称はパラメディカルparamedical)も含めたスタッフ全員、私に「おや? あなたは性的マイノリティですね♪」と声をかける人はいなかった。後述するが、これがアメリカと日本の違いである。年に一度、渋谷の道路を練り歩くだけでは済まされない。病院こそが、スタッフを医療教育して性的マイノリティの患者たちにもオープンでリラックスした空間をつくるべきだ。

 北緯24度のフロリダ州の病院は、寝汗かくほど自分の身体が臭いと感じたが、北緯35度の東京は真冬で、日中の室内でも震えるほど寒かった。フロリダを日本にたとえると、最西端の与那国島とほぼ同じ緯度だ。沖縄は緯度がはるかに高い。どれだけ暑いかフロリダへ行ったこともない人でも想像ができるだろう。

 さて、いよいよ入浴の時間である。私のような脳疾患患者の場合、再発作(再発)や合併症を恐れて一定期間の安静をしなければならないが、一方で衛生面のケアも必要である。そこで機械浴の登場だ。

 機械浴とは、全裸の患者を自動で温シャワーをするもので、事前にナースたちがボディ・シャンプーをつけて患者の皮膚をブラシで擦ってアワアワにするというものだ。患者を自動車にたとえると、その仕組みを理解してくれる人もいるだろう。だが当然、私は患者であって自動車ではない。ノン・ヘテロの私をナースたちが丁寧に洗ってくれる様子は、まるで性風俗でサービスを受ける客のように興奮したものだ。ナースが「次は機械浴です。準備しましょう」と呼ばれたら、私のなかでウハウハな気持ちが止まらず、ニヤニヤも止められなかった。

 まず、ベッドで衣服を脱がし、体位変換してストレッチャーに移動する。ベッドからストレッチャーに移乗するスライディングシートの濡れた冷たさもいざ知らず、気分はパラダイスへGo! とウキウキである。その日機械浴を担当したベテラン・ナースが、「ミヤマさんて、お肌スベスベですね」と言ったので鼻血ブーだぜ! もっとも、機械浴の患者はみんなヨボヨボのババアばっかりだから、私の肌を錯覚してスベスベだなんて言ったのかもしれないが。

 話は前後する。世田谷区議会議員の上川あやさんとは、数年前に彼女の職場を取材・撮影していており、私はビデオで編集して依頼人にデータを送った。依頼人は「日本のフェミニストレズビアンをビデオ・インタビューして世界にデータを送りたい」と言っていた。当時は区の公衆トイレをオストメイト人工肛門保有者・人工膀胱保有者)の導入に力を注いでいた彼女だが、彼女がそこまで公衆トイレを平等にするかが過去の私にはわからなかった。

 彼女の紹介から「バリバラのディレクターに会ってみませんか?」と訊かれ、私は即OKした。ディレクターから「一度打ち合わせしたい」とメールがきて、出かけて行った。あれは私が退院した翌年(2012年)の夏で、言語障害が残っているからしゃべりにくいとか、他人には聞き取れないとか、脳が疲労するとか言いながら、私は脳梗塞発症のことと性的マイノリティの思い出を話している最中、超混乱して何度も何度も号泣した。打ち合わせを中断して号泣する私を、ディレクターは待ち続けた。悲しい辛いからでは決してない。これも後述するが、高次脳機能障害が原因だった。

 まず、私の生活する様子や、上川さんとパートナーと3人で居酒屋談義する様子を取材した。ニコチン摂取は毎日するが、アルコール摂取は久しぶりなので、いつものようにビールと日本酒を飲んだ私は具合が悪くなってトイレでリバースした。上川さんは私をトイレまで連れて行って介抱した。なんて心優しい人なんだろうか。

 スタジオ収録は大阪だった。私は同行取材する友人と一緒に新幹線に乗り、出演する性的マイノリティの障害者たちと出会い、バリアフリーのホテルに一泊した。ホテルからテレビ局のスタジオ移動は、すべて車椅子用の小型バスである。さすが天下のNHK。旅はいいもんだぞ。

 バリバラの収録からしばらく経った後、私は気になって彼女の本(『変えていく勇気—「性同一性障害」の私』(2007年、岩波新書))を改めて読んだ。学生のころから障害者に気持ちを寄せていたことがようやくわかった。

 その後、上川さんとパートナーに誘われ、晴天のなか隅田川水上バスに乗ってビールを飲み、「最新車椅子のシンポジウム」に参加して、車椅子で階段を上る方法や車椅子に座ったまま立ち上がるマシンの試乗をした。健常者こそ障害者の生きかたの知恵や情報に関心を持たねばならないと私は思った。

 「バリバラ」出演がきっかけで、私は「性的マイノリティの障害者って全国にどれくらいいるのかなあ?」と疑問に思った。発症時「このまま一生セックスできねーな」と心のなかでつぶやいたことを覚えている。

 退院して、病院の外の世界で生活すると、障害者のアイデンティティが私にはあるのかどうか、ひじょうに迷った。性的マイノリティのアイデンティティは20代前半ですでに持っていたのだが、この2つのアイデンティティについて、折り合いをつけることがしばらくできなかった。車椅子に乗っている私は「中年の女、もしくは外見のみおっさん」として見られがちで、見た目はそんなに変わってないのに、初対面の人は私を「異性愛者の独身女」と理解してしまう。そんななか私はスキンヘッドにし、ゆくゆくはピアスを2個し、車いすにステッカーを貼って、微かな抵抗をした。

 コミュニティは、性的マイノリティも障害者もすでにあるが、片方にいると片方は忘れられる始末である。もともと私はコミュニティに所属しない野良でずっとやってきているから平気だが、もしかすると、なかにはどちらの場合もカムアウトできず悩んでいる仲間がいるのかもしれない。

 特に女性障害者たちは、性の人権を剥奪されている。知的障害女性は思春期になると月経が始まって、異常に興奮したり、暴れたり叫んだりしている。介護する親も大変だと思うが、なかには子宮をまるごと切除されたケースもある。

「アシュリー事件」という有名な事件をご存知だろうか。原因不明の脳症による発達障害を持つ、1997年生まれ、シアトル在住の児童「アシュリーX」に対して実行された医療処置がアシュリー療法だ。当事者の精神、身体が生涯的に乳幼児レベルであると診断されたことを基に、当事者の健康状態、人生の質(QOL)を維持するため、および介護を行う両親の負担軽減のために、エストロゲン療法による成長減衰、子宮摘出、乳房芽切除、虫垂切除術、盲腸切除が行われた。

 アシュリーは2004年7月(当時6歳)、両親が思春期を迎えることを考慮し、その療法を受ける。2006年12月、成長板の活動停止を進めるために行われていた、皮膚パッチを使用したエストロゲン療法を終了。翌年1月、両親が匿名でブログを開始した。障害児をもつ児玉真美さんがこのブログを見つけて「アシュリー事件」と名付け、同年5月より、ブログ「Ashley事件から生命倫理を考える」を開設し、多大な反響を受けた。

 また、私は脳性麻痺のゲイ男性と知り合いである。彼の場合はクローゼットだが、花田実さんという脳性麻痺のゲイ・アクティビストを教えてもらった。花田さんの活動時期は1990年代と2000年代であり、2002年5月31日に亡くなっている。死因は不明だが、パソコン通信時代の花田さんの知人曰く、自殺ではないか、と語っている。

 花田さんのアクティビスト活動はほんの数年だ。おそらく花田さんは「脳性麻痺のゲイ」をアピールして、たった一人でも仲間に出会えたかもしれないが、その希望はかなわなかった。花田さんが活動した日本の障害者たちはほとんど彼に共感しなかったのだろう。そうか、もし花田さんが生きていたら、私は彼に出会い、多くのことを教わったかもしれない。花田さんの主な活動は執筆で、「生存学研究センター」で検索すると彼の考えかた、生きかたが見えてくる。

 私は当初、花田さんについてインタビューする映画を撮りたかったが、いま生きて悩んでいる性的マイノリティ障害者たちを取材し、ドキュメンタリー映画を製作中だ。「東京編」「大阪編」まで構想しているが、これからまだ誰に出会うかわからない。とりあえず「東京編」は2018年、「大阪編」は2019年に公開予定である。ただし、一般の劇場ではなく、上映会形式で開催予定だ(予定は未定)。

 

「さらばリハビリ」~(2)仁義なき病院との闘い

 アメリカから帰国した翌日、川口さんが入院手続きをして、私の部屋を用意してくれた。カーテンを締め切っていたので詳細はわからないが、部屋は4人か6人くらい。窓が広くて、部屋全体に日光が明るく差している。川口さんは机で書類の記入をし、売店でパジャマとオムツとタオルを買ってくれた。彼女が帰った後、昼食の時間である。その前に、私のオムツは糞まみれだったのでオムツ交換してすっきりしてから食べようと思い、ナースコールを押した。

 だが、押しても押してもナースは全然来ない。たぶんナースたちは忙しいだろうと思って最初は余裕で待っていた。しかし、短気の私は堪忍袋の緒がすぐにブチ切れた(高次脳機能障害のせいでもあるかも?)。もういい! 待っても全然来ないなら、逆にハンガーストライキをしようじゃないか!

 同室の患者が私の糞の臭いに困ってナースステーションに苦情を言い(私は鼻が悪いので、自分の糞の臭いはおろか、ドリアンでもくさやでも平気で食べた)、やっと師長が私のところに怒ってやってきた。それを見た私は怒髪天を突く勢いで怒鳴り返した。

「私が呼んでも呼んでも来なかったくせに! 隣の患者さんの言うことは利けるのか! もうオムツは絶対に取り替えさせない! 絶対に!」

 困った師長は、今度は懇願の姿勢で言った。私がオムツを取り替えないと、部屋の隣人が困る(私は全然困らない)のである。当事者の私がイエスと言えばオムツを交換できるが、私はノーと言っている。要は、患者の身体について反対意見があると医療者側は強制できない。

 1981年に採択された「患者の権利に関する世界医師会(WMA)リスボン宣言」において、良質の医療を受ける権利、選択の自由の権利、自己決定の権利、情報に関する権利、守秘義務に対する権利、健康教育を受ける権利、尊厳に対する権利、宗教的支援に対する権利などが挙げられているのだ。

 今度はナースたちが私のベッドを取り囲んで威圧してきた。そんな威圧がなんだ、私は絶対に負けない。私がオムツを取り替えたくても、いままでナースたちはいったい何をしてたのか? 無視したじゃないか! だったら私もナースの要望を無視してやるからな!

 当時の私はおそらく、こんなふうに明確な主張を言葉で訴えるわけでもなく、実際には怒号を伴った咆哮だったろうと思った。意味も言葉もわからず、ただオムツ交換を拒否する、迫力と凄みのある羆かゴリラであった。ベッドを取り囲んだナースたちは一斉に泣いた。緊張のピークになったのか、私の気迫が怖かったのか、それとも超多忙でストレスフルなナースたちの心が折れて、疲れさせたんだろうか。

 これ以上、私にかかわり合ったら業務に差し関わると判断した師長は、一度彼女たちを撤退させた。でも私の意志は変わらなかった。となると、困るのは同室の患者さんたちだ。

「あ〜、臭い臭い」と隣の患者は皮肉に言った。私はすかさずリベンジした。カーテンの隙間から患者の目を瞬きなしで強く睨み、「コロシテヤルコロシテヤルコロシテヤルコロシテヤルコロシテヤルコロシテヤルコロシテヤルコロシテヤルコロシテヤルコロシテヤルコロシテヤルコロシテヤルコロシテヤルコロシテヤルコロシテヤルコロシテヤル…」と私はつぶやき、黒い殺意を込めて呪いに呪った、患者の心臓をきゅっと掴むように。カーテンの隙間から覗いた患者は困ったように手で顔を覆った。そして患者は速攻で移動した。ざまあみろだ!

 以降、ナースたちは私に声をかけ始めた。「アメリカで倒れたって本当ですか?」が「アメリカ人なの?」に容易に変わる。バカたれ、名札を見ろよ名札をよ! といっても、私は短期間アメリカにいたせいで言語障害がさらにアレンジされ、「外国語訛り症」と診断された。すぐ治ったが、「し」が「すぃ」と発音され、勘違いナースを生み出したのは私が原因だった。

 季節は冬。私と似たような症状の患者が次々搬送され、顔はまったく見えないが、深夜の病室でしくしくと泣いているようだった。「患者たちは何が悲しくて泣くのだろうか? 私は脳梗塞になり寝たきりになっても泣いたことがないぞ? むしろ笑ったり怒ったりで忙しいんだよ!」と不思議に思った(←おそらく高次脳機能障害で感情のコントロールができない。それが判明するのは退院してから)。

 時は2011年の正月を迎え、私は病室で「寒い、寒い」と繰り返した。それもそのはず、入院してまだ2週間も経っていないのに、私は寝たきりになって筋肉をまったく動かしていないのだ。

 北海道の豪雪地帯で生まれ育った私が、東京の冬の寒さに負けるなんてありえない。なのに、部屋の暖房を入れても重ね着してもまだ寒いのである。「身体が凍えるように寒い」という謎は、発症して数年経ってやっと解明した。傷ついた脳はエネルギーコントロール不能で、あめ玉やチョコレートなど高カロリーのものを常に携帯し、摂取しなければならない。脳が「エネルギーゼロになった! カロリーをくれ!」ということを身体の寒さで必死に訴えている。それが判明したいまは机の上に常備食をセットして、空腹より先に身体の冷えが始まるとそれらをすぐに食べるのだ。若いときは冬になると過ごしやすく感じたが、いまは春や夏が待ち遠しい。冬が天敵になるとは思ってもみなかった。

 話が寄り道した。誰が知らせたのかわからないが、「お仲間」の見舞いが続いた。「お仲間」というのは、私と同じような性的マイノリティの知人友人たちである。当時の私は国際基督教大学の性的マイノリティ学生サークル「シンポジオン(ギリシャ語で「饗宴」)のメンバーと一緒にイベントや飲み会に参加していた。メンバーとの年齢は10歳も離れていたが、ジェネレーション・ギャップは私にはあまり感じなかった。共通する話題は「くたばれ家父長制」「天皇制廃止しろ」という物騒なもので、性的マイノリティだけでなく、外国籍の留学生とも日常的に接触が多く、たとえば、一人が日本人でもう一人がフィンランド人のゲイ・カップルがいた。ジェンダーだけでなく人種や階級にも敏感なメンバーたちは、怒りながら飲みながら食べながら笑っていた。

 私はベッドで寝たきりで、言葉もうまく喋られなかったが、いまでも覚えているのは、ユニクロの黒いヒートテックをお見舞いにもらったこと。左腕が動かないので袖を切って着ると、「まるで前衛舞踏家みたい」と友人が言い、私は笑いのツボに入った。

 レズビアンカップルで、いつでもどこでもバイクで移動する2人がやってきて、「この病院、屋上があるよ。一緒に見に行こうよ!」と言って車椅子で私を連れ出し、2人は「眺めがいいねえ」と悠長に言っていたが、時間帯は夜で周りは暗く、私は寒くて、左胸のあたりの筋肉が寒さで収縮し、肺が痛くて苦しくてそれどころじゃなかった。なんというか、ありがた迷惑だと当時の私は思った。。。

 入院以来、私は歯も磨かず、風呂にも入れない状態だった。そんな折、これも別のレズビアンカップルだが、一人は看護師、もう一人は患者のプロで、洗面器と歯ブラシセット(なんと膿盆入り!)を持参し、看護師が私の右足を洗い、足を鼻につけて「臭い!」と言った。私は笑った。

 帰り際、看護師が私の左手を持ち、石けんで洗った。その官能的な泡の感触が、私の性的興奮をくすぐったことは内緒にしている。

 その月は私の41歳の誕生日で、病院内で「お仲間」たちと集まり、ささやかな誕生日会をしてくれた。北海道出身の友人が茶色のあったか〜い膝掛け・肩掛けをくれたので、さっそく試してみると、ゲイの友人が「マタギみた〜い♪」と笑った。そのとき私のヘアスタイルはスキンヘッドを伸ばした感じだったので、クマやシカの毛皮を着たおっさんのようなマタギだった。これは否めないなと思い、笑うしかなかった。入院中はいろいろな見舞い品をいただいたが、これはいまだに重宝している。だって、あったか〜いんだもの。

「さらばリハビリ」~(1)アメリカから日本へ帰国

 2010年12月中旬(日付がわからない)。アテンド役の人と私が帰国準備をして病院で待っていると、川口由美子さんが手配したらしく、日本人ナース2人がニコニコと明るく登場し、病院の手続きやら私含め荷物の移動やら、瞬く間にフロリダ国際空港へとやってきた。いままでアテンド役の人はいたが、私の専門的なケアはできずイライラを感じていた私は(会うと毎回「外に出たい!」とアテンド役の人に訴えてたが、その辺の看護師に許可を取るでもなく、「そんなことできない…」とおろおろしていた)、長年の便秘が解消したかのように気持ちがスッキリとしていた。フロリダの天気のように私の心も快晴だった。

 アメリカと日本の移動時間は長い。少なくとも14〜19時間はかかる。行きのトランジットはミネアポリスとオーランドだったが、帰りのトランジットもオーランドとソルトレイクシティの2カ所があったように思う。もしかしたら私の記憶違いかもしれないが、私はずっと車椅子にぼんやり乗って荷物同然だったので何も把握していなかったのだ。

 病院のナースが私の尿道カテーテルを外し、代わりにオムツをつけていたので、移動時間の長さを気にした日本人ナースたちは私をトイレに移動させ、オムツチェックをして便器に座らせた。オムツは濡れていない。でも膀胱タンクはパンパンだ。しかし、私の尿道口はうんともすんとも開かない。脳は「放尿しろ!」と指令をするが、身体が言うことをきかないのだった。

 原因は2つあると私は思った。昔々、幼少期のトイレットトレーニングのとき、オムツを外して風呂場で放尿させようとした父が、いつまでたっても私がおしっこしないから、これは根比べだと思って小さな私をずーーーっと抱え、ようやく私が「わあああああっ!!」と泣き叫んだと同時にぴゅーっと放尿した、と笑って言った。ふん、過去の思い出話だ。あのときの私は赤の他人である。と思い込もうとしたが、「雀百まで踊り忘れず」という諺を思い出し、痛感した。

 もう1つ。ナース2人に監視されたままで40歳の私が放尿できるか! こんな羞恥プレイできねえ! である。この2つの原因が相俟って放尿できなかったのだ。

 後になって介護の本を読むと、「オムツをつける利用者さんを考慮して、まず自分でオムツをしましょう放尿しましょう、と講師は言うが、習慣や環境というものはそう簡単に身体に対応できず、オムツのままでは放尿できないヘルパーさんたちがいた」とあった。なんだ、私だけじゃなかったんかい、とホッとした。

 いくら待っても出やしない、とナースと私は思い、搭乗手続きの時間があまりないので、トイレを後にした。

 搭乗手続きをし、飛行機に乗り込む。なんとファーストクラス! 座席がゆったりとしていて、ナースが交替で私に食事介助をし、キャビン・アテンダントに「Could I have a bottle of 水?」という日本語混じりの通訳をして私を笑わせた。こんなゴージャスな生活を毎日続けたら、きっと私は堕落するに違いない、でもいまは楽しいし愉快だ。このままずっと乗り続けられたら…と一瞬、アホな考えが浮かんだ。

 この日はクリスマスだったことを覚えている。というのも、乗客はみな赤白のサンタ帽をジョークで、もしくは習慣で被っていたからだ。エコノミークラスはどうか知らないが、これはビジネスクラスの経済的精神的余裕だと判断し、「ははん、ビジネススーツを着てサンタ帽を被ったアメリカン・ジョークだな。だっせえなぁおい」と軽蔑し、私は異文化を少しも理解しない日本人なのでまったく笑わなかった。

 搭乗してどのくらい時間が経ったのだろう。トイレにも行けず、オムツを交換することもできない私の膀胱の限界を悟ったナース(私はそれほど限界とは感じていなかった)は、キャビン・アテンダントと相談し、通路の真ん中というか座席に座ったまま私のオムツを外し、機内が暗いので懐中電灯で照らして再び尿道カテーテルのプラグを入れた。私は恥ずかしいというより、「もう1人でトイレに行くことができないんだ…」との観念をしていた。

 そういう、哀しい諦念をしていたが、明るくジョークで私を笑わせるナースたちには、私が悲観に暮れないようにずっとサポートをしていたに違いない。いま改めて思い出すと、このときのナースたちがケアサポートにおいてベストだと私は感じた。車椅子状態の私をフロリダからはるばる日本に同行介助するのだから、そりゃ大変だ。誰にでもできるわけじゃないし、当時の私にもできなかった。ナースの資格を持っているからでは当然ない。

 長い長い搭乗で、私は眠ったのかそうでなかったのか自分でもわからない。どのみち自分の力で歩けないし、ずっと乗り物に乗っていたしで、体力は全然使っていなかった。

 ようやく成田に到着し、そこから救急車で東京の病院へ向かう。とにかく、身体障害者のケアラーの駆け出しだった私は尊意を込めて、「あんたたち、ナースなのに通訳もできるの? なんで?」と聞いた。「えーっと、私たちは六本木の病院に勤務してるの。うふふ」六本木といえば、外国人がたくさん住む街だ。なるほど! それでジョーク混じりのくだけた通訳をしてるのか! 救急車を降りたナースたちは、病院にバトンタッチにて颯爽と笑顔で去っていった。

 到着した病院は、某大学付属病院だった。だだっ広い空間で、患者はたぶん寝ているが、しーーーんとしていた。私はずっとベッドで寝たきりだった。時間帯は深夜になろうとしており、急患が個室に搬送され、「○○!、○○〜! 死なないで〜! あああああ!!」と泣き叫ぶ知り合いたちの修羅場があった。声だけが鮮明に聞こえるが姿は見えない。そして静かになった。いまや病院では生き死にが日常茶飯事になっているらしい。と、頭ではわかっていたものの、初めて「患者」としてこの「舞台」に上がった私は、いきなり悲劇シーンが展開し、おびえ、すくんだ。

 ダンテの『神曲』ではないが、アメリカから日本に帰国した私は同時に、突然、天国から地獄に落とされたかのように対応ができなかった。そして地獄はさらに続く。

「さらばリハビリ」~はじめに

 facebookで日々のよしなしごとを書いていると、友人であり恩人のKさんが「その発想面白いね!」と言い、私は本にまとめるために原稿と簡単な企画書を作成していた。だが、出版不況だけでなく経済不況が続き、Kさんが「さらばリハビリ」の企画書を出版社に持っていくが(本のタイトルはKさんがつけた)どこにも採用されないまま、2年が経った。

 そもそもタイトルがよろしくない(私はすごく気に入ってるが)。「さらばリハビリ」って何だよ? 怪我や病気になったらリハビリでワンクッション置いてから復帰するのが当然だろうに。要するにリハビリは必須なのだ。この社会では「健全」でなければ顔も出せないし生活ができないのだ。

 それから「リハビリ」で検索すると「私はこれで成功した!」的なタイトルがあって、「まるでダイエットみたいだな」と思った。人がダイエットを目指すなら必ず成功する本を買うのは心理的かつ市場的に当然である。ダイエット本なのに著者は太ったままでは売れやしないし説得力もない。

 9年前、私は脳梗塞で左片麻痺言語障害になったが、いまだ杖なしで歩けないし、喋ると脳が疲弊する。そのうえ私はてんかん持ちである。それでも私は電動車椅子を使って(体力の続く限り)どこにでも行くし、「健常者社会」でも堂々としている。

 実際に、片麻痺になって必ず成功(回復)することはありえない。片麻痺になって努力してリハビリしても、身体が動くようになる場合もあるが、なかなか回復しない人たちもいるのだ。その人たちのために、私は書くのだ。

「半人前」とは、ネット辞書によると「一人前の半分。またその程度の能力しかない者」とある。自分のことを言うなら謙遜の気持ちもあるが、他人に言われるなら「もっと努力せよ」と恥を感じる言葉だ。仕事を始めたばかりの若者ならまだ平気だが、私はすでに50の声を聞いており、しかも生活保護を受けている。身体障害者だから「働けない」のだろうなと人は思うかもしれないが、あえて私は「働かない」。毎日自宅にいて、眠たいときに寝て起きたいときに起きる。自堕落な生活である。

 でも、「ああ、私の人生終わったな」「詰んだ」とか「先行きの見えない不安」「悲惨な人生」などと悲観的になったりしない。むしろ私は高等遊民のように、このささやかな生活を丁寧に生きている。

 大学4年のとき、私は就職活動をしなかった。卒業して会社に就職はしたが、その会社はアルバイト雑誌で見つけたもので、気軽であった。言い換えれば、将来のことについて私は何も考えてなかった。そして1年も勤めないうちにさっさと辞めた。それからずっとフリーのアルバイターをやってきた。書くこと、考えることはなぜか昔からやっていたし、そのため10年以上フリーのゴーストライターを生業にしてきた。

 編集プロダクションは私をいきなり切ってきた。契約してないからしかたがないと思い、新たな職探しを始めた。飲みながら友人に、「仕事辞めさせられちゃった。どっかいいとこない?」と訊ねたところ、友人は「ALS専門の介護事業所『ケアサポートモモ』があるよ」と答えた。その事業所は有限会社で、川口由美子さんが社長だった。

 ALSの患者さんは家族ぐるみで介護されていると聞き、セクシュアル・マイノリティの私は、「ああダメだ、私には家族はできない。もしも私がALSになったらどうしよう? きっとひとりぽっちだ」と川口さんにそっと弱音を吐いた。川口さんは、「大丈夫だって。ひとりでも平気だよ」とさわやかに笑って答えるのだった。

 そして2年が過ぎ、私はまだまだ「半人前」のALSケアラーだった。ゆくゆくは実務経験を積んで介護福祉士の資格を取り、障害者や高齢者をサポートするケアマネージャーになるはずだった。いまから9年前、米国でALSの世界会議に出席するため、飛行機に乗った患者さんに同行して、フロリダのディズニーランドで遊んだり、NASAの宇宙センターを見学したりしていた。

 当時の私は40歳で、スーパーケアラーとしては肉体的なピークを過ぎており、平均睡眠が4時間で、いつも「眠い眠い」と呟いていた。そこでアクシデントが起こった。何時間か気絶した私は、突然「片麻痺」「言語障害」「高次脳機能障害」になっていたのだ。

 「昨日の私は別人である」というくらいに、まったく何もできなかった。過去の私は、もう存在していなかった。

 でも、いいのだ。片麻痺の私は、文字通り「半人前」であった。私の言う「半人前」とは、右側の健常者である「ケアラーの卵」の私がいて、左側の麻痺側である「患者の卵」の私がいて、半分は見守り、半分は療養中だ。そういう意味である。

 その療養生活も9年が過ぎた。「半人前」の私は、今日も麻痺側の声なき声を聴いている。今の私の身体状態はなんとか杖歩行できるが、長距離の散歩はできない。腕は常時だらんと脱力し、動かそうと思ったら微かに動く。でも「だらん」とした状態が、まるでアンテナのように私に何かを訴えるのだ。

 多くのリハビリ者たちは健側が麻痺側を無視するが、私は無視したりしない。動く側が動かない側を無理矢理動かさない。

 結果、私は「無理してリハビリをしない」ことにしている。理由はすべてこのブログに書こうと思っている。

 

「尊厳死法案」合法化は人身(臓器)売買の暗躍化を増長するのか?

 「尊厳死」でネット検索してトップに出てくるのは朝日新聞連載「シリーズ:柊の選択 穏やかな死を探して」である。尊厳死の話題はだいたい網羅されているが、もう少し深く掘り下げたい方は立岩真也の著書を読みなさい。わかってきたことがどんどんわからなくなるから覚悟してね。

 立岩真也さんの本も難解で冗長だが、テーマがテーマである。おいそれと国会で法制化なんてできっこない。国会議員は「国民はバカだ」と思っていると邪推するが、そういう国会議員もバカ丸出しだから。国民舐めんなよ。

 冒頭にオデの見解を言っておくが、尊厳死の法制化には反対である。現状が最善だとは決して思わないが、法制化=合法化になることは間違いない。「安楽死尊厳死」は日本の現状では「自殺幇助」であって、刑法203条「自殺関与・同意殺人罪」は殺人罪減刑類型であり、法定刑はすべて「6ヶ月以上7年以下の懲役又は禁固」と殺人罪よりも軽い。これらの罪の未遂も罰せられる。

 つまり、尊厳死安楽死の“合法化”は、終末期患者や高齢者の医療措置をせず(消極的安楽死)、死を希望する者には安楽死を担当医師と同意契約して注射で死を全うさせる(積極的安楽死)ものである。医師の特権(法の抜け道)と言っても過言ではない。こうなると腹黒くて頭の悪い医師は特権を振りかざすんだよ。そんな連中に「自分の死」を任せられるか。

 法律はデコボコの道をブルドーザーで平坦に均すようなものだ。患者と医師との個別的信頼関係が事務的で冷たい「死の契約」となるに決まってんだよ。医師を信用するな。法律を信用するな。信用していいのは自分の判断だけだ。

 一部の欧米諸国にはすでに安楽死の合法化が行われているが、すべての国民が同意せず、反対意見もあるだろうと思う。スイスで安楽死したオーストラリアの環境学・植物学者デイビッド・クドールは「ふさわしい時に死を選ぶ自由」と定義している。

 さて、生死をめぐる考えかたは日本と欧米ではニュアンスが違う。「生きる権利・死ぬ権利」を主張する欧米と「生きる義務・死ぬ義務」を静かに受け取る日本の捉えかたも違えば、いざ合法化されたら「死の決定権」は医師に譲らねばならない(「先生にすべてお任せします」)日本人は増えるだろうと想像せざるを得ない。まったく安易だからな~日本人は。

 今年だったか、脚本家の橋田寿賀子さんが雑誌で「安楽死で死にたい」と主張した。オデはその雑誌はまだ見てないが、ネット検索すると「認知症になったり、身体が動かなくなったりしたら、安楽死したい」「私には、家族も心を残した人もいませんから、寝たきりになったり、重度の認知症になったりして、人に迷惑をかけてまで生きていきたくない。ただ単純にそれだけです」。

 出た!「迷惑をかけてまで生きていきたくない」。ここで日本人が共感するフレーズを盛り込んできたが、オデにとっては「薄っぺらくて浅~い主張だなあ」と思って冷笑するしかなかった。「お迎えが来ない~」と、ただ受動的に待ってるだけなのでは?

 橋田さんは長期高齢者だが、まだ健康的だ。軽い病気や体調不良になることもあるだろうが、末期がんや難病にはかかっていない。そうなる前に「安楽死」を、そうなってからでは遅い、とのこと。

 なんで? そうなってから生活してみなさいよ。気分も考えかたも変わるから。

 末期がん患者の生活や心情はオデにもわからないが、歌人中城ふみ子さんは『乳房喪失』の題で50首全部が掲載された。当時の歌壇に大きな反響を呼び、寺山修司は中城の短歌に衝撃を受けて自らも短歌を詠み始め、中城受賞の次回度に短歌研究50首詠を受賞した。 

 中城の作品は「アンチ写生」であり、そこでは徹底して短歌をつくる作者の「私性」が追求されていた。中城が目指した短歌における「私性」とは、虚構を排除しないものなのだ。中城はそうした虚実のあわいに出現する「私性」を、作品を書くことによって実践的に確立していった。自らが体験しつつある乳癌による死というドラマを通底音として、虚実取り混ぜた短歌作品としてある自己を「ロマネスク」に語ること。「新しい抒情の開拓」というのは中城自身の言葉である。そして現実もまた中城によって提示されたフィクションとしての短歌作品を、読者に改めて追体験させるかのように進んでいった。デビューからその死まで、半年に満たない強烈な印象を読む者すべてに与える、短くも鮮やかな生涯の軌跡だった。

 また、ALSを代表する全身性難病患者には「ALSを楽しく生きる」ことを目指しているかたも多くいる。そのうち「ALS文学」「難病文学」などの新しい分野を開拓するんじゃないだろうか。かくいうオデは「片麻痺文学」「重度身体障害者文学」なるものを開拓研究中である。

 かつて健常者の自分がそうなるなんて予想もしなかった心境は、病とともに発展・進化する。オデにはまだ希望がある。だから死ねない。生きるしかない。傍から見れば「生産性のない奴」と笑われているだろうが、現在は潜伏中である。いまに見てろよちきしょうめ。片麻痺のオデは半分死んでいるようなもので、脳梗塞という厄介な病気に日々驚かされている。てんかん発作の前兆はくしゃみが出るのと同じくらい自分でコントロールできないし、予兆も突然で、その発作を重ねて対策を講じなければならない。付け加えて老化の問題もあり、白内障で本の細かい文字が読めないし、部屋の明かりも眩しくてつけられないのだ。

 プロの脚本家・橋田さんはまだ認知症にはなっていないらしいが、突然なるわけじゃないと思うので、自己観察日記を書き連ねておいてドラマ化すればいいんじゃない? 『恍惚の人』は介護する妻の視点で展開するドラマだが、認知症本人の行動や思考の変化は橋田さんじゃなきゃ作れないからチャレンジしてみては? 安楽死のイメージが変わると思うし、オデもぜひ見てみたい。

 

 そんでタイトルの「人身(臓器)売買」は「アシュリー事件」にも関係するが、重度心身障害児(者)は「死の自己決定権」なんてないでしょ? それで安楽死の同意は両親が代理して契約するのよ。子どもは両親の所有物だから。死んだら後は自動的に臓器が運ばれて移植する。親は涙を浮かべて「せめて子どもの臓器が生きていけるように」との美談な茶番。医師も臓器を待っている人もめでたしめでたし…って、それじゃいかんでしょ! でもオデが「いかん」と思ってることに限って未開のビジネスチャンスはあるからな。「この世は金ばかり」の常識を打破しないとね。

 「人は運命に抗いながら生きる」って? 精神的・形而上学的には賛成だけど、医療技術で金と労力を費やして本人は平穏に漫然に生活を再開するのは絶対反対。新しい文学・芸術作品は楽しく平和なときには生まれることはないが、激しい慢性的な苦痛や死の瀬戸際にならないと誕生しないと思う。これはオデの持論だ。