戦争がなくても平和じゃない―『この世界の片隅に』所感

我が心の恩師・木田元氏は、「戦時中、僕は人殺しと強姦以外の悪を一通りやった」と笑いながら言った。おそらく闇市か何かで儲けたのだろう。木田氏はその金で自己投資をした。つまり、大学へ行き「現象学」の大家になった。

一方で、山口良忠という裁判官が闇市の闇米を拒否して餓死した。彼は裁判官としての範を垂れようとしたと思われる。

さて、『この世界の片隅に』の浦野すずはどうだったのだろう。広島市から呉市に嫁入りした彼女は、お姑さんが大事にしていたお金を持って闇市に出かけ、砂糖だけを買った。当時、砂糖は貴重で大事な食糧で、ただでさえ物資が不足していたのに、金さえあれば闇市で何でも買えたのだ。「GIスープ」といううどん状の食べ物(ラッキーストライクの空き箱入り)があり、義姉と一緒に食べ、そのあまりの旨さに痺れていた。しかし、家庭に戻れば、またいつもの粗末な食事である。

「何でも使うて、暮し続けりゃならんのですけ、うちらは」

すずが言うように、戦争があってもなくても、日々の暮らしを続けなければならない。

日本の戦争を描いた有名な作品で「はだしのゲン」があった。オデの小学校には全巻そろっており、グロテスクなストーリーと描写で、オデは少しトラウマティックになった。あろうことか、戦争が終わって30年以上経ったころには「はだしのゲン」はオデにとって「他人事」になっていった。

日本の戦争を描いた映画「野火(2014)」を観た。オデは比較的好きな作品だったが、渇きと飢えのため兵隊たちが食人したのではないかという話で、その究極的設定が観客にとって「他人事」となった。しかたのないことである。むしろ「他人とは思えない」と身に迫る場合、その社会は恐ろしいことになっている。

多くの人々が求める作品は、「ありえねえ!」と感じるものだったが、この作品は「あるある~!」という共感をもとにして成立した。それは一見して、平和でちょっとコミカルで、穏やかな「日本人的普遍的生活」を描いたもので、「古き良き時代」として懐かしい感じがするが、果たしてそうだろうか。

オデが高校生のとき、『戦争がなくても平和じゃない』という本を読んだ気がする。確か新聞社の編集部かなんかで、個人のものではなかったが、「部落」の存在を知って衝撃が走った。道産子ならアイヌの人権や北方領土返還の問題もあるだろうが! と一人ツッコミをしたが、そこは岡目八目、灯台下暗しの心境である。道民はノンポリ寄りの保守派だからなあ。

いまでも部落の問題は解決していない。それ以外にも、差別やヘイトクライムの問題は後を絶たない。それを「他人事」として、見ないふりしていいのだろうか。

確かに、あれもこれも「他人とは思えない」ことは疲れる。だからといって自分自身のことも「他人事」にしてしまってはいないだろうか?

 

幼いころからすずは、ものをよく見て絵を描いた。それが爆弾によって姪のハルミとすずの右手を失ってしまう。絵を描く右手を。失った動機は戦争だけではない。病気や事故、災害、その他不幸なことで、かけがえのないものを失う機会はある。右手を失ったすずは、号泣しながら怒りながら、それでもささやかな生活の楽しみを忘れず、淡々と生きていく。

この映画を観たオデは、不覚にも泣いた。帰りの道中クールダウンをして、このブログを書いている。感動して泣いたままではいけない。思考停止してはいけない。結論を感情的に流してはいけない。他にも書きたいことはあるが、あんまり書くと視点がブレてしまうので、このへんにしておく。

 

*追記:右手を失ったすずは、その右手がない印として、一人の戦争孤児と出会う。おそらく、亡くなったハルミと入れ替わりに孤児とすずたちは生活していく。この不幸な偶然をほんの少しの幸せにすることが、その一連したシーンを見てオデは想像し、泣いた。

 

 

 

 

たぶん、マスコミは今後沈黙するだろう―神いっき、「解離性同一性障害」か? 「性同一性障害」か?

一昨日、神いっきの公判に行ってきた。精神鑑定の最初の医師の見解は弁護人と裁判長が否認しており、新たな精神鑑定を行った医師が証人として喚問された。全部で3時間の公判で、時が経つとトイレに行く傍聴人が幾人も出て、いやはやだった。

この医師は無名であるが、素晴らしい仕事をしている。解離性同一性障害の患者を300例診察しており、うち10例が統合失調症詐病であった。臨床医として33年の経歴を持つ。

「神いっきが主人格として、複数の人格を持っている解離性同一性障害と診断しました。解離性同一性障害は、たとえるなら、主人格はバスの運転手で、耐え難いストレスがあると、後部座席に座っていた他の人格が主人格を押しのけて、主人格は助手席に座って休眠しているようなものです」


「この事件に関りを持つ人格は、子どもっぽいけどすべてを見ているゲンキくん、投げやりで酒が好きなコウジ、神いっきが12歳のとき突然ピンクのランドセルを背負ってやってきたミサキの3人です」

 

精神鑑定は、ゲンキくんと他の人格が脳内で相談・会議をし、ゲンキくんになってコウジやミサキの言葉や思いを担当の医師に伝える、というものである。

 

検事「被告が乳房切除したとき、ミサキの反応はどうでしたか?」

医師「悲しい、と言ってました」

検事「解離性同一性障害と多重人格は同じものではないですか?」

医師「同じものですけど、従来の手垢がついた名称を、手垢がつかないように名称を新たにしました。この疾患名はDSM(アメリカ精神医学会・精神疾患の分類と診断の手引き)によるものです」

検事「被告が演技をしていない、つまり嘘はついていないと診断されたのは、なぜですか?」

医師「本人が不利益な証言までしていることから、そう診断しました。演技をする、他人のふりをするというのは、込み入った事情があるにもかかわらず、矛盾せずに証言をするのは常人には不可能なので、本当ではないかと判断しました」

裁判長「ゲンキくんのような子どもっぽい人格は、年をとらないのでしょうか?」

医師「年をとる場合もありますし、とらない場合もあります」

 

オデの見解では、ミサキが「声優のアイコ」として犯行に及び、それでもミサキは自己利益で強盗した形跡はない。ミサキは「女になりたい」一心で女装したまでだ。

 

しかし、解離性同一性障害の患者が罪を犯した場合、主人格ではないものの犯行の責任を、裁判所はどう判断するか? である。ちなみに解離性同一性障害の患者の犯罪はすでにあり、判例となっている。その判例に倣って判決を下すのだろうか。

 

解離性同一性障害になった原因は、神いっきが幼少のころ、父親の激しく厳しい暴力暴言があり、次回の公判は母親を証人喚問する予定である。おそらく、医師の証言(解離性同一性障害)は認められる可能性がある。

 

***

 

この事件が起こったとき、「性同一性障害トランスジェンダー」の表記統一もなく、「女装した犯人が昏睡強盗か?」「容疑者は妊娠」「出産したい」などというセンセーショナルなものだったので、世間の眼差しはいささか下世話な感じがしたが、我々の業界(?)では早くも「神いっきは性同一性障害か? 解離性同一性障害(多重人格)か?」という議論があった。

 

解離性同一性障害(多重人格)」だと「心神喪失」が認められて「無罪」の可能性があるが、あくまで「性同一性障害」だと「心神喪失」が認められる可能性はなく、「懲役5年(強盗の最低量刑)」は確定的である。

 

たとえ「無罪」が確定したとしても、その後の神いっきの生活が心配である。治療に専念するためとはいえ、人格が「統合」するのはいつになることやら。そもそも神いっきは「性同一性障害」ではなく(診断名がない)、乳房切除やホルモン注射をし、名前を変更して「男性」になった人である。子宮や卵巣を内摘しなかったのは金銭の限界の問題と思われ、要件を満たさなかったために戸籍の性別変更ができなかったのであろう。

 

それから、オデが個人的に東京拘置所にいる神いっきに何度か手紙を書いて接見しようとしたが、神いっきは拒否した。もしかすると彼はトランスフォビアじゃなかろうかと思ったが、いまはそれはどうでもいい。昏睡強盗という犯罪をしたことも重大だが、その原因となった解離性同一性障害の治療をするのが先決だ。

成宮寛貴にならなかったわたしたち

昨日、新宿某所で某学問系のイベントに行き、知人と会ったオデは「成宮寛貴っていままで全然興味なかったけど、突然の引退でちょっと驚いたよ」と話したら、知人は「なぜかわたしたち(Lカップル)のあいだに俳優のファンがいると必ず彼はゲイになっちゃう」と笑い、「でも、生い立ちから考えると、自分で想像しちゃうなー。彼、確か沖縄出身でしょ? それで中学卒業して、弟を食べさせなきゃならない、東京へ行って二丁目に来るしかない、って、後は自分の想像通り」

「ああ、確かに」とオデは答えた。オデはディープでダークサイドな二丁目は詳しくないが、それでも二丁目デビューした若いゲイの子たちって、何となく悲惨な状況にあることだけは想像がつく。某活動団体は「二丁目以外の場所で会い、話し合う」と言っていたような。これでBL好きなら深くインタビューして悲惨な事例を多々挙げられるが、オデはチンコにはまったく興味ないノン・ヘテロなので、活動ゲイ男性たちのほとんどが「きれいごと」しか言わなかった印象がある。

いま「ほとんど」と書いたが、例外はあるようだ。「公園=ハッテン場」問題や「セイファーセックス」、「ゲイの売春夫」などがそうである。公園以外のハッテン場も、噂で聞いたことがある。「いいなあ。わたしたちにもハッテン場がほしい!」と羨むような“性的に活発な”レズビアンたちもいて、クラブイベントでせいぜい「お持ち帰り(ワンナイト・スタンド=割り切りの、一夜限りのセックス)」するくらいだろう。

ちなみにオデは、ワンナイト・スタンドは一度だけある。相手がホテルに誘い、相手がオデのマンコをいじり、相手のマンコはNGという、なんとまあ可愛らしくてしょぼくれたこと。それでも女子のSTD(性感染症。*性病ではない)はほとんど聞いたことがなかった。ヘルペスを移した移された、くらいなもんかなあ。

現在「LGBT」という言葉があり、この表現はまるで「レズビアンとゲイとバイセクシュアルとトランスジェンダーは一緒!」のような魔法の言葉だが、実際には全然違う。レズビアンやゲイはバイセクシュアルを「裏切者」と名付けるし、トランスジェンダー性同一性障害とは解釈が違ってケンカはするし、そもそもレズビアンとゲイの社会的経済的格差は厳然とある。せいぜい、ブッチなレズビアンやフェムなゲイがトランスジェンダーになるだけである。それでも性別移行中のトランスは、女子は目立たないが男子は目立ち、女子のオペ中は侵襲度が高く、男子のオペ中はかかるお金(=美容整形度)が高い。

以上、オデが知ってる「LGBT」界隈の話である。ビンボーなオデは25歳で二丁目デビューし、コミュニティにはまったく入らず、いつも単独行動でいた。そもそも2丁目デビューの理由は、創作のための潜入取材である。そんなこんなで、いまは二丁目にも行かなくなった。老舗のレズ・バーが、いまは存続の危機である(てか店を閉めたところしか知らないし、いまさら店を新規開拓する気もないし、二丁目は身体的にも精神的にもアンチバリアフルな街である)。

で、成宮寛貴である。ここからはオデの想像だけで、いまネットニュースに上がっているコカイン疑惑やペドフィリア疑惑も、いまのところは推測するしかない。オデは成宮寛貴disをする気もないので、あえて「中立」な立場をとるが、それでも同じ匂いがする成宮寛貴を、想像することしかできないでいる。オデは二丁目の情報通ではないのである。

想像してみようと思う。中学卒業後の成宮寛貴は、いかに二丁目から芸能界にデビューしたのだろうか。そしていま、疑惑=引退=国外にいるのか。

それは、成宮寛貴もまたペドフィリアの餌食にかかり、トラウマの再現として、立場を変えて同じ行為をする、傷がついたレコードのように、何度もトラウマを繰り返す。大人になり有名になったとはいえ(いや、大人になって有名になってもなお)、まだまだ傷は癒えないのだ。これがその理由となる想像だ。と同時に嫌な予感がする。

もしイベントで会った知人だったら、子どものころから性的マイノリティを自覚しているだけに、もっと悲惨にえげつなく、救われないくらいに想像力のむごさを語っていただろうけども、オデはこれが限界である。

ここで「芸能界の闇は深い」などと、話をまとめて思考(想像?)停止するのは、多忙なマスコミだけにしようと思う。タイトルに挙げたように「成宮寛貴にならなかったわたしたち」は、氷山の一角でしかないのだ。「わたしたち」はなぜ、個人のブログを書くのか。それはマスコミが書か(け)なかった、「わたしたち」だけの役割だからである。

想像は想像である。「それは事実じゃない!」と叫んで否定する人もいるだろう。では、いったい何が「事実だ」というのか。笑わば笑え。

ノン・ヘテロカップル(あるいは「おひとりさま」)のための『逃げ恥』

www.tbs.co.jp

 

テレビがないオデはTVerあるいはネット動画で鑑賞してきた。なぜって、オデは「ジェーン・スー生活は踊る」のヘビーリスナーで、「ジェーン・スー相談は踊る」や「トップ5」から、DJとしてのジェーン・スーのファンだからである。そのジェーン・スーが「『逃げ恥』いいね! 漫画もドラマもずっと観てる」と言ったとき、オデは『逃げ恥』に興味を持った。

 

前置きはこれくらいにしておこう。このドラマや原作の漫画が大ヒットなのは周知の事実である。だが「契約結婚」とは、「一番最初」「ダントツの1位」「最後の切り札」のように重複表現と同じであり、ヘテロ・カップルには、その重複表現に気づかない

 

それもそのはずである。そもそも結婚は男女二人が共にする性生活の契約でありながら、現実のヘテロ・カップルは決まりや約束をなおざりにし、お互いに決まりを破り、それでも契約は破棄せず続行される、甘々な契約なのである

 

たとえば、既婚者の浮気。これは単婚(一夫一婦制)と呼び、民法第4編「親族」第2章「婚姻」で「重婚の禁止」と記載されている。ほかにも「夫婦の氏」や「同居、協力及び扶助の義務」と明示されている。“恋しちゃった”ヘテロ・カップルは法律を読まずに入籍し、自治体に婚姻届を出して職員に「おめでとうございます」と祝福される。

 

まさしくおめでたい日本国民同士のヘテロ・カップルはスムースにゴール・インできるが、これだけでハードルが高いカップルも大勢いるのだ。同性カップル、どちらかが外国籍部落民のカップル、婚姻は不利益だからしない、と自覚ある女性たちがそうだ。

 

オデは法律に詳しくないし、カップル生活にも詳しくない。他にもっとプロフェッショナルなカップルはいるだろう。とある同性カップルは養子縁組したり、公正証書を交わしたりするケースもある。はた目には男女カップルだが、事実婚を通すため、毎年法務省へ行き帰化申請をして、ようやく許可された人もいる(なんと10年かかった!)。渋谷区や世田谷区の同性パートナーシップ条例もあるが、シングルのオデでもわかるくらいに、その制度は婚姻との落差があるだろう

 

なんで前置きがこんなに長くなったかと言えば、『逃げ恥』ドラマで盛り上がってるのはおおよそヘテロの民だろうと思っている。ノン・ヘテロの民は「何をいまさら感」があるのだ。それでも今回はヘテロに乗っかって盛り上がってるノン・ヘテロもいるかもしれないし、むしろシスヘテ物語に飽き飽きしている人たちのために、オデはこれをささやかに、いま書いている

 

ネタバレ上等だが、主人公のみくりは「契約結婚事実婚)」の相手ヒラマサと何かトラブルがあると、冷静に距離を保つために、同居していた場所から一時的にエスケープする。最初はみくりの実家だったが、次は母方の伯母・百合ちゃん(アラカン独身キャリアウーマン)の自宅で一緒に住む。これが同性婚やおひとりさまにも敷衍できるアイディアの宝庫なのだ(ちなみにオデは漫画は読んでいない。知人から教えていただいた)。

 

原作者の海野つなみ先生は、「もし恋愛が仕事だったら? 仕事なら対価が必要だ。そもそも対価が必要な恋愛はあるのだろうか?」と、漫画で思考実験をやっている、とおっしゃっていた(参考:『逃げるは恥だが役に立つ』大好きジェーン・スーが、原作漫画家・海野つなみ先生に恥を承知で聞いてきた!特番)。

 

『逃げ恥』のドラマと漫画はほぼ同時に完結する。ドラマの最終回は12/20、漫画の最終回は12/24。そのとき、ノンヘテカップルやシングルにも深い読みや解釈が楽しめるぞ。乞うご期待!

 

 

 

【ネタバレ上等】エヴォリューション(進化)するもの

映画を観てない者は、まず公式サイトを見てみよう。

オデはついさっき観てきた。自慢ではないが自慢するぞ。

 

「ヒトデは生まれた時、一度だけ変化をする。それから…新たな同期が始まる。新たな命」

 

最初に、ヒトデの生殖機能(生殖方法)が何通りもあることに、人類の代表としてのオデはリスペクトする。

1)雌が産卵、雄が放精することによる雌雄異体受精

2)1匹で雌雄の役割を持ち、自家受精する雌雄同体受精

3)雌のみでも未授精卵から新個体ができるという単為生殖

4)分裂・自切による無性生殖

 

ルシール・アザリロウィックなる映画監督を初めて知った。生まれた場所は異なるが、年は10も離れていない。オデは初めて表現活動(創作)をする人に嫉妬した。それは女性であるからだけでなく、これまでの表現活動に影響された映画や小説がオデとほぼかぶっているからである。

 

「女性と少年しかいない島」「少年ニコラが夜の島で目撃した、女性たちの単為生殖の様子」「少年を変化させる医療行為」などの設定やプロットを見ると、これはもうルシールはフェミニストではないかと思わざるを得ないが、この作品にはメッセージがないというのも頷ける(そもそも「メッセージがない」というのはルシールのさり気ない韜晦っぷりではないかと深読みストのオデは強く思う。それは、映画業界はほぼ男性社会だからであり、前作の成功があるというのに、今作では資金集めが困難で、何度もプロットを書き替えたというからである。困難を超えた10年である)。

それでも、少年たちの将来のロール・モデル(成人男性)がいないという不安と、少年が単為生殖するために医療行為をされる(「産む機械化」される)恐怖とは、ルシールの無意識の男性憎悪や復讐であり、男性社会の無意識の不安や恐怖、未来の悪夢ではないだろうか。

 

最後に。看護師役のロクサーヌ・デュランの顔が、レンブラントボッティチェッリが描く中世絵画(これらの絵画はみな宮廷画家に国王が「つくらせた」ものである)のような不思議な(無表情で生きてる気がしない。うつろな)顔をしており、パンフレットを見ると、「人ではないもの(魚類と人類の間の生物)」としてキャスティングされたとあった。ルシール恐るべし。うう、ジェラス!!

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2004年に公開された『エコール』も観てみようと思う。話はそれからだルシール!(なぜケンカ腰w)

 

「父殺し」と「母殺し」と

雨宮まみが亡くなったことを知るまで、オデは彼女に何の興味も示さなかった。

その後、能町みね子がブログでこんなことを書いていた。

追悼しないー能町みね子のふつうにっき

そのなかで、こういうフレーズがあった。オデはどきりとした。

紀伊国屋書店に行って、さっき調べた本を2冊買った。伊藤野枝島尾ミホ、頭おかしいほど強く生きた人の本である。

伊藤野枝はすでに読んだ。島尾ミホは近所の図書館で予約中である。

話は唐突に変わる。昨日オデは『』という映画の上映会+シンポジウムに行った。
応援トークショーという、監督と男優の軽いトークを見て帰ったが、映画の内容は少し気になった。主人公はリストカットの跡(おそらくアディクション)があり、男性に暴力以前のことをされて、太ももに血膿のような瘢痕のような幻想?というか妄想で驚くシーンがあり、警察に被害届を出さなかった。おそらく、具体的な犯人の物的証拠がないと被害を訴えられないと担当の人に言われ、それで断念したようである。
ところが、犯人を野放しにして、被害者が続出した。主人公は被害者たちに「あなたのせいよ! あなたが被害に遭えばいいのに!」と責められた。
ショックなことがあると、主人公は泣くか嘆くか、自分を責めることをする。最初に暴行以前の事件のとき、森のなかで妄想や幻覚を見て、フクロウに会う。フクロウは「あなたは悪くない」と言い、主人公は少し勇気をもらう。しかし、続出した被害者たちが責めるシーンの後は(それらは立件した調書を読んで知った)、森の妄想や幻覚は同じだが、フクロウは何も言わなかったのだ。このシーンで映画は終わった。オデは監督の心情が心配になった。
性暴力被害に遭うと、「私がいけなかったんだ。夜遅く出歩いたから、ひとりだったから」と自分を責めるのが現代日本女性の典型的思考である。だが、アメリカの1970年代では女性や黒人の公民権運動が始まり、コンシャスネス・レイジング(CR)という当事者のグループワークがあって、「私は悪くない。悪いのは社会のほうだ!」と怒りのパワーに満ちていった。
ところが、トランプが大統領候補に正式になった昨今、国民はポリティカル・コレクトネス(PC,政治な正しさ)にうんざりし(通称「ポリコレ疲れ」)、オルタライト(オルタナティブ・ライト、日本でいうネトウヨたちが目標とするのは日本である、理由は「多様性がないから」。一周回ってびっくりぽんである。

雨宮まみが何らかのアディクションを持っていることを、オデは知らない。書籍やブログのタイトルにも、あまり惹かれない。米米CLUBやB’zの音楽は趣味じゃない。オデは根っから中島みゆき教の信者である。ただ、偶像崇拝は禁止なので、『夜会』という名の教会には行ったことがない。

昨日、友人のFBで、彼女は九州の生まれで厳父との確執があった、と書いてあり、雨宮まみで検索すると、トップに大野佐紀子のブログがあった。大野は「父殺し」に共感している。

しかし、オデの場合は「母殺し」だった。上京してすぐ、憎しみのために小説の構成を書いたが、あまりに憎悪が生々しくて、自分からある程度距離を持たないと書けないと思ったが、殺す前に、母は自分の人生を絶った。

母親は父親より厳父で、父親よりも怖かった。コントロールフリークでありながら放任主義で、策略家で、嘘つきでずる賢く、父親が憎いという洗脳を行った。そういう意味ではヘルガ・シュナイダー『黙って行かせて』の母親と一緒だ。

 

雨宮まみとオデの違いを数えたらきりがない。彼女は九州出身で、オデは北海道出身。彼女は怒りを見せたが、その怒りは自分自身を侵蝕した。彼女は年を取ることを嫌がったが、オデは年を取る前に体が動かなくなった。

これから、雨宮まみの書籍やブログを読む。読んでも共感しないと予想するが、それでも読む。

 

 

 

子宮摘出の背景

いかにも真面目そうなタイトルと真面目そうな研究会だが、その内容は衝撃的だった。ちょっと長いが引用する。

3 子宮摘出の背景


子宮をとってもかまわんか?


 長谷川真弓(仮名)は30代の女性。重度の脳性まひで、車いす生活を送る。食事の時も排便の時も手助けが必要だ。地元の養護学校を卒業した後、1979年に自宅から車で約1時間の、山深い療養施設に入った。
 最初に会った時、短く切った髪、白い肌にいたずらっ子のようなそばかす。まっすぐ相手を見つめる奥二重の瞳が印象に残った。紹介者から「言葉が不自由だから、初対面の人には電話では彼女の言うことがわからないかもしれないと思うよ」と忠告されていたが、彼女が意識的に大声で話してくれるため、何度も聞き返すことはほとんどない。自分の持っている意見や感想を忌憚なく、一生懸命伝えようとする女性だ。
 毎日、施設ではワープロで詩作活動に耽ったり、十数年前から施設外の合唱サークルに参加していることから、週に一回発行のサークル新聞を執筆。「新聞では何度も表彰されたのよ」と誇らしげに笑う。書くことが大好き。時には学校時代の友達が訪ねてきてくれたり、電話で話し込むこともある。
 だが、週末はできるだけ両親の待つ自宅に帰るようにしている。「施設生活にもそろそろ慣れてきたけど、長時間、施設に居続けると疲れてしまって、偏頭痛がしたり吐き気がするんです。病院の先生に診てもらうと、ストレスが原因らしい、と言われるんです」「でも、施設職員には、ここにいて仕事をしないで何がストレスだ、と言われる。自分でもよくわからないけど」
 話が性の問題に移った時、真弓の顔がふとくもった。「結婚する、しないの問題と、性の問題はまったく別だと思う。結婚するから性は大事だとか、結婚しないから性は大事じゃない、ということではない」と前置きした後、彼女にとって身を切られるエピソードを教えてくれた。
 真弓が20歳のころ。体調をくずして何日も部屋で寝込んだ。「そうなるといつもより、よけい手がかかるでしょう。ただ寝てるだけでも施設職員にはうっとうしいんだと思う」
 介護していた女性職員が何気なく、「子宮をとってしまわんか?」と、真弓に尋ねたという。「ただでさえしんどいのに、そんなこと言われて、何を考えているんだと思った。確かに私は結婚するつもりはないけれど、それとこれは関係ない」。相手は同性であるばかりか、結婚して子どももいる。「きっとその人は深く考えて言ったわけではない、と思うけど」
 同じ時期、別の女性職員と雑談をしていて、再び衝撃の発言が繰り返された。真弓の顔を正面から見ながら、「子宮をとってしまった方がいいのではない?」「お母さんもきっとそう思うわ」。知り合いに相談すると、「あんたのために、言うてくれたんやないか」と言われた。真弓は、「人にどうのこうの言われることではない。働いてないから、社会経験がないから、何を言ってもピンとこないと思ってるの。言うことが理解できないから傷つかないと思っている」と憤る。
 真弓のいる施設は8人部屋だったのだが、現在は2人部屋になった。そのちょうど入れ替えの時、男性職員が冗談半分に言った。「これから2人になったら何をするかわからないな」「真弓さんなんか男を連れ込むんじゃないか」。「その時は本当に腹が立ったから、親に電話で相談した」。結果、男性職員は真弓の親に頭を下げて謝ったが、真弓に対しては謝るどころか、“告げ口”を逆恨みして、半年ほど真弓を無視し続けるという報復にでた。真弓はそのことも親に話したが「無視されてもいい。毅然とした態度で接しなさい」と、その職員に再度挑戦することはなく、普通に振る舞い続けたという。
「ずいぶん、自分は強くなってきたと思う。悪く言えば横着になってきた。合唱サークルで活動を始めるまでは、言いたいことがあっても言わない方がいい、と親に躾けられてきた。相手に反発したら手助けしてもらえない。してもらいたかったら我慢しなさい、と。反論したりできなかった。私は介護してもらわなければならない立場だから。今でもそう」
「やっぱり職員の言うことを、素直に聞いていた方が精神的に楽。サークル仲間は、素直に従っていてもひどいことをされるなら、自分の言いたいことをはっきり言った方がいいって励ましてくれる。けれど、どんなに真剣に私が怒っても、子どもが怒るみたいな感じでしか受け止めてもらえない」。真弓は車いすから乗り出して話す。
 職員だけではない。入所者からも心ない言葉を投げつけられることもある。同じ施設にいる中途障害者に言われた。「生まれつきの障害者の場合は、年齢より10歳引かなあかん」。「彼らにとっては、私たちの年齢は幼く見えるらしいの。健常者の30代とは同等に見られない。まだ10代ぐらいの扱いなの」
 最近、真弓の施設にも、脳梗塞などで倒れて半身まひになった働き盛りの元サラリーマンも生活している。そういう中途障害者との軋轢は深い。健常者からもよく「若く見えていいわね」と言われる。でも、それがそのまま本意なのか、素直に解釈すればいいのか、真弓はわからないと首を傾げる。
 だが、その施設は、入所者同士の恋愛に寛容で、約100人ぐらいの入所者のうち、「施設内恋愛」をしているカップルが10組ほどいる。「職員は好意的に見ているの。入所者どうしの恋愛なんてもってのほか、と禁止している厳しい施設もあると聞くから、そんな施設に比べれば恵まれているのでしょうね」


…と、ここまでは序盤戦。軽いジャブ。次はノックアウト。



摘出しか方法はないのか


「障害者の子宮を摘出」。突然、こんな見出しが目に飛び込んだ。1993年6月12日付けの毎日新聞朝刊(大阪本社発行)の一面トップ。近畿と中部地区の国立大学付属病院の医師らが、女性の知的障害者3人の生理をなくすため、子宮を摘出したことを伝える記事だ。それによると、近畿、中部いずれの大学の例も、施設と両親、あるいは担当の精神科医から「整理の処理の介助が大変」と相談があり、医学部教授が「本人のため、それしか方法はない」と判断。本人の同意を得ないまま、手術が実行したのだという。摘出した子宮に異常があったわけでもなかったのに……。
 この記事を読んだ人の大半は、おそらくかなりの衝撃を受けたにちがいない。
「どうしてそんなことが平然と行われるのか」と。
 しかし、意外な反応も多かったようだ。
 この記事が掲載されてから1か月以上たった後、毎日新聞は7月21日付けの朝刊で、子宮摘出について本社に寄せられた読者の反応を紹介している。
 それによると、届けられた手紙や電話は80件以上。そのうち「(新聞記者も)一度介助してみろ」「きれいごと言うな」など、摘出に賛成する意見が3割も占め、知的障害者の親や介護者に賛成の意見が多かったという。
「障害者が生理で苦しんだ時、施設、親もつらいし、本人もかわいそう。他人に迷惑をかけず、本人が快適に暮らせるなら、手術してもいい」「研修中、生理用品を投げつけられた。本人がいやならなくしてあげたいと思った」。摘出に賛成する理由として、記事は介助体験のある2人の主婦の話を伝えている。
「実際のところ、女性障害者の子宮摘出は、施設の中では公然の秘密。昔から何例もあったんですよ」。この記事を読んだ施設職員の山中淳(仮名)が話した。
 生理で情緒不安定になった女性障害者の介護は並大抵のことではない。生理用品ばかりではなく、ナイフや食器を投げつけることもあり、介護者自身の身の安全が脅かされることさえあるという。数少ない介護者に重い負担が押し付けられている現状では、ぜい弱な日本の福祉制度が子宮摘出を生み出しているといえなくもない。
 しかし、「介護者のアプローチの仕方によっては克服できないことはない。結局は、介護者の知識と技術が足りないのが摘出につながっているのではないか」と山中は言う。
 山中はかつて、他の施設から「あまりに暴れるので引き取ってほしい」と頼まれ、女性障害者の介護を受け入れたことがある。
 受け入れたばかりの時には確かにたいへんだった。生理中はもちろん、そうでない時でも一日中、騒いでいる。手に取れるものは何でも投げつけ、「職員が危険にさらされることもあったので、隔離したこともあった」という。しかし、つきあっていくうちに次第に原因がわかってきた。「小さいころから親元を離れ、施設にずっと住んでることが原因ではないか。親にあこがれているのだろう」
 いわゆる「施設病」。それからは親のように接触をはじめる。長い年月がかかったが、しばらくたって、その女性の乱暴は影をひそめたという。
「情緒不安定になるのは何も生理だけが原因じゃない。だから子宮をとったからといって、本人にとっても介護者にとっても、すべてが解決するわけではないんです」と山中。
「結局は、根本的な原因をしっかり究明しないと……。その原因も人によって違うしマニュアルがあるわけでもない。介護者自身が障害者とのふれあいの中で、自分で見つけていくしかないんです」。しかし、施設は、生理が原因だと決めつけ、入所者本人の気持ちを理解しようとはしない、のだという。

障害者が恋愛と性を語りはじめた(障害者の生と性の研究会)

これとよく似た例がある。やはり性に関する障害、インターセックス性分化疾患、あるいは半陰陽)である。
出生時、外性器形状異常が発見され、本人の意思もへったくれもなく、両親が相談し、担当医師が判断、手術。「性と障害」は、どちらの例も当の本人は疎外されている。



女性の知的障害といえば、性風俗の問題がある。本人も楽しくて嬉しくてしかたないし、施設になんか行きたくない。お客も店も喜ぶ(山本譲司「累犯障害者」)。
誰も困ってないじゃないか。それが何の問題なの?

それが問題なのだよ。社会に役立たずで迷惑な障害者は、みんな施設に入れろ。隔離しろ。
今はそう思っていても、事故にあったり病気になったり年とったりして、いずれ「施設」に入る。そのときになっても、もう遅いのだ。
「私は正常な大人だ」。もしそうだとして、生まれた子どもが知的障害の女児だったら?

この世界に起こることで、あなたに関係ないことは、ない。
あなたが「関係ない」と見て見ぬふりをすれば、実は「ひじょうに関係がある」と事実が明確になったとき、やはり「無関係な」他人は見て見ぬふりをするのだろうか?