「さらばリハビリ」~(2)仁義なき病院との闘い

 アメリカから帰国した翌日、川口さんが入院手続きをして、私の部屋を用意してくれた。カーテンを締め切っていたので詳細はわからないが、部屋は4人か6人くらい。窓が広くて、部屋全体に日光が明るく差している。川口さんは机で書類の記入をし、売店でパジャマとオムツとタオルを買ってくれた。彼女が帰った後、昼食の時間である。その前に、私のオムツは糞まみれだったのでオムツ交換してすっきりしてから食べようと思い、ナースコールを押した。

 だが、押しても押してもナースは全然来ない。たぶんナースたちは忙しいだろうと思って最初は余裕で待っていた。しかし、短気の私は堪忍袋の緒がすぐにブチ切れた(高次脳機能障害のせいでもあるかも?)。もういい! 待っても全然来ないなら、逆にハンガーストライキをしようじゃないか!

 同室の患者が私の糞の臭いに困ってナースステーションに苦情を言い(私は鼻が悪いので、自分の糞の臭いはおろか、ドリアンでもくさやでも平気で食べた)、やっと師長が私のところに怒ってやってきた。それを見た私は怒髪天を突く勢いで怒鳴り返した。

「私が呼んでも呼んでも来なかったくせに! 隣の患者さんの言うことは利けるのか! もうオムツは絶対に取り替えさせない! 絶対に!」

 困った師長は、今度は懇願の姿勢で言った。私がオムツを取り替えないと、部屋の隣人が困る(私は全然困らない)のである。当事者の私がイエスと言えばオムツを交換できるが、私はノーと言っている。要は、患者の身体について反対意見があると医療者側は強制できない。

 1981年に採択された「患者の権利に関する世界医師会(WMA)リスボン宣言」において、良質の医療を受ける権利、選択の自由の権利、自己決定の権利、情報に関する権利、守秘義務に対する権利、健康教育を受ける権利、尊厳に対する権利、宗教的支援に対する権利などが挙げられているのだ。

 今度はナースたちが私のベッドを取り囲んで威圧してきた。そんな威圧がなんだ、私は絶対に負けない。私がオムツを取り替えたくても、いままでナースたちはいったい何をしてたのか? 無視したじゃないか! だったら私もナースの要望を無視してやるからな!

 当時の私はおそらく、こんなふうに明確な主張を言葉で訴えるわけでもなく、実際には怒号を伴った咆哮だったろうと思った。意味も言葉もわからず、ただオムツ交換を拒否する、迫力と凄みのある羆かゴリラであった。ベッドを取り囲んだナースたちは一斉に泣いた。緊張のピークになったのか、私の気迫が怖かったのか、それとも超多忙でストレスフルなナースたちの心が折れて、疲れさせたんだろうか。

 これ以上、私にかかわり合ったら業務に差し関わると判断した師長は、一度彼女たちを撤退させた。でも私の意志は変わらなかった。となると、困るのは同室の患者さんたちだ。

「あ〜、臭い臭い」と隣の患者は皮肉に言った。私はすかさずリベンジした。カーテンの隙間から患者の目を瞬きなしで強く睨み、「コロシテヤルコロシテヤルコロシテヤルコロシテヤルコロシテヤルコロシテヤルコロシテヤルコロシテヤルコロシテヤルコロシテヤルコロシテヤルコロシテヤルコロシテヤルコロシテヤルコロシテヤルコロシテヤル…」と私はつぶやき、黒い殺意を込めて呪いに呪った、患者の心臓をきゅっと掴むように。カーテンの隙間から覗いた患者は困ったように手で顔を覆った。そして患者は速攻で移動した。ざまあみろだ!

 以降、ナースたちは私に声をかけ始めた。「アメリカで倒れたって本当ですか?」が「アメリカ人なの?」に容易に変わる。バカたれ、名札を見ろよ名札をよ! といっても、私は短期間アメリカにいたせいで言語障害がさらにアレンジされ、「外国語訛り症」と診断された。すぐ治ったが、「し」が「すぃ」と発音され、勘違いナースを生み出したのは私が原因だった。

 季節は冬。私と似たような症状の患者が次々搬送され、顔はまったく見えないが、深夜の病室でしくしくと泣いているようだった。「患者たちは何が悲しくて泣くのだろうか? 私は脳梗塞になり寝たきりになっても泣いたことがないぞ? むしろ笑ったり怒ったりで忙しいんだよ!」と不思議に思った(←おそらく高次脳機能障害で感情のコントロールができない。それが判明するのは退院してから)。

 時は2011年の正月を迎え、私は病室で「寒い、寒い」と繰り返した。それもそのはず、入院してまだ2週間も経っていないのに、私は寝たきりになって筋肉をまったく動かしていないのだ。

 北海道の豪雪地帯で生まれ育った私が、東京の冬の寒さに負けるなんてありえない。なのに、部屋の暖房を入れても重ね着してもまだ寒いのである。「身体が凍えるように寒い」という謎は、発症して数年経ってやっと解明した。傷ついた脳はエネルギーコントロール不能で、あめ玉やチョコレートなど高カロリーのものを常に携帯し、摂取しなければならない。脳が「エネルギーゼロになった! カロリーをくれ!」ということを身体の寒さで必死に訴えている。それが判明したいまは机の上に常備食をセットして、空腹より先に身体の冷えが始まるとそれらをすぐに食べるのだ。若いときは冬になると過ごしやすく感じたが、いまは春や夏が待ち遠しい。冬が天敵になるとは思ってもみなかった。

 話が寄り道した。誰が知らせたのかわからないが、「お仲間」の見舞いが続いた。「お仲間」というのは、私と同じような性的マイノリティの知人友人たちである。当時の私は国際基督教大学の性的マイノリティ学生サークル「シンポジオン(ギリシャ語で「饗宴」)のメンバーと一緒にイベントや飲み会に参加していた。メンバーとの年齢は10歳も離れていたが、ジェネレーション・ギャップは私にはあまり感じなかった。共通する話題は「くたばれ家父長制」「天皇制廃止しろ」という物騒なもので、性的マイノリティだけでなく、外国籍の留学生とも日常的に接触が多く、たとえば、一人が日本人でもう一人がフィンランド人のゲイ・カップルがいた。ジェンダーだけでなく人種や階級にも敏感なメンバーたちは、怒りながら飲みながら食べながら笑っていた。

 私はベッドで寝たきりで、言葉もうまく喋られなかったが、いまでも覚えているのは、ユニクロの黒いヒートテックをお見舞いにもらったこと。左腕が動かないので袖を切って着ると、「まるで前衛舞踏家みたい」と友人が言い、私は笑いのツボに入った。

 レズビアンカップルで、いつでもどこでもバイクで移動する2人がやってきて、「この病院、屋上があるよ。一緒に見に行こうよ!」と言って車椅子で私を連れ出し、2人は「眺めがいいねえ」と悠長に言っていたが、時間帯は夜で周りは暗く、私は寒くて、左胸のあたりの筋肉が寒さで収縮し、肺が痛くて苦しくてそれどころじゃなかった。なんというか、ありがた迷惑だと当時の私は思った。。。

 入院以来、私は歯も磨かず、風呂にも入れない状態だった。そんな折、これも別のレズビアンカップルだが、一人は看護師、もう一人は患者のプロで、洗面器と歯ブラシセット(なんと膿盆入り!)を持参し、看護師が私の右足を洗い、足を鼻につけて「臭い!」と言った。私は笑った。

 帰り際、看護師が私の左手を持ち、石けんで洗った。その官能的な泡の感触が、私の性的興奮をくすぐったことは内緒にしている。

 その月は私の41歳の誕生日で、病院内で「お仲間」たちと集まり、ささやかな誕生日会をしてくれた。北海道出身の友人が茶色のあったか〜い膝掛け・肩掛けをくれたので、さっそく試してみると、ゲイの友人が「マタギみた〜い♪」と笑った。そのとき私のヘアスタイルはスキンヘッドを伸ばした感じだったので、クマやシカの毛皮を着たおっさんのようなマタギだった。これは否めないなと思い、笑うしかなかった。入院中はいろいろな見舞い品をいただいたが、これはいまだに重宝している。だって、あったか〜いんだもの。

「さらばリハビリ」~(1)アメリカから日本へ帰国

 2010年12月中旬(日付がわからない)。アテンド役の人と私が帰国準備をして病院で待っていると、川口由美子さんが手配したらしく、日本人ナース2人がニコニコと明るく登場し、病院の手続きやら私含め荷物の移動やら、瞬く間にフロリダ国際空港へとやってきた。いままでアテンド役の人はいたが、私の専門的なケアはできずイライラを感じていた私は(会うと毎回「外に出たい!」とアテンド役の人に訴えてたが、その辺の看護師に許可を取るでもなく、「そんなことできない…」とおろおろしていた)、長年の便秘が解消したかのように気持ちがスッキリとしていた。フロリダの天気のように私の心も快晴だった。

 アメリカと日本の移動時間は長い。少なくとも14〜19時間はかかる。行きのトランジットはミネアポリスとオーランドだったが、帰りのトランジットもオーランドとソルトレイクシティの2カ所があったように思う。もしかしたら私の記憶違いかもしれないが、私はずっと車椅子にぼんやり乗って荷物同然だったので何も把握していなかったのだ。

 病院のナースが私の尿道カテーテルを外し、代わりにオムツをつけていたので、移動時間の長さを気にした日本人ナースたちは私をトイレに移動させ、オムツチェックをして便器に座らせた。オムツは濡れていない。でも膀胱タンクはパンパンだ。しかし、私の尿道口はうんともすんとも開かない。脳は「放尿しろ!」と指令をするが、身体が言うことをきかないのだった。

 原因は2つあると私は思った。昔々、幼少期のトイレットトレーニングのとき、オムツを外して風呂場で放尿させようとした父が、いつまでたっても私がおしっこしないから、これは根比べだと思って小さな私をずーーーっと抱え、ようやく私が「わあああああっ!!」と泣き叫んだと同時にぴゅーっと放尿した、と笑って言った。ふん、過去の思い出話だ。あのときの私は赤の他人である。と思い込もうとしたが、「雀百まで踊り忘れず」という諺を思い出し、痛感した。

 もう1つ。ナース2人に監視されたままで40歳の私が放尿できるか! こんな羞恥プレイできねえ! である。この2つの原因が相俟って放尿できなかったのだ。

 後になって介護の本を読むと、「オムツをつける利用者さんを考慮して、まず自分でオムツをしましょう放尿しましょう、と講師は言うが、習慣や環境というものはそう簡単に身体に対応できず、オムツのままでは放尿できないヘルパーさんたちがいた」とあった。なんだ、私だけじゃなかったんかい、とホッとした。

 いくら待っても出やしない、とナースと私は思い、搭乗手続きの時間があまりないので、トイレを後にした。

 搭乗手続きをし、飛行機に乗り込む。なんとファーストクラス! 座席がゆったりとしていて、ナースが交替で私に食事介助をし、キャビン・アテンダントに「Could I have a bottle of 水?」という日本語混じりの通訳をして私を笑わせた。こんなゴージャスな生活を毎日続けたら、きっと私は堕落するに違いない、でもいまは楽しいし愉快だ。このままずっと乗り続けられたら…と一瞬、アホな考えが浮かんだ。

 この日はクリスマスだったことを覚えている。というのも、乗客はみな赤白のサンタ帽をジョークで、もしくは習慣で被っていたからだ。エコノミークラスはどうか知らないが、これはビジネスクラスの経済的精神的余裕だと判断し、「ははん、ビジネススーツを着てサンタ帽を被ったアメリカン・ジョークだな。だっせえなぁおい」と軽蔑し、私は異文化を少しも理解しない日本人なのでまったく笑わなかった。

 搭乗してどのくらい時間が経ったのだろう。トイレにも行けず、オムツを交換することもできない私の膀胱の限界を悟ったナース(私はそれほど限界とは感じていなかった)は、キャビン・アテンダントと相談し、通路の真ん中というか座席に座ったまま私のオムツを外し、機内が暗いので懐中電灯で照らして再び尿道カテーテルのプラグを入れた。私は恥ずかしいというより、「もう1人でトイレに行くことができないんだ…」との観念をしていた。

 そういう、哀しい諦念をしていたが、明るくジョークで私を笑わせるナースたちには、私が悲観に暮れないようにずっとサポートをしていたに違いない。いま改めて思い出すと、このときのナースたちがケアサポートにおいてベストだと私は感じた。車椅子状態の私をフロリダからはるばる日本に同行介助するのだから、そりゃ大変だ。誰にでもできるわけじゃないし、当時の私にもできなかった。ナースの資格を持っているからでは当然ない。

 長い長い搭乗で、私は眠ったのかそうでなかったのか自分でもわからない。どのみち自分の力で歩けないし、ずっと乗り物に乗っていたしで、体力は全然使っていなかった。

 ようやく成田に到着し、そこから救急車で東京の病院へ向かう。とにかく、身体障害者のケアラーの駆け出しだった私は尊意を込めて、「あんたたち、ナースなのに通訳もできるの? なんで?」と聞いた。「えーっと、私たちは六本木の病院に勤務してるの。うふふ」六本木といえば、外国人がたくさん住む街だ。なるほど! それでジョーク混じりのくだけた通訳をしてるのか! 救急車を降りたナースたちは、病院にバトンタッチにて颯爽と笑顔で去っていった。

 到着した病院は、某大学付属病院だった。だだっ広い空間で、患者はたぶん寝ているが、しーーーんとしていた。私はずっとベッドで寝たきりだった。時間帯は深夜になろうとしており、急患が個室に搬送され、「○○!、○○〜! 死なないで〜! あああああ!!」と泣き叫ぶ知り合いたちの修羅場があった。声だけが鮮明に聞こえるが姿は見えない。そして静かになった。いまや病院では生き死にが日常茶飯事になっているらしい。と、頭ではわかっていたものの、初めて「患者」としてこの「舞台」に上がった私は、いきなり悲劇シーンが展開し、おびえ、すくんだ。

 ダンテの『神曲』ではないが、アメリカから日本に帰国した私は同時に、突然、天国から地獄に落とされたかのように対応ができなかった。そして地獄はさらに続く。

「さらばリハビリ」~はじめに

 facebookで日々のよしなしごとを書いていると、友人であり恩人のKさんが「その発想面白いね!」と言い、私は本にまとめるために原稿と簡単な企画書を作成していた。だが、出版不況だけでなく経済不況が続き、Kさんが「さらばリハビリ」の企画書を出版社に持っていくが(本のタイトルはKさんがつけた)どこにも採用されないまま、2年が経った。

 そもそもタイトルがよろしくない(私はすごく気に入ってるが)。「さらばリハビリ」って何だよ? 怪我や病気になったらリハビリでワンクッション置いてから復帰するのが当然だろうに。要するにリハビリは必須なのだ。この社会では「健全」でなければ顔も出せないし生活ができないのだ。

 それから「リハビリ」で検索すると「私はこれで成功した!」的なタイトルがあって、「まるでダイエットみたいだな」と思った。人がダイエットを目指すなら必ず成功する本を買うのは心理的かつ市場的に当然である。ダイエット本なのに著者は太ったままでは売れやしないし説得力もない。

 9年前、私は脳梗塞で左片麻痺言語障害になったが、いまだ杖なしで歩けないし、喋ると脳が疲弊する。そのうえ私はてんかん持ちである。それでも私は電動車椅子を使って(体力の続く限り)どこにでも行くし、「健常者社会」でも堂々としている。

 実際に、片麻痺になって必ず成功(回復)することはありえない。片麻痺になって努力してリハビリしても、身体が動くようになる場合もあるが、なかなか回復しない人たちもいるのだ。その人たちのために、私は書くのだ。

「半人前」とは、ネット辞書によると「一人前の半分。またその程度の能力しかない者」とある。自分のことを言うなら謙遜の気持ちもあるが、他人に言われるなら「もっと努力せよ」と恥を感じる言葉だ。仕事を始めたばかりの若者ならまだ平気だが、私はすでに50の声を聞いており、しかも生活保護を受けている。身体障害者だから「働けない」のだろうなと人は思うかもしれないが、あえて私は「働かない」。毎日自宅にいて、眠たいときに寝て起きたいときに起きる。自堕落な生活である。

 でも、「ああ、私の人生終わったな」「詰んだ」とか「先行きの見えない不安」「悲惨な人生」などと悲観的になったりしない。むしろ私は高等遊民のように、このささやかな生活を丁寧に生きている。

 大学4年のとき、私は就職活動をしなかった。卒業して会社に就職はしたが、その会社はアルバイト雑誌で見つけたもので、気軽であった。言い換えれば、将来のことについて私は何も考えてなかった。そして1年も勤めないうちにさっさと辞めた。それからずっとフリーのアルバイターをやってきた。書くこと、考えることはなぜか昔からやっていたし、そのため10年以上フリーのゴーストライターを生業にしてきた。

 編集プロダクションは私をいきなり切ってきた。契約してないからしかたがないと思い、新たな職探しを始めた。飲みながら友人に、「仕事辞めさせられちゃった。どっかいいとこない?」と訊ねたところ、友人は「ALS専門の介護事業所『ケアサポートモモ』があるよ」と答えた。その事業所は有限会社で、川口由美子さんが社長だった。

 ALSの患者さんは家族ぐるみで介護されていると聞き、セクシュアル・マイノリティの私は、「ああダメだ、私には家族はできない。もしも私がALSになったらどうしよう? きっとひとりぽっちだ」と川口さんにそっと弱音を吐いた。川口さんは、「大丈夫だって。ひとりでも平気だよ」とさわやかに笑って答えるのだった。

 そして2年が過ぎ、私はまだまだ「半人前」のALSケアラーだった。ゆくゆくは実務経験を積んで介護福祉士の資格を取り、障害者や高齢者をサポートするケアマネージャーになるはずだった。いまから9年前、米国でALSの世界会議に出席するため、飛行機に乗った患者さんに同行して、フロリダのディズニーランドで遊んだり、NASAの宇宙センターを見学したりしていた。

 当時の私は40歳で、スーパーケアラーとしては肉体的なピークを過ぎており、平均睡眠が4時間で、いつも「眠い眠い」と呟いていた。そこでアクシデントが起こった。何時間か気絶した私は、突然「片麻痺」「言語障害」「高次脳機能障害」になっていたのだ。

 「昨日の私は別人である」というくらいに、まったく何もできなかった。過去の私は、もう存在していなかった。

 でも、いいのだ。片麻痺の私は、文字通り「半人前」であった。私の言う「半人前」とは、右側の健常者である「ケアラーの卵」の私がいて、左側の麻痺側である「患者の卵」の私がいて、半分は見守り、半分は療養中だ。そういう意味である。

 その療養生活も9年が過ぎた。「半人前」の私は、今日も麻痺側の声なき声を聴いている。今の私の身体状態はなんとか杖歩行できるが、長距離の散歩はできない。腕は常時だらんと脱力し、動かそうと思ったら微かに動く。でも「だらん」とした状態が、まるでアンテナのように私に何かを訴えるのだ。

 多くのリハビリ者たちは健側が麻痺側を無視するが、私は無視したりしない。動く側が動かない側を無理矢理動かさない。

 結果、私は「無理してリハビリをしない」ことにしている。理由はすべてこのブログに書こうと思っている。

 

井田真木子の死因は本当に肺水腫だったのか? トラウマのトリガーの一事例について

 井田真木子はそもそもそれほど有名なノンフィクション作家ではなかったが、知る人ぞ知る著名な作家だった。50代以降のノンヘテロ業界では、主に『同性愛者たち(1994)』を知る人たちが多かった。
 一方、オデは『プロレス少女伝説(1990)』を読んでいた。いまでは慣用句になった神取忍の「(対戦したジャッキー佐藤の)心が折れる(感じがして実際に勝った)」という表現が初出なのは有名な話だ。続いて『小連(シャオレン)の恋人(1992)』、『十四歳(1998)』も読んだ。当時のオデはノンフィクション作家ナンバーワンといえば井田真木子だろう、彼女の業績はノンフィクションの革命になるかもしれない、と予感し、夢中になっていた。
 ところが、2001年3月、井田の訃報が訪れる。当時オデが毎月購読していた『噂の真相』によると、正確なフレーズは忘れたが、冷蔵庫のなかは空っぽで、部屋は荒れ放題、井田は布団で寝ながら亡くなっていた、井田のHPには意味不明な文章が羅列しており、「緩慢なる自殺」だった。普及し始めたPCで井田のサイトを実際に覗いてみたことがあった。いくらサイト訪問者が少ないとはいえ、井田の名前で出ているのは本人も承知のはず。ただそれが「独り言」のようでもあった。文章は支離滅裂で長ったらしいし、読者のことをまったく考えてない、他人のことは置いてきぼりで、まさに「イっちゃってる」人物の文面そのものだった。そのときオデは、「あーあ、とうとう狂っちゃったか、あるいは意識が朦朧としたまま執筆したんだろうか…」と心のなかで呟いた。
 久々に思い出して、井田真木子ウィキペディアを検索。そこには自殺のじの字もなく、死因は肺水腫だった。肺水腫を調べたら、主に心臓病が原因でこの症状になるケースが多いが、井田はそのような病気を持っていなかった。享年44。若すぎる死だった。衰弱の延長が肺水腫なのだろうか。
 井田の絶筆『かくしてバンドは鳴りやまず(2002)』を再読。確かに井田は、執筆中寝食を忘れて仕事に没頭していたことは事実だ。しかし 生業をノンフィクション作家と決めたからには、新書を完成させるたびに生死の境を往還することは極めて危険だと思う。文字通り「命を削って書く」仕事だ。
 その前の『十四歳』は、親の虐待などによって家出し、売春で食べていく逞しい少女たちを、アメリカのサンフランシスコや渋谷で取材したものだった。なかには実の親に性的虐待を受けた子どもたちもいる。そんななかで井田は自身の過去を思い出したのか、「自分にも覚えがある」というようなことを書いていたが、そう明確には文章にしておらず、読者にほのめかすように表現したのが印象に残っている。彼女の死を知ったとき、「やはりそうか」と静かに納得したものだった。
 そうか、取材対象の家出少女たちの会話のやり取りで、トラウマのトリガーを自ら引いてしまったのか。井田の「緩慢なる自殺」はほぼ知られていない。自身でも自殺をしたなどとは思っていないはずだ。
 『かくしてバンドは鳴りやまず』は、ランディ・シルツ『AND THE BAND PLAYED ON:Politics,and the AIDS Epidemic(1987)』が原題だ。邦題は『そしてエイズは蔓延した』。原題は、映画『タイタニック(1997)』で船と運命をともにした楽隊が沈没とともに奏でる曲である。
『運命(さだめ)はわれらとともに:エイズ政治学』くらいに訳しても罰は当たるまい。
と彼女は苦言を呈している。連載企画書は10回の予定だったが、残念ながら3回までで彼女の死が打ち切りとなっている。その第1回が「トルーマン・カポーティとランディ・シルツ」だ。
 すでに亡くなっている人たちを取材対象にするのはノンフィクションではない、と反論する人たちもいるだろう。しかし本書の出版社リトルモアは、冒頭で「本書の成立まで」と記載した文章で、
原稿料も大して差し上げられないうえに、取材費が出ません。お金のかからない連載をやっていただけませんか。
と井田にお願いして、苦肉の策で連載企画書を提出したものだと、一度はオデも納得した。でも、すでに亡くなっている人たちの謎を追うため取材対象にするというのは、自分の独り相撲と同じではないのか。自分で自分を消耗するだけじゃないのか、という疑問がまだ残っている。それが嫌なら、<正当な>ノンフィクション作家なら依頼を断ればいいじゃないか。なぜ彼女は受けたのか? ただでさえ金にならないというのに? 彼女は義理堅かったのか? それとも無理難題でも出版社の依頼は必ず応えなければならなかったのか? それが彼女のポリシーだったのか? それが革命的であればあるほど、革命で自ら身を亡ぼす。彼女は死に至る自傷行為をしていたのだろうか? 疑問が晴れる気配はない。
『同性愛者たち』を読んだことはないが、アメリカでエイズ・パニックとクイア運動が始まる一方で、おそらく彼女は日本の同性愛者たちがどんなことを感じているのか、当事者たちに取材したのではないだろうか(実際には「府中青年の家」の訴訟について)。彼女自身、表向きは既婚者だが、実は自分も密かに性的少数者だと思っていたのではないだろうか。これは穿った見方だけれども。
 実際、大宅壮一ノンフィクション賞講談社ノンフィクション賞を受賞した後、『十四歳』では何の賞も獲れず、スランプに陥った。ここでもオデは、自分の都合に合わせて事実をピックアップしたり、逆に都合の悪い事実をスルーしたりもしているのだろう。もしかしたら彼女の死はただの偶然の連続かもしれないし、単純に考えて新進気鋭のノンフィクション作家の夭折かもしれない。自分の人生を解釈する視点を運命論か偶然論かを選択すれば、彼女の死の解釈はまったく異なるだろう。
 このエントリでオデが言いたかったことは二つある。一つは、トラウマの危険さ、厄介さだ。トラウマは幼少期に起きた心的外傷なので、当人も傷の記憶や自覚はないし、自覚してもトラウマのコントロールは非常に難しい。当人は傷ついたことに無意識で蓋をしたがり、その蓋が突然外れるトリガーにいつ何時遭遇するかもわからない。自覚していたトラウマとは全く別のものが浮かび上がり、知らぬ間にアディクションとなっているかもしれない。井田真木子の事例のように、トリガーが外れたときには、取り返しのつかない事態になっている。「自分のトラウマはもう充分に完治した、克服した」とは決して言えないのである。
 もう一つは、今日(3月14日)が彼女の命日であること。今年で十八回忌である。本当に惜しい人をなくしてしまった。彼女の新刊をいまだに待望にしているのは、オデだけではないはずだ。
 それともう一つ追加。ネットの情報はあまり鵜呑みにしないほうがいい。このオデだって本人に関する文章をリアルタイムで読んでみて、もしかしたらそうであってほしいストーリーあるいはファンタジーを生み出しているかもしれないから。
 ウィキペディアには、井田に関する新たな情報が記載されていた。ノンフィクション作家の彼女は、最初は詩人でデビューしていた。最後に、彼女の詩集を読もうと思う。また新たな発見があるかもしれない。
 

www.youtube.com

2019年3月16日追記:

井田真木子選集1』の関川夏央氏によると、

・高校から実家を離れて一人暮らししていること

・結婚したがすぐ離婚したこと

・いつも長電話していたこと

・ネット仲間とチャットしていたこと

・ネット仲間が自宅に駆けつけて亡くなっている井田を見つけていたこと

・以前から救急搬送されて入院していたこと

 が判明した。

 

2019年3月22日追記:

 改めて『十四歳』再読。オデ自身記憶が朧げなことと、そのことだけをクローズアップするような下世話なエントリにはしたくないこととで曖昧な表現だったが、本人が直球を投げていた。以下引用。

 あんたはいつからその“廃墟”を感じ始めたんだね。ロジャーがいつになく柔らかい口調で尋ねる。

「十三歳から十四歳の間です。八歳のときに強姦されましてね。そのときには自分が何をされたのかわからなかった。十歳を超えるあたりから少しずつ事態がわかりはじめて、十三歳から十四歳の間に、衝動的飲酒というんでしょうか、定期的に、大量のアルコールを飲んではふらふら街に出ていって、廃ビルの地下に酩酊状態で転がっているという行動をおこしはじめました。十五歳からは、その行動が顕著でした。

 その行動を抑制できるようになったのは、二十三歳から二十四歳の間です。しかし、その間も学校にはちゃんと行っていました。成績は悪くなかったし、誰にも、そんな行動をとっていることを悟られなかった。

 でも、これは珍しいことじゃないですね。驚くほど多くの人が、十歳以下で同じ経験をして、十三、十四歳くらいで、売春や薬に走っている。その行動は約十年続き、幸運な人間は、その行動を抑制できる年齢まで生き延びる。ただし、自分だけが汚れた十年間を抱え込んでいると思っている人は多いですね。私が経験したのは悲劇でも特異な体験でもないですが、自分の中に廃墟を感じ始めたのは、たしか十三、四歳の間です。

 そして、今は四十歳ですが、まだ生き延びたいと思っています。

  「私たちの大半は廃墟の中にいる」と自覚するのは十三歳と十四歳の間だ、と井田は主張する。今は「厨二病」という自虐用語も出てきたが、「廃墟の中にいる」のが的を射ているのではなかろうか。

 何の因果か、ノンフィクション作家を生業にした彼女は、執筆中は寝ない、食べない、酒だけ飲む、という“アディクション”が始まった。酒井順子氏によると、肝臓や腎臓もやられて、リハビリのために『かくして~』の連載スタートとなるが、それも未完に終わった。

「尊厳死法案」合法化は人身(臓器)売買の暗躍化を増長するのか?

 「尊厳死」でネット検索してトップに出てくるのは朝日新聞連載「シリーズ:柊の選択 穏やかな死を探して」である。尊厳死の話題はだいたい網羅されているが、もう少し深く掘り下げたい方は立岩真也の著書を読みなさい。わかってきたことがどんどんわからなくなるから覚悟してね。

 立岩真也さんの本も難解で冗長だが、テーマがテーマである。おいそれと国会で法制化なんてできっこない。国会議員は「国民はバカだ」と思っていると邪推するが、そういう国会議員もバカ丸出しだから。国民舐めんなよ。

 冒頭にオデの見解を言っておくが、尊厳死の法制化には反対である。現状が最善だとは決して思わないが、法制化=合法化になることは間違いない。「安楽死尊厳死」は日本の現状では「自殺幇助」であって、刑法203条「自殺関与・同意殺人罪」は殺人罪減刑類型であり、法定刑はすべて「6ヶ月以上7年以下の懲役又は禁固」と殺人罪よりも軽い。これらの罪の未遂も罰せられる。

 つまり、尊厳死安楽死の“合法化”は、終末期患者や高齢者の医療措置をせず(消極的安楽死)、死を希望する者には安楽死を担当医師と同意契約して注射で死を全うさせる(積極的安楽死)ものである。医師の特権(法の抜け道)と言っても過言ではない。こうなると腹黒くて頭の悪い医師は特権を振りかざすんだよ。そんな連中に「自分の死」を任せられるか。

 法律はデコボコの道をブルドーザーで平坦に均すようなものだ。患者と医師との個別的信頼関係が事務的で冷たい「死の契約」となるに決まってんだよ。医師を信用するな。法律を信用するな。信用していいのは自分の判断だけだ。

 一部の欧米諸国にはすでに安楽死の合法化が行われているが、すべての国民が同意せず、反対意見もあるだろうと思う。スイスで安楽死したオーストラリアの環境学・植物学者デイビッド・クドールは「ふさわしい時に死を選ぶ自由」と定義している。

 さて、生死をめぐる考えかたは日本と欧米ではニュアンスが違う。「生きる権利・死ぬ権利」を主張する欧米と「生きる義務・死ぬ義務」を静かに受け取る日本の捉えかたも違えば、いざ合法化されたら「死の決定権」は医師に譲らねばならない(「先生にすべてお任せします」)日本人は増えるだろうと想像せざるを得ない。まったく安易だからな~日本人は。

 今年だったか、脚本家の橋田寿賀子さんが雑誌で「安楽死で死にたい」と主張した。オデはその雑誌はまだ見てないが、ネット検索すると「認知症になったり、身体が動かなくなったりしたら、安楽死したい」「私には、家族も心を残した人もいませんから、寝たきりになったり、重度の認知症になったりして、人に迷惑をかけてまで生きていきたくない。ただ単純にそれだけです」。

 出た!「迷惑をかけてまで生きていきたくない」。ここで日本人が共感するフレーズを盛り込んできたが、オデにとっては「薄っぺらくて浅~い主張だなあ」と思って冷笑するしかなかった。「お迎えが来ない~」と、ただ受動的に待ってるだけなのでは?

 橋田さんは長期高齢者だが、まだ健康的だ。軽い病気や体調不良になることもあるだろうが、末期がんや難病にはかかっていない。そうなる前に「安楽死」を、そうなってからでは遅い、とのこと。

 なんで? そうなってから生活してみなさいよ。気分も考えかたも変わるから。

 末期がん患者の生活や心情はオデにもわからないが、歌人中城ふみ子さんは『乳房喪失』の題で50首全部が掲載された。当時の歌壇に大きな反響を呼び、寺山修司は中城の短歌に衝撃を受けて自らも短歌を詠み始め、中城受賞の次回度に短歌研究50首詠を受賞した。 

 中城の作品は「アンチ写生」であり、そこでは徹底して短歌をつくる作者の「私性」が追求されていた。中城が目指した短歌における「私性」とは、虚構を排除しないものなのだ。中城はそうした虚実のあわいに出現する「私性」を、作品を書くことによって実践的に確立していった。自らが体験しつつある乳癌による死というドラマを通底音として、虚実取り混ぜた短歌作品としてある自己を「ロマネスク」に語ること。「新しい抒情の開拓」というのは中城自身の言葉である。そして現実もまた中城によって提示されたフィクションとしての短歌作品を、読者に改めて追体験させるかのように進んでいった。デビューからその死まで、半年に満たない強烈な印象を読む者すべてに与える、短くも鮮やかな生涯の軌跡だった。

 また、ALSを代表する全身性難病患者には「ALSを楽しく生きる」ことを目指しているかたも多くいる。そのうち「ALS文学」「難病文学」などの新しい分野を開拓するんじゃないだろうか。かくいうオデは「片麻痺文学」「重度身体障害者文学」なるものを開拓研究中である。

 かつて健常者の自分がそうなるなんて予想もしなかった心境は、病とともに発展・進化する。オデにはまだ希望がある。だから死ねない。生きるしかない。傍から見れば「生産性のない奴」と笑われているだろうが、現在は潜伏中である。いまに見てろよちきしょうめ。片麻痺のオデは半分死んでいるようなもので、脳梗塞という厄介な病気に日々驚かされている。てんかん発作の前兆はくしゃみが出るのと同じくらい自分でコントロールできないし、予兆も突然で、その発作を重ねて対策を講じなければならない。付け加えて老化の問題もあり、白内障で本の細かい文字が読めないし、部屋の明かりも眩しくてつけられないのだ。

 プロの脚本家・橋田さんはまだ認知症にはなっていないらしいが、突然なるわけじゃないと思うので、自己観察日記を書き連ねておいてドラマ化すればいいんじゃない? 『恍惚の人』は介護する妻の視点で展開するドラマだが、認知症本人の行動や思考の変化は橋田さんじゃなきゃ作れないからチャレンジしてみては? 安楽死のイメージが変わると思うし、オデもぜひ見てみたい。

 

 そんでタイトルの「人身(臓器)売買」は「アシュリー事件」にも関係するが、重度心身障害児(者)は「死の自己決定権」なんてないでしょ? それで安楽死の同意は両親が代理して契約するのよ。子どもは両親の所有物だから。死んだら後は自動的に臓器が運ばれて移植する。親は涙を浮かべて「せめて子どもの臓器が生きていけるように」との美談な茶番。医師も臓器を待っている人もめでたしめでたし…って、それじゃいかんでしょ! でもオデが「いかん」と思ってることに限って未開のビジネスチャンスはあるからな。「この世は金ばかり」の常識を打破しないとね。

 「人は運命に抗いながら生きる」って? 精神的・形而上学的には賛成だけど、医療技術で金と労力を費やして本人は平穏に漫然に生活を再開するのは絶対反対。新しい文学・芸術作品は楽しく平和なときには生まれることはないが、激しい慢性的な苦痛や死の瀬戸際にならないと誕生しないと思う。これはオデの持論だ。

 

 

 

 

『キルラキル』と「幼体成熟」

初見で少し気になって、時間をおいて『キルラキル(2013~2014)』をもう一度見直した。

キルラキル」は「人と服」がテーマとなり、「着る/着られる(あるいは斬る/斬られる)」という言葉遊びの凝縮したタイトルとなっている。日本のTVアニメは「戦闘美少女」のハードルがある(「女子高生、セーラー服」がないと視聴率を稼げない)が、それを上回る内容になっていると思う。

面白い部分はアニメに置いといて、面白くないほうをオデがこれから書いていこう。

 

そもそもなぜ日本では「衣」ではなく「服」と呼ぶのだろうか。辞書を調べると「1:身につけるもの。きもの。特に、洋服。『服を着る』。2:身につける。おびる。『服佩(ふくはい)』」となっている。「服」という字は容易に「服従、屈服、克服、征服(制服)」と聯想できる。

REVOCSコーポレーションCEO鬼龍院羅暁の目論見は「地球を生命繊維(特殊な布)で覆う(世界征服する)」ことで、それに抵抗する纏流子と鬼龍院皐月は姉妹である。ここには目に見える戦闘や格闘だけでなく心理的葛藤があるが、それは後述する。

服を身に着けるのはヒトだけである。メキシコサンショウウオ(流通名ウーパールーパー)のように、大人になっても毛皮も爪も牙も生えない。幼体成熟(ネオテニー)とは、幼生の形態を残したまま性成熟することを指す。

 

 

大学時代、放送作家になろうとしていたサークルの先輩が「自分の書くもの(創作物)は皮膚に近いか? 服に近いか?」と自問した。服なら流行に合わせて取り換えがきくが、皮膚は張りついてどうにもならない。オデは答えられなかったし、今でも答えられないでいる。『キルラキル』のテーマが、どこかに引っかかっている。おそらく製作スタッフ陣も切実に自問自答しながらアニメを完成させたのだと思う。

受け手としては、限りなく皮膚に近い創作物が結構好きだ。噛めば噛むほど旨味が出てくるからだ。作り手としてはどうなのだろうか。それは自分で決められることではないような気がする。

これからも『キルラキル』を見ようと思う。何度見ても発見がある。作り手は苦し紛れかもしれないが、オデには大きなヒントがある。

 

小説家を生かすも殺すも編集者次第ーー桜木紫乃『砂上(2017)』

「主体性のなさって、文章に出ますよね」
「大嘘を吐くには真実と細かな描写が必要なんです。書き手が傷つきもしない物語が読まれたためしはありません」
「わたしは小説が読みたいんです。不思議な人じゃなく、人の不思議を書いてくださいませんか」
「文章で景色を動かしてみてください。景色と一緒に人の心も動きます

「現実としては誰も、柊さんの私生活には興味がありません。あなたは芸能人でも政治家でも、有名人でもない。だからこそ求められるのが、上質な嘘なんです」

「虚構なら虚構らしく、本気で吐いた嘘は、案外化けるんです」

「人に評価されたいうちは、人を超えない」


以上、小川乙三編集者語録。

これまでエッセイばかり書いて懸賞に送ってきた柊玲央に、わざわざ玲央在住の江別にやってきて「小説を書いてください」と提案する。

「全員嘘つきの物語を書く」。谷川俊太郎の、
 
うその中にうそを探すな
ほんとの中にうそを探せ
ほんとの中にほんとを探すな
うその中にほんとを探せ
 
という有名なフレーズをつい聯想してしまう。
「ひとりよがりの一人称」はやめて三人称一視点で書くこと、
心を痛めながら書いて下さい」という条件つきで。
 令央は、自分より五歳下の編集者に反発しながらも指摘を受け入れ、何度も書き直してゆく。編集者との闘いであり、自分の心の奥底にどこまで迫れるかの闘いである。小説を書くことの苦しさが痛いほど読者に伝わってくる。
 (将来の)作家が奇跡的な小説を生み出す産婆術としてかなり優秀すぎる乙三は、もしかしたらレズビアンBDSMっぽくもあるかもしれない、と読了して密かに興奮したオデは確かに変態だろう。自分の変態っぷりを最初に自覚したのは、松浦理英子『裏バージョン(2000)』を読んだときだった。言葉でお互いを傷つけあう科白のやり取りはスリリングそのもので、当事者二人は精神的に疲弊しているにもかかわらず、読者(観客?)のオデは「いいぞ、もっとやれ!」とけしかけたりした。
 しかし『砂上』は、脳裏がヒリヒリするくらいの台詞の格好良さに痺れたが、それ以上に相手が先読みをして、嘘という名の都合のいい科白を言う。お互いに相手の心は読めない。その予測以上に言動を発するところがまた痺れた。囲碁将棋は興味はないが、相手の先の先まで読み、こう来たらこう切り返すという引き出しの豊富さ、丁々発止は小気味よく、評価したい。…がしかし、勝負物は予定調和になるからなあ…と無責任でわがままなぼやきを言ってしまう。
 それにしても『ホテルローヤル(2013)』のエンディングの大どんでん返しは感心したものだった。作者は登場人物の女性たちの生きざまを格好良く描くのが大変上手である。
 著者は本作について 「書けても恥、書けなくても恥でした」 と書いている。小説内での玲央は、 次作は「男の書き手を騙す女性編集者の話なんて、どうでしょうか」と切りかえした。次の作品も読みたい、いや、必ず読んでやるぞ。